災害時の聴覚障害者にとって必要なことは。『きこえなかったあの日』 今村彩子監督

災害時の聴覚障害者にとって必要なことは。『きこえなかったあの日』 今村彩子監督

?2021 Studio AYA

 東日本大震災の日から現在まで、被災した耳の聞こえない人たちはどのように過ごしていたのか――。その様子を追ったドキュメンタリー『きこえなかったあの日』が公開・配信されています。

 避難所で字幕のないテレビが流れる中、耳が聞こえない人たちは、手話がわからない周りの人々とのコミュニケーションに苦労したといいます。自らも耳の聞こえない本作の今村彩子監督は、東日本大震災の11日後、カメラを片手に宮城を訪れました。今回は『きこえなかったあの日』の製作の経緯と共に、被災地で感じたことや耳の聞こえない方々にとって必要なサポートなどについて今村監督にお話を聞きました。

◆字幕がないのでわからない

――本作製作の経緯についてお聞かせください。

今村:東日本大震災が起きて「耳の聞こえない人たちはどうしているのか」と考えていたら、阪神淡路大震災を機に始まった、手話と字幕で伝える放送局「目で聴くテレビ」のスタッフから被災地の取材の話がありました。それで彼らと共に現地入りし、聞こえない人たちを撮影したことがきっかけで、『架け橋 聞こえなかった3.11』(‘13)を制作しました。

 その後も『架け橋』の上映会で被災地の最新の様子を伝えようと、宮城に通いながら映像を撮りためていました。そして、2年前に豊橋市の団体から10年目の節目となる2021年の3月11日に『架け橋』を上映したいという依頼があったんですね。

 時間が経てば被災者の暮らしも悩みも変わります。その様子を多くの人たちに見てほしいという思いがありました。それで2021年の3月11日に上映できるように、撮り溜めて来た映像を素材にして映画を作ろうと思ったんです。そうしてできたのが『きこえなかったあの日』です。

――震災当時、耳の聞こえない方々はどのようなことに困っていたのでしょうか?

今村:例えば避難所に行った時にテレビに字幕がないので、何を言っているかわからない。また、避難所のスタッフの人たちは手話ができないのでコミュニケーションにも苦労しました。

 耳の聞こえない人がたくさんいる避難所があればこうしたことは起きなかったのかもしれませんが、このような事態を想定していなかったため、各避難所に耳の聞こえない人が点在するような形になりました。

 また、罹災証明の申請方法がわからなかったので、市役所に何回も足を運んだけれども、市役所の職員とコミュニケーションが取れず、結局、申請ができなかったという人もいました。

 ちなみに、今ではテレビの字幕放送は一般的になりましたが、日常生活で病院や薬局の待合室のテレビに字幕の付いている時と付いていない時があります。聞こえない人たちがいるかもしれないので字幕をONにしてくれた方がありがたいです。

◆助ける立場を伝えたい

――東日本大震災だけではなく、西日本の土砂災害や熊本地震の時の様子も登場します。

今村:地震や台風などの災害が頻発する中で、耳の聞こえない人たちは様々な壁にぶつかっています。そのことを知ってほしかったんですね。東日本大震災だけではなく、その後に起きた広島や熊本のことも取り上げることで身近な出来事として受け取ってもらえるのではないかという思いがありました。

――西日本の豪雨では聴覚障害者ががれき撤去などのボランティアとして活躍している様子も描かれています。

今村:広島県ろうあ連盟がろう災害ボランティアセンターを立ち上げて、耳の聞こえない人たちが集まりました。マスコミが取り上げるのは耳の聞こえない人たちの困ったことばかりです。私自身にも耳の聞こえない人たちは常に「助けられる」立場なのではないかという思い込みがありました。ところが、広島の時はろう・難聴者が「助ける」立場になった。そのことに驚きましたし、嬉しかったですね。

 観客の皆さんも、聞こえない人は「助けてもらう側」という思い込みがあるのではないかと思うので、彼ら彼女らは人を「助ける」こともできると伝えたかったんです。

――熊本地震で印象に残っていることはどのようなことでしょうか。

今村:熊本の場合は24時間、いつでも視覚で情報を捉えることのできる福祉避難所ができたんです。手話のできるスタッフも常駐していましたから、聞こえない人も安心して避難所生活が送れていました。それは東日本大震災の時にはなかった取り組みです。

 熊本の場合は地震が起きた2016年の4月1日に障害者差別解消法が施行されました。その法律には国や行政機関が障害を理由とする差別の解消の推進に関して必要な施策を策定することが義務付けられています。その15日後に地震が起きました。

 すると、熊本県聴覚障害者情報提供センターが施設の一部を福祉避難所として開放したんです。普段から当事者の方々と接していて聞こえない人たちへの理解もあり、配慮や支援がしやすかったんですね。

――2013年から各地に手話言語条例ができて聴覚障害者の環境が改善されたと聞きました。

今村:全国の聴覚障害者団体が傘下に入っている全日本ろうあ連盟が県や市に働きかけて条例を作りました。

 そのおかげで、この10年でろう・難聴者の環境は改善されたと思います。例えば、条例の設定された鳥取県では小中学校で手話を学ぶ時間があります。そのおかげで鳥取県では手話を話せる人が増えました。私たちにとっては「こんにちは」「ありがとう」だけでも手話でコミュニケーションできると嬉しいので、とてもいいことだと思います。

