令和の成果主義「ジョブ型雇用」ブームに漂う”負の既視感”

令和の成果主義「ジョブ型雇用」ブームに漂う”負の既視感”

職務によって働き方や待遇の格差が生まれる「ジョブ型雇用」

 日立製作所やKDDI、富士通などで本格的に導入方針が示された「ジョブ型雇用」。社員の業務内容によって賃金を決める制度で、適材適所といえば聞こえはいいが、“体のいい成果主義の再来”との指摘もある。果たして令和時代のジョブ型雇用はどこに問題があるのか──。同志社大学政策学部教授の太田肇氏がレポートする。

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 コロナ禍で緊急避難的に取り入れられたテレワークを、コロナ終息後も定着させようとする動きが広がっている。ネックになるのが従来の集団主義的な働き方であり、日本式の「メンバーシップ型」雇用から欧米式の「ジョブ型」雇用に切り替えるべきだという主張がビジネス界で主流を占めるようになってきた。

 たしかにテレワークを定着させるうえで「メンバーシップ型」に問題があることは誰の目にも明らかだ。しかし、だからといって「ジョブ型」へ切り替えればよいというのはあまりにも安易すぎはしないか。

 私は「ジョブ型」の大合唱を聴くたびに、かつて日本企業を席巻した成果主義の記憶がよみがえる。

 周知のように1990年代の後半、日本を代表する企業が先を競うように成果主義を導入し、中堅企業、そして中小企業や公的機関までもそれに追随した。ところが導入してみると、当初に期待したような効果が上がらないばかりか、次々と不都合や不満が表面化し、多くの企業が短期間のうちに大幅な見直しや事実上の撤回を余儀なくされた。

 さらに1970年代まで遡れば、「職務遂行能力に応じて処遇する」という趣旨で取り入れられた職能資格制度も、制度の趣旨に添った形で定着させることができなかった点では、成果主義と同じだといえよう。

 どちらの制度も、雇用を取り巻く社会のシステムが変わらないなかで、制度だけ取り入れてもうまくいかないことを物語っている。

「ジョブ型」導入を阻止する幾重もの壁

 今回の「ジョブ型」の前にも、社会システムの厚い壁が幾重にも立ちはだかっている。

 第1にあげられるのは、労働市場の壁である。一人ひとりの職務(ジョブ)内容を明確に定義して契約する欧米企業では、その職務をこなせなくなったり、必要がなくなったりしたら最終的には解雇される。

 例え解雇されても外部労働市場が発達している欧米では、他の勤め先を比較的見つけやすい。それに対してわが国では労働市場が未発達なので、解雇されたら満足できる就職先を見つけることが難しい。しかもわが国ではいわゆる「解雇権濫用の法理」によって雇用が厚く保障されているので、その職務が不要になったからといって直ちに解雇することはできない。

 第2は、年功序列という慣行の壁である。年功序列を基本にしたわが国の雇用慣行のもとでは、年齢・勤続とともに給与も職位も上がることが期待されている。

 一方「ジョブ型」の下では同じ仕事を続けている限り、給料もポストも上げる理由がない。経験を積み、年齢が上がったから昇給や昇進をさせるというわけにはいかないのである。果たしてそれを日本人、日本社会が受け入れるだろうか?

 第3は、労働法の壁である。職務で契約する以上、職務さえこなせば働く時間で管理される理由はないはずだ。ところが労働基準法では、使用者が労働者を労働時間で管理することが前提になっている。つまり一部の職種を除き、時間ではなく成果で働くということが認められていないのである。

 第4は、労使関係の壁である。「ジョブ型」を採用すれば当然、社内でも職務によって働き方や待遇の格差が生まれる。欧米のように職業別、もしくは産業別に組織された労働組合のもとでならともかく、わが国のような企業別労働組合がそのような格差の拡大を容認するとは思えない。まして背後に人件費抑制という経営側の思惑がちらついているとあっては、いっそう強く導入に反対するだろう。

 さらに、企業規模の問題もある。わが国では中小企業が大きな割合を占めている。その中小企業では、一人である程度まとまった仕事を受け持つか、複数の仕事をこなす多能工的な働き方が求められている。その点でも、狭く限定された特定の職務を割り当てる「ジョブ型」は馴染みにくいのである。

ジョブ型ブームは何を遺すか

 職能資格制度や成果主義も、こうした日本型社会システムの壁にぶつかったのだ。

 職能資格制度は、年功ではなく職務遂行能力をあらわす社内の「資格」に基づいて処遇することを標榜したが、労働市場が未発達な中では能力の価値を表す客観的な基準が見つからない。

 そこでやむなく年齢や経験年数という、ある意味で公平かつ客観的なものを能力の代理指標として用いることになった。強引であるのを承知のうえで、年齢や勤続に応じて能力も高まると見なしたのである。こうして皮肉にも、年功制を見直すはずの制度が、結果として年功制を文字どおりの「制度」として定着させてしまったのだ。

 一方、成果主義は成果という客観的な指標に基づいて処遇を決めようとするものだったが、導入の前提条件が欠けていた。

 まず人事部主導で配属が決まるわが国では、本人の意に反した仕事に就く場合が少なくない。そのため仕事の成果に対して本人の責任を問うことが難しい。また一人ひとりの仕事の分担が明確でないため、個人の成果を正確に把握することができない。

 当時のサラリーマン川柳に、「成果主義、最終評価は好き嫌い」という句があったが、あえて評価に差をつけようとすると、評価者の主観や裁量が入り込むのを避けるのがそれだけ難しかったわけである。もちろん上述したように成果が上がらないからといって容易に解雇はできないし、年功的な要素を完全に排除することも難しい。労働法上の制約もある。

 こうした厚い壁にぶつかった結果、職能資格制度も成果主義の導入も、人事評価や処遇において能力・成果の要素を多少濃くするという落としどころ、すなわちマイナーチェンジで終わった。「ジョブ型」雇用についても、導入を検討する中で壁が見えてきたためか、さっそく「日本式ジョブ型」といった玉虫色の表現を目にするようになった。

 職能資格制度にしても成果主義にしても狙った目標を十分に達成したとは言いがたいが、前者は年功制にお墨付きを与え、後者は評価者の裁量をむしろ広げるという想定外の副産物を遺した。さて、「ジョブ型」ブームはいったい何を遺すだろう。

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