沖縄返還&ノーベル賞でも佐藤栄作が名宰相と呼ばれない理由

沖縄返還&ノーベル賞でも佐藤栄作が名宰相と呼ばれない理由

7年8か月の政権は苦悩も多かった(時事通信フォト)

 安倍首相は大叔父・佐藤栄作首相の連続在任記録(2798日)を抜いた。その佐藤は沖縄返還を成し遂げ、日本人でただ1人ノーベル平和賞を受賞しながら、「大宰相」と呼ばれることはあっても、「名宰相」との評は少ない。なぜか。

 佐藤政権は日本の転換点にあたり、内政では公害や住宅不足など高度経済成長の歪みに直面し、外交では米国との関係に苦しみながら国を運営した。時代の転換点に総理の任にあるという点は安倍も同じだ。大叔父の政治は姪孫と何が違い、どこが似ているのか、政治ジャーナリスト、武冨薫氏がレポートする。(文中一部敬称略)

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 佐藤の退陣表明会見(1972年6月17日)の異様な状況はテレビで生中継された。

「出てください。構わないですよ」。テーブルをドンと叩く。内閣記者会の記者が「出よう、出よう」と全員退出すると、1人残った佐藤はテレビカメラに向かって「国民に告ぐ」という退陣の弁を語り続けた。

 翌日の日記に、佐藤はこう書いている。

〈昨日の今日の事で、各社朝刊は一斉に小生の批判の記事で紙面をつぶす。いつまでつづく事やら〉(『佐藤栄作日記』)

 マスコミ嫌いで知られ、寡黙ながら威厳のある総理だった。大蔵官僚時代に佐藤内閣の官房長官秘書官を務めた藤井裕久・元財務相が語る。

「厳格で怖い人でしたから、閣議のときも、閣僚は皆、直立不動で総理を迎えたものです」

 しかし、自民党総裁に4選(当時は任期2年)し、沖縄返還を成し遂げた佐藤は、政権の終盤はニクソン・ショックや日米繊維交渉の泥沼化、沖縄返還時の密約の発覚などで民心は離れ、ボロボロで身を退いた──。

 佐藤は安倍晋三の祖父・岸信介の5歳下の実弟だが、政界では岸と政治路線が異なる吉田茂首相に重用された。吉田が後継者として官僚出身の政治家を育てた、いわゆる「吉田学校」出身者の優等生だった。

 首相に就任したのは東京五輪の翌月だ。前任の池田が「所得倍増」を掲げて日本を高度経済成長の波に乗せ、五輪の大成功を花道に退陣したのに対し、跡を継いだ佐藤内閣は苦難の連続だった。

 就任早々、五輪後の不況に直面する。日本政治外交史が専門で『佐藤栄作―戦後日本の政治指導者』などの著書がある村井良太・駒澤大学法学部教授が語る。

「高度経済成長政策でオリンピックが終わる頃には日本経済はガタガタだった。日本特殊鋼や山陽特殊製鋼の倒産や株価急落で大手証券会社が軒並み経営悪化、証券恐慌とも呼ばれた。佐藤内閣は山一証券への日銀特別融資や戦後初の赤字国債の発行による大減税などで危機を乗り切った」

 そこから日本経済は成長率が年平均10%を超える「いざなぎ景気」に向かい、政権は安定する。

 ちょうど安倍政権(第二次内閣)が発足当時、円高による輸出不振と長期デフレによる株価低迷に苦しんでいた日本経済を「異次元の金融緩和」で円安政策に転換し、輸出振興と株価上昇をもたらして長期政権の軌道に乗せた経緯と似ている。どちらも政権の前半は政策的に成功を収めた。

経済成長と公害問題の狭間で

 前出の村井氏は、長期政権には2種類あると指摘する。総理を複数回経験することで増える通算在職日数は、「首相としての成長を計る」指標であり、それに対し連続在職日数は、「時代とどう対話し、その時代の課題にいかに対応したか」の指標となるという。

