「一緒に死のう…」わが子の胸を刺した母 凶行の引き金は「あの病」だった

「一緒に死のう…」わが子の胸を刺した母 凶行の引き金は「あの病」だった

「一緒に死のう…」わが子の胸を刺した母 凶行の引き金は「あの病」だった

土曜日の朝。部屋で寝ていた少女は、枕元に人の気配を感じて、目を覚ます。

「あ、ママ」

ベッドの脇に立っていたのは、少女の母親。

起きたばかりの娘に、母親がつぶやく。

「ゴメン、ママもう無理。一緒に死のう…」

そして娘の胸に、握りしめた包丁を振り下ろした−

ことし4月、東京都内で起きた殺人未遂事件。40代の母親が無理心中を図り、高校生の長女と大学生の長男を刺し殺そうとしたとして、逮捕・起訴されました。

捜査当局によると、犯行に使われたのは、刃渡り20センチの刺身包丁。複数回刺されたという長女は、左胸の傷の深さが刃渡りと同じ20センチにも達し、傷口からは呼吸するたびに血が吹き出たといいます。

妹の悲鳴を聞いて駆けつけた長男も、母親に胸をひと突きされました。長男は胸に刺さった包丁と母親の手をつかんで包丁を引き抜き、母親を屋外へと押し出して、警察と消防に通報。母親は駆けつけた警察官によって確保され、2人の子どもは病院へと救急搬送されました。

突き刺した刃がわずかに心臓や肺を逸れていたことから、長女は奇跡的に一命を取りとめたものの、全治1か月の重傷を負い、長男も右の肺が傷つくなど全治11日の大けがをしました。

なぜ、母親は子どもを殺そうとしたのか−

その理由を知りたいと思い、私は裁判所に向かいました。

■「一家全員が…」事件の引き金は”あの病”だった−

11月4日。東京地方裁判所で行われた、裁判員裁判の初公判。

法廷に着くと、扉には「満席のため入れません」の札。扉越しに耳を澄ますと「事実関係はいずれも争わない」と、母親の弁護人の声が聞こえてきました。母親が、自身の罪について認めたのです。

続く内容を聞き漏らすまいと、扉に耳を押しつけたとき、事件のきっかけとなったある事実が明らかになりました。

「被告人の夫は事件の直前、ことしの4月18日に突然亡くなりました。新型コロナウイルスによる肺炎でした」

「その後、被告人も長女も新型コロナに感染し、長男も感染しました。1家4人全員が、新型コロナに感染したのです。今回の事件はこのことが、動機につながっています」

事件の引き金は、新型コロナだったというのです。

■悲しみ、コロナ、さらに降りかかる困難− 母親の糸は切れた

その後、席を立った傍聴人がいたため法廷に入れた私は、そこで初めて母親の姿を目にします。

黒のス−ツを着た、肩にかかるくらいの髪の長さの、細身の女性。刺身包丁を子どもの胸に突き刺すようには、到底見えませんでした。

コロナで夫を失い、自らも感染したことが、なぜ事件につながったのか−

証言台に立った母親の口から、少しずつ経緯が語られていきます。

弁護人「夫の死後、あなたも新型コロナに感染したのですか」

母親「夫が亡くなった翌日に死因がコロナだったと判明して、私と娘は体調が良くなかったのですぐに病院に行き、それで感染したことが分かりました」

弁護人「入院はしなかったのですか」

母親「保健所から自宅療養するようにと言われました」

弁護人「コロナ感染が分かってからの体調は」

母親「倦怠感と発熱で、とにかくだるかったです」

弁護人「自殺を思いついたのはいつごろですか」

母親「1人でぼ−っとしているときに、しんどい、死にたいと」

弁護人「それは、どうしてですか」

母親「夫が、心の支えが急に亡くなり、こう…さみしくて」

弁護人「あなたにとって夫はどんな存在だったのですか」

母親「とても家族思いで、仲良く過ごしていて、いつもどっしり構えて。歳も6つ上で頼りがいがあって、いつも正しい決断をする、心の支えでした」

コロナに感染し体が弱るなか、夫を失った悲しみで、将来を悲観するようになった母親。

追い打ちをかけるように、ある問題がふりかかります。

弁護人「家計や預貯金の管理は夫に任せきりだったのですか」

母親「はい。結婚後からずっとそうでした。夫の死後、大量の事務処理があり、それまで家計に関わっていなかったから、書類の場所などを全く把握していなくて、パニックになってしまって」

弁護人「将来の不安があったのですか」

母親「ありました。家計を把握していなかったので、貯金がないと思って、収入も一切なくなると思って、やっていけないと」

弁護人「誰かに相談しましたか」

母親「いいえ、相談しても結局自分でやらないと、と思っていました」

“心の支え”だった夫を亡くし、コロナにも感染し、心身ともにギリギリの状態のところに慣れない事務手続きがふりかかって、張り詰めていた糸が切れてしまった母親。そして−

弁護人「自殺するしかないと強く決意したのはいつですか」

母親「当日の朝、7時半くらいです」

弁護人「2人の子どもを道連れにしようと思ったのは、いつですか」

母親「死にたいと思ったとき、子どもを残したら、自分でも分からない大量の事務手続きで私以上に苦労すると思い、苦労をかけたくないと思って、道連れにしようと思いました」

