ローマ教皇が配布「焼き場に立つ少年」 写真家が遺した言葉

ローマ教皇が配布「焼き場に立つ少年」 写真家が遺した言葉

爆心地公園に掲げられた「焼き場に立つ少年」のパネル(AFP=時事)

 ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇の来日に伴って注目を浴びたのが「焼き場に立つ少年」と題された1枚の写真。長崎市に寄贈され、いまも原爆資料館に展示されているこの写真を撮影したのは米軍の従軍カメラマンだったジョー・オダネル氏である。

 フランシスコ教皇は2017年の年末、自らの署名と「戦争がもたらすもの」というメッセージを添えて、同写真を教会関係者に配布するよう指示した。どんな言葉よりも雄弁なこの写真を皆で分かち合いたいと思ったのだという。カード裏面には「この少年は、血がにじむほど唇をかみしめて、やり場のない悲しみをあらわしています」という説明が付された。

 11月24日、長崎市の爆心地公園でスピーチを行った教皇は、ジョー・オダネル氏の息子のタイグ・オダネル氏(50)と対面した。タイグ氏が「父の写真を使っていただき、誠にありがとうございます」と伝えると教皇は「使わせていただきありがとう」と語り、タイグ氏に記念のメダルを手渡した。

「『焼き場に立つ少年』の写真がきょう、爆心地に掲げられていたことを誇りに思います。世界中の人がこの写真を見て、『長崎の悲惨な経験を繰り返してはならない』と思いを寄せた瞬間になったのではないかと思う」

 タイグ氏はそうコメントした。

 原爆資料館で戦争の悲惨さを訴える「焼き場に立つ少年」は、1995年5月に初版が発売されたジョー・オダネル氏の写真集『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』(小学館刊)にも収蔵されている。

 ジョー・オダネル氏は1945年9月2日に佐世保に近い海岸に上陸した。空襲による被害状況を記録する命令を受け、日本各地を歩いた。1946年3月に本国帰還。持ち帰ったネガは、二度と開くことがないだろうと思いながらトランクに納めたという。だが、45年後、同氏は翻意する。戦後の日本で目撃した悪夢のような状景を忘却の彼方に押しやってはならないとの思いのもと、トランクを開け、奇跡的に無傷だったネガを現像し、写真展を開催した。

 同書にはまさに焼け野原の日本、市井の子供たち、仮設病院での痛々しい患者の姿、米軍兵士の生活ぶりに至るまでが克明に記録されており、その写真の背景について、同氏の文章が綴られる。

 ジョー・オダネル氏は2007年に鬼籍に入った。一連の写真について同氏の言葉が確認できるのは、この写真集の中だけに限られる。

「焼き場に立つ少年」の脇にはこうある。少し長くなるが引用する。

〈焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。

 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。

 私はカメラファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をピンと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?〉

 ジョー・オダネル氏は、その後、少年を探そうと複数回来日したが少年との再会は叶わなかった。現在に至るまで、この少年が誰なのかはわかっていない。

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