「9・11」90階の地銀支店、脱出10分後に職場が崩落…2001年9月[あれから]<16>

「9・11」90階の地銀支店、脱出10分後に職場が崩落…2001年9月[あれから]<16>

9.11 90階から逃げた邦人

「9・11」90階の地銀支店、脱出10分後に職場が崩落…2001年9月[あれから]<16>

(写真:読売新聞)

 あの日、ニューヨークには抜けるような青空が広がっていた。前日の雨が空中のチリを一気に洗い流したかのように清々しい朝だったと、中国銀行(本店・岡山市)のニューヨーク支店長だった久保津敦雄さん(64)は思い返す。

 その青い空を切り裂くようにして、ハイジャックされた旅客機が世界貿易センタービルに突っ込んできた。90階にあったオフィスで、久保津さんは叫んだ。

 「全員、火の中を通れ!」

 脱出後、10分ほど経っただろうか。さっきまで自分たちがいたビルが、轟音をたてて崩れ落ちた。

 「あの出来事は決して忘れてはならない。ただ、とらわれてもいけない。だから、前を向いて生きてきました」。20年後の11日、久保津さんは記者の問いに答えて、こう言うのだった。(社会部 米山理紗)

■書類放り出し「逃げるぞ」

 今思えば、すぐに逃げるという判断ができたのは、天(あま)の邪鬼(じゃく)な自分の性格が幸いしたのかもしれない。

 2001年9月11日。前の晩、日本からやって来た知人をもてなして、つい飲み過ぎた。二日酔い気味のまま、久保津(くぼつ)敦雄さん(64)=当時44歳=は、マンハッタン島にそびえる110階建ての世界貿易センター(WTC)の北棟90階にある職場に出勤した。

 岡山市に本店を置く中国銀行のニューヨーク(NY)支店。この年の6月、久保津さんは支店長に昇進したばかりだった。

 窓ぎわの支店長席にカバンを置いて、部下に業務の指示を出したその直後。

 午前8時46分、キーンという音のあと、ドンと車が追突したような衝撃があり、窓の外に巨大な「火の玉」が膨らんだ。

 飛行機事故だ。そう思った瞬間、自分のものと思えない大きな声で叫んでいた。

 「全員脱出! 逃げるぞ!」

■避難手順よりも人命を優先…階段駆けおりる

 非常時の避難マニュアルでは、まず情報収集し、重要書類を金庫に入れると定められていた。でも、その手順を全部すっ飛ばして、とにかく逃げることにした。

 「ヘルメット、マスク! 早うせい!」

 1993年にWTCの地下駐車場で爆弾テロ事件が起きたのを機に、オフィスの避難用具は拡充されていた。出社していた部下7人に装着させると、炎を飛び越え、非常階段に走った。

◇  若い頃から、自分なりに考えて「違う」と思えば、ルールから多少外れても意志を貫くところがあった。

 たとえば、高校1年の夏休み初日。英語の補習授業で、何かのきっかけで教師に「出て行け!」と怒鳴(どな)られた。理不尽さを感じた久保津さんは、本当に教室を出て行った。それからその教師の補習には一切、顔を出さなかった。

 代わりに自分で英語を猛勉強し、得意科目と呼べるまでに上達。「海外に行ける」と聞き、中国銀行への入行を決めた。

 その中国銀行は1991年、NY支店を開設。400メートル以上の超高層ビルが二つ肩を並べるWTCには、世界中から集まった銀行や証券会社、法律事務所がひしめいていた。

 そこに、国際テロ組織「アル・カーイダ」のハイジャック機が突っ込んだ。1機目が激突したのは北棟の93〜99階。久保津さんたちがいた90階とは、ほんの数階の差だった。

◇  その頃、日本ではテレビの生中継が始まった。岡山県倉敷市の自宅にいた久保津さんの妻・典子さん(65)=当時45歳=にとって、見覚えのあるビルが映し出されていた。

 2か月前、3人の子供を連れて、ニューヨークで単身赴任中の夫の職場を見てきたばかり。黒煙が上がるあの辺りは、ちょうど支店がある付近ではないか……。

 急いで支店に電話すると、リーリーという呼び出し音が鳴った。誰も出ない。「呼び出し音が鳴るということは、オフィスへの直撃じゃないはず」。典子さんは無事の一報を待つと決めた。

◇  午前9時3分、2機目がWTC南棟に突っ込んだ。世界はこれが飛行機事故ではなく、テロだと気づく。

 しかし、久保津さんたちは知るよしもない。北棟の非常階段を30階まで下りた時、「ちょっと通してください」と、酸素ボンベをかついだ消防士たちとすれ違った。後に、こうした消防士の中から犠牲者が出たと知った。

 午前9時59分。9階まで来た時、ズズズとビルが大きく揺れた。南棟の崩落だ。全員がパニック状態となったが、3階から下は黒煙が渦巻いて進めない。わけも分からずフロアを駆けると、明かりが見えた。出口だった。

 外はしんと静かだった。久保津さんはぼんやりと、いま下りてきたビルを見つめた。するとそのビルが傾き、警察官らが「逃げろ!」と叫びながら走ってくる。とっさに別のビルの隙間に身を隠した。