弁護人「あなたにとってお子さんは、どういう存在ですか」

母親「…小さいときから大切に育ててきた、かけがえのない存在でした」

弁護人「お子さんが憎いという感情は」

母親「全くありません」

弁護人「自分が守っていこうという気持ちは」

母親「もう無理、と思ってしまいました」

直面した困難に絶望して自殺を考え、その困難を子ども達に背負わせたくないとして子どもを殺そうとした。母親はそう主張したのです。

■「刑務所に入ってほしくありません」「今でも、大好きです」

弁護人「娘さんが助かったと聞いたときは、どう思いましたか?」

母親「よかったと、生きていてくれてありがとうと思いました」

弁護人「事件当時のことを振り返ってどう思いますか?」

母親「異常だったと思います。周りが全く見えていませんでした」

弁護人「今回の事件を起こしてしまった自分のことをいま、どう考えていますか?」

母親「私は人に頼りきりの生活をしていました。今後は強くなって、子どもに尽くしていきたいと思います」

罪を認め、深く反省している、子どもに対して償いたいと話す母親。

その子どもたち自身の心情も、裁判のなかで読み上げられました。

長女の検察調書から

『母は明るい性格ですが、人に頼りきりで、何不自由ない生活を送っていました。父の死で、1人で全てやらなければいけない状況に追い込まれました。冷静に対処する能力がなかったのだと思います。刑務所には入ってほしくありません』

長男の弁護側提出書面から

『母は私たちに愛情を注いでくれた。いつも優しく気遣ってくれて、今でも大好きです。母には早く戻ってきて欲しいです』

■「関係は戻らない」厳しい言葉のはてに、裁判長は−

母親が罪を認めているため、今回の裁判の焦点は「量刑」−どの程度の罰が必要か、という判断でした。母親の弁護側は、有罪でも一定の期間は刑を猶予される「執行猶予」付きの判決を求め、母親が真摯に反省し、更正に向けた努力を続けていること、子ども達も刑罰を望んでいないことを訴え続けます。

判決を下すのは、3人の裁判官と、6人の裁判員たち。その中心となる神田大介裁判長が、この日の最後に、母親に問いかけました。

裁判長「あなたは子どもに手紙を出したと言いましたね。手紙は届いたの?」

母親「手紙には私はこんな気持ちだったということを書きました。事件のことには触れずに、私がこういう気持ちだったということと、ごめんなさいと、お母さんしっかり頑張るよと」

突然、裁判長の表情と語り口が厳しさを帯びました。

裁判長「こんな気持ちだったというのは、言い訳じゃないですか」

母親「…そうですね」

裁判長「あなたは決して許されない、最悪の選択をしたんです。それは分かりますよね?」

母親「…はい」

裁判長「あなたは事件のとき苦しかったと思うよ。でもこれから先、3人の暮らしに戻っても、子どもたちとわだかまりのない関係になることは、ないと思う。これからのあなたは、事件の時より、もっと大変だと思う。事件の時よりも、もっと絶望することもあると思う。それにあなたは、本当に耐えていけるの?」

母親「…耐えられるようにしっかり頑張るしかないです。…私がしっかりして、もう心配をかけないようにしないと…」

裁判長「それがあなたの唯一できる責任の取り方なんですよ。大変なことだよ?分かってる?」

翌日。2日目の裁判で、検察官が母親に対して求刑したのは「懲役5年」。

「確実に心臓を刺せるよう細身の刺身包丁を凶器に選ぶなど、犯行が強い殺意に基づいているうえ、短絡的、身勝手な考えで子どもを道連れにしようとした」と指摘したうえで、「夫の急死という同情に値する事情はあるものの、責任は重大だ」と、母親は実刑をうけるべきだとしたのです。

子どもたちに瀕死の重傷を負わせるという母親の罪自体は、許されるものではない。

一方で、母親も、子どもたちも、再び元の家族に戻ることを望んでいる。

罪に対する刑罰の必要性と、家族の更正の可能性。裁判所はどちらを重く考えるのか。11月9日、判決が言い渡されました。

裁判長「主文。被告人を懲役3年に処する。この判決が確定した日から5年間、その刑の執行を猶予する」

下されたのは、執行猶予付きの判決。

神田裁判長は次のように、理由を読み上げました。

「被告人の行為は、到底許されるべくもない、まさに最悪の選択であった」

「他方において、長男は被告人の追い込まれた精神状態を思いやり、これまで愛情を注がれ育てられたことへの感謝の気持ちも述べた上、早く戻ってきて欲しいなどの心情を表し、長女もまた、一緒に生活したいなどとの心情を表している」

「被告人については、直ちに刑務所に収容するのではなく、子どもらへの償いと、関係性の修復に努めていく機会を与えるのが相当である」

判決文を読み終えると、裁判長は「初公判の時にも言ったけど」と前置きして「説諭」とよばれる、裁判長自身の思いを、母親にかけ始めました。

「どんな事情があったにしても、あなたは絶対やってはいけないことをやったわけです。これから、罪の現実に向き合い、償いをすることは簡単なことではなく、もっともっと大変で、いろいろ悩むことがあると思います。あなた自身がしっかりしていくことしかできない。そう、子ども達も思っていると思います」

そして裁判の最後に、「絶対に」という言葉に力を込めて、こう声をかけました。

「子どもとの絆は、絶対に切れないから」

どんな苦しいことがあっても、あなたには守るべき子どもがいる。その子どもがあなたを守ってくれる−そんなメッセ−ジが、静かに心に残りました。

社会部 代田直章(裁判担当)(20日9:00)