 安倍首相は通算で桂太郎を抜き、そして連続でも佐藤を抜いて歴代最長となった。しかし、時代の課題に成果をあげるのは容易ではない。安倍内閣は内政ではアベノミクスをはじめ、女性活躍社会、一億総活躍、人づくり革命などのスローガンを次々に掲げたが、いずれも掛け声倒れだ。

 一方の佐藤の看板政策は「社会開発」だった。柱は住宅供給と公害対策である。

 当時の日本は池田内閣の高度成長路線によって農村から工業地帯に労働者が大量供給され、都市部では住宅不足が深刻化した。佐藤は「一世帯一住宅」を掲げて1965年に「地方住宅供給公社法」を成立させ、1970年までに国と地方を合わせて680万戸の住宅建設をめざす「第一期住宅建設五か年計画」をスタートさせる。これによって多摩ニュータウンをはじめ全国で団地建設が進められ、都市郊外にベッドタウンが広がっていった。

 また、工業化で水俣病など4大公害の被害が広がり、その対応に追われた佐藤は1967年に「公害対策基本法」を成立させた。

 住宅政策も公害対策も、経済成長の歪みがもたらした社会問題であり、佐藤内閣は約8年間を通じて高度成長の“負の遺産”の対応に迫られた。

 しかし、佐藤の社会開発は成功したとは言えない。住宅難は解消できず、狭い住宅は欧州から「ウサギ小屋」と呼ばれた。公害対策も企業活動に厳しい規制をかけることはできなかった。政府の被害者への補償は限定的で、訴訟が長く続くことになる。村井氏はこう言う。

「公害を念頭においた佐藤政権の『社会開発』の一般的な評価は、掛け声倒れというものです。経済開発優先か、公害対策優先かという議論になって、国民の多くは、公害反対の住民運動や公害対策を優先しようとする革新自治体のほうを支持した。しかし、佐藤が経済成長とのバランスをとりながら1970年には『公害関連14法案』を成立させ、1971年に環境庁を発足させた姿勢は評価できると思う」

 経済成長を維持しながら公害の解消に取り組む。内政の矛盾に苦しみ続けた佐藤は、沖縄返還という外交成果に活路を見出そうとする。

「非核三原則」の裏で核密約

 佐藤と安倍は、外交の柱に領土返還交渉を掲げたことでも共通する。

「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない」。佐藤は首相就任翌年の1965年、沖縄を訪問してそう演説し、7年後の1972年5月に沖縄返還を実現させた。

 安倍は日露首脳会談後の会見(2018年11月14日)など多くの機会にこう語ってきた。

「領土問題を解決して、平和条約を締結する。私とプーチン大統領の手で必ずや終止符を打つ」

 だが、北方領土返還のメドは全く立っていない。無論、成果を単純に比較することはできない。米国は沖縄に対する施政権を有していたが、日本の潜在主権を認めていた。それに対し、ロシアは北方領土の領有を主張しており、相手も状況も違うからだ。

 佐藤の沖縄返還交渉は沖縄の米軍基地から爆撃機が飛び立つベトナム戦争のさなかに行なわれた。

 国民の反戦運動が高まり、国会では自民党と社会党の左右対立が激化する中、ベトナム戦争を支持して“タカ派”と見られていた佐藤は、批判をかわすために「武器輸出三原則」や「非核三原則」を打ち出し、沖縄返還交渉でも「核抜き、本土並み」という条件を掲げて平和路線を鮮明にする。

 1970年の最初の防衛白書には「わが国の防衛は専守防衛を本旨とする」と盛り込まれた。前出の藤井氏が語る。

「非核三原則は核兵器を否定するという意味で、米国と対立する理念です。なおかつ、日本は米国の核の傘に入って守られながら、負担を米国に委ねるという点でも利害が対立する。沖縄返還交渉で米国に“返してほしい”と頭を下げ、同時に非核三原則の理念で米国と対立軸を持ち、日本独自の道をつくった。佐藤さんの政治感覚は見事だった」