――コロナ禍の今、耳の聞こえない人たちはどんなことで困っているのでしょうか。

今村:劇中にも登場しますが、休業協力金のことを新聞で知ったけれども、使われている言葉が難しく、詳しい内容がわからなかった人もいます。

 劇中では豊橋市市役所に配置されている手話通訳者が説明してくれましたが、手話通訳がいない自治体では、わからないままになっている聞こえない人もいるかもしれません。

 また、お店で買い物する時、レジの人がマスクをしているので、何を言っているのかわからないということもあります。「袋は必要ですか?」「お支払いはどのような方法ですか?」「ポイントカードを持っていますか?」とマスクを付けたまま聞かれても何を言われているのかわかりません。

――そういう時はどうするんですか?

今村:コロナ禍なので「マスクを外してください」とは言いにくいです。筆談も後ろに人が並んでいるとやはりやり辛いです。なので、最近は身振り手振りで自分は耳が聞こえないことを伝えるようにしています。そうすると、お店の人も身振り手振りで答えてくれます。

◆ひとりの人間として描く

――主人公的な役割の聴覚障害者の加藤]男(えなお)さんとはどのようにして出会ったのでしょうか?

今村:『架け橋』は、宮城県聴覚障害者協会の小泉正壽(しょうじゅ)さんの聞こえない人たちに対する支援の様子を追ったのですが、その時に小泉さんが加藤さんに扇風機を持って行ったんです。それが加藤さんに初めて会った日でしたが、扇風機の使い方を小泉さんから教わっていたことに衝撃を受けました。加藤さんは一人暮らしなので、大丈夫なのかなと。

 加藤さんは聴者の家族のもとに生まれ、学生時代はろう学校で手話が禁じられていたこともあって、手話が独特です。私がわかるのは数字くらいでした。聞こえる住民とのコミュニケーションは大丈夫なのかなと心配になりました。加藤さんを通して、高齢ろう者の抱えている問題が浮き彫りになるのではないかと思っていたんです。

――ところが、加藤さんに対する考え方が途中で変わったとのことでしたね。

今村:そうです。加藤さんは避難所でも仮設住宅でもコミュニケーション方法が豊かで他の住民と交流していました。しかも、災害公営住宅の集会所の棚を作るなどして人の役に立っていました。加藤さんは自分なりの方法で人とつながろうとしていたんですね。

 また、加藤さんの手話が読み取れず、私自身が加藤さんの話をわかろうとしない時もありました。加藤さんが昔の仕事をしてくれても「震災と関係ないから」と興味を持てなかった時期もあります。

 編集作業をしていた時に、ある映画作家から「震災がその人の人生の全てではない」と言われて、頭を殴られたようでした。その後、加藤さんの映像を見直してみると、そこには一人の人間としての生き生きとした表情が映っていました。私は加藤さんを被災者としてしか見ていなかった。その時に自分の思い上がりがわかりました。

 そういうこともあって、映画は被災した聞こえない人としてだけではなく、加藤さんというひとりの人間の物語になっていきました。

◆映画が元気をくれた

――映画を撮りはじめたきっかけは何だったのでしょうか?

今村:小学生の頃はろう学校ではなく、普通学校に通っていました。授業中は前から2番目に座って、先生の口の動きをじっと見ていました。1対1の会話は口の動きを見てわかりましたが大勢での会話はわかりませんでした。

 当時はアニメの『ちびまる子ちゃん』が流行っていて、みんな主題歌の『踊るポンポコリン』を歌っていましたが、まだテレビに字幕がなかったので、私はついて行けませんでした。家で家族とテレビを見ている時も同じでした。そんなこともあって孤独感を感じていました。

 テレビを一緒に楽しめず、さみしそうにしている私を見て父がスティーブン・スピルバーグ監督の『E.T』(‘82)を借りてくれたんです。物語にも感動しましたし、家族と一緒に映画を楽しめたことが嬉しかったです。そこで、父が毎週レンタルビデオ店に行って字幕付きの洋画のビデオを借りてくれました。洋画のアクション映画を見ていると元気になりました。「明日からもがんばって学校に行こう」と前向きになれたんですね。

 それで大きくなったら映画を撮りたいと思うようになりました。アメリカの大学に行ったのは、日本では自己負担となる手話通訳費を大学が払ってくれるからです。

――今後撮ってみたいテーマはどのようなものでしょうか?

今村:今までは自分と同じマイノリティの立場、耳の聞こえない人やLGBTの人、アスペルガーの人たちを撮って来ました。でも、今は障害のないマジョリティー、自分とは最も遠い存在の人たちを撮ってみたいと思っています。彼らにカメラを向けた時に自分は何を思うのかと。どんな映画になるのかはわかりませんが、知らなかった世界を知り、自分の思い込みや先入観が壊れたらと思っています。

<取材・文/熊野雅恵>

【熊野雅恵】

くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。

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