オリンピックに殺される。開閉会式の差別的演出と非情なスポーツマンたち

オリンピックに殺される。開閉会式の差別的演出と非情なスポーツマンたち

五輪スポンサーの車ばかりが目立つ聖火リレーの車列(時事通信社)

◆差別的な提案で辞任した佐々木宏氏

 今年開催される東京オリンピック・パラリンピックは、史上類を見ない大量の死者を出す大会になりますね。大会後の感染爆発によって、どれだけの死者・重傷者が出るのか予測しておかなくてはなりません。コロナウイルスに限らず、通常の医療やお産にも影響が出ることになるでしょう。感染収束はもう一年繰り延べにされることになるので、その分だけ多く死者を積み上げることになります。

 退避先のある人は東京の外に疎開しておくのが賢明だと思います。オリンピック・パラリンピック組織委員会は、本大会に人生をかけてきたアスリートたちのために、全都民に命がけの協力を求めているのです。アスリートやコーチなど体育関係者も本気ですから、こちらも本気で対策をとっていかないと、むざむざと殺されることになります。

 今月18日、東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出を統括するクリエーティブディレクター・佐々木宏氏が辞任しました。辞任の理由は、演出プランを練るグループチャット内で、佐々木氏がひどく差別的な内容の提案をしていたことが明るみになったためです。

 問題になった提案とは、オリンピックをもじった“オリンピッグ”という豚のキャラクターを設定し、タレントの渡辺直美さんにこれに扮してもらうというものです。渡辺さんに豚の鼻をつけて踊らせて、これおもろいやんかぁということですね。もちろんこの腐った提案は、グループのメンバーによって即時却下。佐々木氏は、渡辺直美さんに謝罪し、ディレクターを辞任しました。

◆既存の価値観を反転させる渡辺直美の芸

 問題は二点あると思います。

 第一点目は、佐々木氏が“芸人 渡辺直美”の芸をまったく理解していなかったことです。渡辺直美さんは、その容姿をも生かして、コミカルな役回りを演ずる芸人です。しかし彼女の芸は、ただたんにコミカルというのでは終わらない、セクシーな要素を絡み合わせたものになっています。彼女は、大きな容姿をネタに、コミカルとセクシーを重ね合わせて提示していきます。そのことで、大柄な女=コミカルという“笑い”の形式を反転させる瞬間をもつわけです。それは同時に、大柄な女=不美人という美意識をくつがえす瞬間でもあります。この芸には、既存の価値観を反転させることによって、自分の体型に悩む人やそのことで引け目を感じている人に向けて、元気出していこうよというメッセージが込められています。体型がどうであれ女としての美を追求していくことができる、というメッセージです。それはざっくりと例えるなら、『ELLE』や『VOGUE』を読むような女性たちが模索しているような先進的な表現です。そうであるからこそ、渡辺直美さんの芸は多くの女性に受け入れられ、支持されているわけです。

 佐々木氏は、渡辺直美さんに豚の鼻をつけさせるというプランを提案したのですが、これは佐々木氏が、彼女の芸も、それが生み出された文脈も、まったく理解していないことをあらわしています。芸人渡辺直美の本領は、既存の価値観を転倒させるセクシーさにあります。彼女に豚の鼻をつけてしまったら、セクシーも美意識の反転も吹き飛んでしまいます。せっかくの芸が台無しです。芸の内容を理解せずぼんやりとテレビを観ているから、こういうトンチンカンな案がだせるのです。

◆トップクリエイターが差別的センスを持っている広告業界

 問題の第二点は、芸を理解していないトンチンカンな人間が、大会演出の統括という重要ポストについていたことです。これは驚くべきことです。オリ・パラリンピック開閉会式の統括といえば、日本の広告クリエーターとしても首席に位置する人でしょう。人びとが何に共感を寄せているかを日夜研究しているはずの広告業のプロの首席が、このトンチンカン、という。

 問題は佐々木氏の個人的な資質の問題ではありません。広告業の世界でしのぎをけずり生き残ってきたチャンピオンが、このありさま。ということから予想されるのは、広告業界ではこういうセンスの人が淘汰されず、反対に、このような差別的なセンスの持ち主でなければ生き残ることができない構造があったのだろうということです。差別表現や低俗さ、不正への寛容な態度、文化教養にたいする排他的な態度が、広告業に属する人びとの一般的な規則になっているのではないか。一発かまして話題になればいいという刹那的な態度が、出世のための基本的な資質となっているのではないか。そんな想像をすると、とても寒々しい気持ちになります。

◆我関せずのスポーツマンたち

 オリ・パラリンピックの開閉会式の演出統括が、こうした貧しい構造の産物であったかもしれないことは、よく考えてみれば、驚くべきことではないのでしょう。さらに考えてみると、この貧しさはスポーツ大会にふさわしいものです。差別的で低俗で、不正に寛容で、文化に対し排他的な態度とは、スポーツ関係者にこそあてはまるものではないでしょうか。

 スポーツマンは本当に非情です。オリンピック招致をめぐる贈収賄疑惑が公になっても、スポーツ関係者から問題を追及する声は出てきません。新国立競技場の建設現場で若い現場監督が過労死していても、スポーツ関係者は弔辞の一つも出しません。オリ・パラリンピックを支える余裕はないと医療関係者が悲鳴を上げていても、スポーツ関係者は我関せずです。およそ血の通った人間であれば、もう大会はやめようと言うべきところですが、数多いるスポーツマンたちはまったく沈黙しているのです。そういう反社会的な態度をとりながら、「ワンチーム! ワンチーム!」と呼びかけてくる。こんな非情な人たちに関わっていたら、命がいくつあっても足りません。オリ・パラリンピックに巻き込まれないように、一刻も早く東京から退避するべきだと思います。

<文/矢部史郎>

【矢部史郎】

愛知県春日井市在住。その思考は、フェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズ、アントニオ・ネグリ、パオロ・ヴィルノなど、フランス・イタリアの現代思想を基礎にしている。1990年代よりネオリベラリズム批判、管理社会批判を山の手緑らと行っている。ナショナリズムや男性中心主義への批判、大学問題なども論じている。ミニコミの編集・執筆などを経て,1990年代後半より、「現代思想」(青土社)、「文藝」(河出書房新社)などの思想誌・文芸誌などで執筆活動を行う。2006年には思想誌「VOL」(以文社)編集委員として同誌を立ち上げた。著書は無産大衆神髄(山の手緑との共著 河出書房新社、2001年)、愛と暴力の現代思想(山の手緑との共著 青土社、2006年)、原子力都市(以文社、2010年)、3・12の思想(以文社、2012年3月)など。

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