現代芸術の本質は「社会問題になること自体を目的とした愚行」

現代芸術の本質は「社会問題になること自体を目的とした愚行」

田中一村のびょうぶ絵(写真/共同通信社)

 美術や芸術について論じるのは難しいが、なかでも現代芸術については難解だ。評論家の呉智英氏が、現代芸術の本質とは何か、芸術とはいかなるものかについて論じる。

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 コロナ禍はさまざまな分野に影を落としている。

 夏も終わろうとしている今、昨年まで各地で催されてきた花火大会のほとんどが中止に追い込まれている。むろん三密を避けるためだ。一部の地方では、開催場所を予告せずハプニング的に何発かの花火を打ち上げることも行なわれた。これはこれで面白い試みではあるが、やはり本来の花火大会に較べれば魅力は半減である。

 花火大会は例年日本中で約四百箇所で開催されている。恒例化し親しまれすぎているために気づかないが、これは壮大な「現代芸術」である。三年前まで私が住んでいた隣町では、毎年六月に川原で花火大会が開催される。費用は協賛金と公費でまかなわれるため観覧料不要で、その日は町の人口が二倍になるほど人が集まる。私もほぼ毎年鑑賞しているが、その見事さには感動する。花火の発色も形も毎年進化し、全体のストーリーもコンピューター制御で緻密に作られ、伝統技術の上に花開いた現代芸術だと実感した。

 現代芸術と言えば、ちょうど一年前、昨年八月の「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」を思い起こす読者も多かろう。私も本欄でこの愚行を強く批判しておいたし、今なおこの愚行の責任をめぐって議論が続いている。

 これら現代芸術なるものは、しばしば「実験的」と表現される。この言葉は現代芸術の本質を言い当てている。今コロナワクチンの開発が急がれているが、いずれも実験段階であり、製品となったものはない。近い将来それが成功したとしても、その陰には廃棄物となった「実験作」が累々とある。これを製品として流通させるわけにはいかない。しかし、世の中には悪賢い奴がいて、これを横流ししたりして社会問題になる。この社会問題になること自体を目的とした愚行が現代芸術なのだ。現代芸術は難解だと言われるが、そんなことはない。ほら、こんなに分かりやすいじゃないの。

 私は、硬直化し惰性に流されている芸術界がそれでいいと言っているわけではない。旧弊な芸術界に挑戦し排除された悲運の芸術家はいる。近年再発見された例では、奄美大島で没した田中一村やロウソクの絵で知られる高島野十郎だ。実は野十郎の『月』を私は既に一九六六年に見ている。しかも手に取って吸い込まれるように見ている。早稲田大学の川崎浹(とおる)先生の研究室でだ。川崎先生と野十郎の奇蹟のような交流は先生の『過激な隠遁』に詳しい。

 この田中一村にしろ高島野十郎にしろ、作品そのものが感興を呼び起こす。一方、総じて現代芸術には、既存の芸術にケンカを売ってるんだぞというあさはかな理屈しか見えない。理に落ちている。

 田中一村や高島野十郎は再発見された。しかし、花火の魅力は再発見の必要さえない。既にここにあって進化しつつある芸術なのだ。それがコロナで経済的に大打撃を受けている。花火ファンだった山下清も泉下で嘆いているだろう。

●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会理事。近著に本連載をまとめた『日本衆愚社会』(小学館新書)。

※週刊ポスト2020年9月4日号

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