 午前10時28分、北棟は十数秒で崩壊した。脱出から約10分。マニュアル通り書類の整理をしていたら、おそらく命はなかっただろう。

 脱出から2時間後。数人の部下を家に帰し、久保津さんと部下1人は、避難先の三和銀行(現三菱UFJ銀行)にたどり着いた。

 「頭の上からつま先まで、全身が灰色の粉じんまみれだった。『よくぞ生き延びた』と、胸が締めつけられた」。三和銀行のNY支店長だった中村雅信さん(75)は、当日の姿を鮮明に覚えている。

■すぐ業務再開、心を守るためあえて休まず

 自分たちの仕事場がテロの標的となった。膨大な数の人が犠牲になった。その夜、足はパンパンで体は疲れ切っているのに、ビールを飲んでも、日本酒をあおっても、眠れない。恐怖と憤りと極度の混乱の中で、久保津さんは、一つのことを心に決めていた。

 〈とにかく仕事をしよう〉

 翌12日。三和銀行の会議室を借り、朝一番で部下全員を集めた。「ゼロからのスタートじゃけど、前を向いていこうな」と呼びかけた。

 テロのショックでがっくりと気落ちし、今にも心が潰れてしまいそうな部下もいた。久保津さんは仕事以外のことを考えられないように、あえて負荷をかけた。オフィスが消え去ってパソコン1台も残らなかったため、幸か不幸か、仕事は山ほどある。毎朝、その日の業務目標を決めさせ、夕方には日誌で報告させた。

 支店では若手の行員だった田野哲也さん(54)=当時34歳=は、あの時、窓越しに、ビルに突っ込んでくる旅客機の腹を見た。階段を下りる途中の人混みで久保津さんとはぐれ、1階で南棟の崩壊に巻き込まれた。粉じんの爆風に襲われてうずくまり、「息ができん。死ぬ」と覚悟した。

 でも、翌朝から仕事に忙殺されたことで、落ち込んでいる暇がなかった。「久保津さんは合理的な判断ができて、部下のために腹をくくってくれる。上司が違ったら、たぶん長続きしなかったと思う」

 本店から一時帰国を促す連絡が入った時も、久保津さんは「前を向いていなければ、気持ちが保てない」と断った。当時、専務として本店で対応に当たった泉史博さん(74)は「彼らの強い使命感に胸が熱くなった」と振り返る。

■消えぬ怒り、仕事邁進は「生存者の責任」

 テロ後の10月7日、米国は英国とともにアフガニスタンへの空爆を開始。アフガン戦争が始まった。

 一方で、日本の金融業界にはバブル崩壊後の銀行再編のうねりが起きていた。中国銀行は、店舗の統廃合による経営効率化を選んだ。現地行員らの奮闘とは裏腹に、NY支店の閉鎖が決まった。

 久保津さんは星条旗のピンバッジを買い、「また9月11日に集まろう」と部下たちに一つずつ渡した。小さなバッジは、自分たちがここで力を尽くした証拠だった。

■準備と想像力、壮絶な体験を組織に生かす

 テロ翌年の02年6月、久保津さんは帰国。本店の広報室長に就き、殺到する取材に対応した。求めがあれば、講演でも話した。平和が一瞬にして奪われるという体験をしたことで、「日頃の準備と、いざという時の想像力の大切さ」は伝えたいと思った。

 08年に岡山県真庭市で講演を企画した井原初彦さん(67)は「普通はパニックになるはずなのに、支店長として全員の無事を第一に考え、冷静に行動した。優しい語り口だったが、肝が据わっていると感じた」と振り返る。

 08年、久保津さんは証券会社「中銀証券」を作るプロジェクトを任された。

 ゼロから会社を作る仕事。怒っても下はついてこない。廊下やたばこ部屋で「元気?」と話しかけ、ミスをした人には挽回のチャンスを与えて。テロの直後、裸同然で働いた時に何より役立ったのはチームワークだった。あの経験がいきたように思う。

 そして今年6月28日、中銀証券の常務を最後に、久保津さんは42年間の銀行マン生活を終えた。

 退職後は、趣味のゲームや読書をしたり、妻の典子さんと買い物に出かけたり。何げない日々を大切に過ごす。

 家族とはテロの話は一切しない。「生きていれば色んなことがある。大変だったとわかるから、あえて聞かなくてもいいんです」と典子さん。

 テロでは約3000人の命が奪われた。テロリストに対し、「いいかげんにせぇ。関係ない人を巻き込むな」という怒りが消えることはない。

 しかし、超大国をめぐる激流の中で、久保津さんがなすすべはなかった。「政治家でもない、市井の一個人の自分には、訴える力や道具はない。戦場に行って報復するわけにもいかんし」

 NY支店の元部下たちとは、コロナ禍の前まで、毎年9月11日が近づくと酒を飲んだ。「僕たちは人生の一場面を共有した。それぞれの思いを糧に、頑張って生きていこう」と励まし合った。

 あの凄惨(せいさん)な現場で、幸運にも自分は命をつなぐことができた。そこから振り返らず、仕事に邁進(まいしん)し、経験や教訓を人に伝えてきた。

 「亡くなった人たちに失礼のないように、自分なりに真っ当に生きる」。それが生き残った人間の責任だと思う。

 これからも前を向いて、自分にできることを一歩ずつ、積み重ねていこうと久保津さんは思っている。

 米山理紗(よねやま・りさ)記者=2014年入社。さいたま支局、国際部を経て、2020年9月から東京社会部。米同時テロ発生時は小学5年生で、テレビ中継を見て衝撃を受け、国際報道への関心が芽生えた。31歳。

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