吉田松陰の松下村塾 仲間が集まり盛り上がるだけの場説も

吉田松陰の松下村塾 仲間が集まり盛り上がるだけの場説も

最後の将軍、徳川慶喜 桜堂/AFLO

 明治維新が素晴らしいものであるとの“常識”に疑義を呈したのは『明治維新という過ち』の著者で作家の原田伊織氏だ。氏は明治維新がその後の軍部の台頭を招き、また「官軍史観」が現代社会を歪めていると指摘する。

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 明治維新は、その後の日本の不幸な歴史に直結する。「維新の精神的支柱」とされる吉田松陰ほどウソにまみれた人物はいない。その実態は乱暴者の多い長州人の中でもとりわけ過激な若者の一人に過ぎなかった。

 長州の下級藩士出身の松陰が「維新の志士」を育てたとされる松下村塾は、叔父の玉木文之進が主宰していたものであり、松陰は一時的に塾を借りただけだ。しかも何かを講義したのではなく、仲間内で集まって盛り上がるだけの場だった。

 松陰がひたすら唱えたのは「暗殺」と「天誅」である。彼は老中間部詮勝や大老井伊直弼の暗殺を主張し、武力による幕府転覆を訴えて、藩に対して大砲など武器の支給を願い出たほどである。

 その外交思想は北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、朝鮮を属国として満州、台湾などを領有すべきという、侵略肯定の膨張主義だった。そんな松陰に長州藩自体がほとほと手を焼き、士籍を剥奪して家禄を没収したが、最後まで“暗殺主義”をとり下げず、結局斬首刑にされた。この時、幕府に意向を聞かれた長州藩は、松陰の言動を「暴発」として「斬首やむなし」と回答している。

 維新後、松陰を「神格化」したのは、長州閥の元凶にして日本軍閥の祖である山縣有朋である。山縣ら長州閥が支配する帝国陸軍を核とする昭和前期の日本は松陰の膨張主義をそのまま実践するかのように大陸に進出した。これは決して偶然の一致ではない。

 また、異論を「問答無用」と叩き斬る松陰の天誅思想と全く同様に、昭和前期までの日本は政府要人の暗殺が多く、二・二六事件などのテロが多発した。松陰をはじめとする長州のテロリストが拠り所とした「水戸学」とは“歴史はこうあらねばならない”という、典型的な観念論といえる。このリアリティを欠く観念論が後の皇国史観につながったとみることもできるだろう。

 司馬遼太郎氏は明治維新を賛美するあまり、日露戦争から大東亜戦争終結までの40年間を、「民族としての連続性をもたない時代」として日本史から切り離した。だが帝国陸軍を作り、政治に水戸学を持ち込んで太平洋戦争に突っ走ったのは紛れもなく維新以来の天皇原理主義を押しつけてきた長州閥である。我々は歴史の一部分を都合よく除外するのではなく、連続するものとして直視する必要がある。

聞き手・構成■池田道大

※SAPIO2017年9月号

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