 その裏では、佐藤は沖縄返還をめぐるニクソン米大統領との首脳会談で、“有事の際には日本側が沖縄への核持ち込みを認める”という内容の秘密合意文書を交わして米国を納得させた。

 非核三原則はあくまで理念であり、現実の政治や外交を縛るものとは考えていなかったことがわかる。

 佐藤は非核三原則でノーベル平和賞を受賞し、沖縄返還と並ぶ功績と評価されている。一方、佐藤時代の非核三原則や武器輸出三原則が、結果的に、「平和憲法さえ守れば国は安全」という思想を国民の間に定着させたという批判も少なくない。

 佐藤の平和主義についての本音がうかがえるエピソードがある。「プラハの春」と呼ばれたチェコスロバキアの変革運動にソ連が軍事介入した直後(1968年9月)、佐藤は岐阜での講演で「国を守る気概」を訴えた。佐藤の総理秘書官・楠田實の日記によると、3日後、佐藤は公用車の中でこう漏らしている。

「岐阜であれだけの話をしたのだから、一人ぐらい核を持てというものがあってもよさそうなものだな。いっそ、核武装をすべきだと言って辞めてしまおうか」(『楠田實日記』)

 もう一つ付け加えれば、佐藤は沖縄返還は実現させたものの、同時に行なわれていた日米繊維交渉がこじれ、日米関係は悪化。怒ったニクソンは日本に事前通告なく中国との国交交渉に動き、8月16日にドルと金との兌換停止を発表する。この2つのニクソン・ショックで佐藤は外交的に危機に陥り、経済的にも「いざなぎ景気」は終焉を迎えた。

田中角栄に裏切られて

 内政でも外交でも“矛盾の両立”を目指した佐藤の政治理念は非常にわかりにくい。評価が一定しないのはそのためだろう。

 だが政治手法については極めて“明快”だったといわれる。それは7年8か月もの長期政権の原動力でもあった。

「内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる」

 そう喝破した佐藤の真骨頂は、「人事の佐藤」と呼ばれる人物眼と、適材適所の人事の巧みさにあった。

 佐藤がとくに重用したのが叩き上げの田中角栄と、大蔵官僚出身の福田赳夫、いずれも後に総理となる対照的な2人だった。

 前述した政権発足当初の五輪不況では、田中蔵相が日銀の慎重論を押し切って山一証券への日銀特融を決めて急場をしのぎ、その後、蔵相を福田に交代させて赤字国債発行と減税を行なわせた。政権末期に日米繊維交渉がこじれた際には、通産相の田中と外相の福田が交渉をまとめ、佐藤は危機を脱した。

「佐藤は内閣改造のたびに三角大福中と称された三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘という次代のリーダーを適材適所でバランス良く要職に起用して、宮沢喜一、竹下登というその次の世代のリーダーにも目を掛けた。いずれも総理になる人材です。国を担える政治家を育てて自民党長期政権の基礎を築き、日本の政治を安定させた」(藤井氏)

 そうした人事のベースにあったのは「早耳の佐藤」の情報力だ。佐藤内閣で総理番記者から官邸キャップを務めた政治評論家の屋山太郎氏が振り返る。

「佐藤さんは情報量がすごかった。側近だった倉石忠雄(元法相)に聞いた話では、人事について佐藤さんから『農林大臣は誰がいいかな』と尋ねられて名前を挙げたところ、『あいつは痔の手術をしてる。予算委員会で長時間(閣僚席に)座ってられるかな』と。

 いろんなところにアンテナを張っていたから、政治家の人物像をつかんでいるし、党内の誰かが寝首を掻こうと思っても、情報は筒抜けで何もできなかったでしょう」

 しかし、「人事の佐藤」も、最後の後継者選びで失敗する。佐藤は福田を後継総理に据えようとしたが、それに反発した田中が佐藤派を割って総裁選に出馬し、勝利した。その結果、佐藤はキングメーカーとしての力も失った。長期政権の総理は引き際が難しいのだ。

※週刊ポスト2020年9月11日号

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