誕生日の一日は、自分がこの世に生まれてきた意味を問い直す大事な日

誕生日の一日は、自分がこの世に生まれてきた意味を問い直す大事な日

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◆誕生日とは、受動的であり能動的でもある一日

 どんな人にも、必ず誕生日があります。1年に1回、必ず訪れる日です。誕生日は「おめでとう」と、周りからお祝いの言葉をかけてくれる日でもありますが、同時に「自分が生まれたことを、周囲に感謝する日」でもあると思います。

 メッセージを受け取る受動的な一日としてだけではなく、自分から周囲に感謝を伝える能動的な一日としても。そうした受動的で能動的な一日が、どんな人にも必ず設定されているのだろうと思います。

 人間が誕生してくる出産のプロセスも、母体から生れて出て来る受け身のプロセスでもありますが、同時に、いのちが生まれようとして強い意志で外界に生まれ出してくる能動的なプロセスでもあると、自分は感じているからです。

 出産の現場に立ち合ったことがあります。それは驚くべき体験でもありました。自分が思い出せない人生の始まりのことは、脳が思い出せなくても、身体の細胞のどこかが脳とは別のメカニズムで記憶しているのかもしれません。

 出産の現場で自分の心や体が共鳴した時に、ああ、人は誰もがこういう命がけのプロセスを経ているのだと感じざるを得ませんでした。出産のとき、新しい「いのち」は、明らかに自分の意志で生まれようともがいているように見えました。頭をねじり、体をねじり、命がけで必死に出てこようとする姿に、自分は生命そのものが内在する強い意志を感じました。

◆新しい命が生まれるためには、自ら出ようとする赤ちゃん側の力も必要

 時が満ちると、母体の子宮は陣痛という形で収縮しはじめ、赤ちゃんを外に出す準備をはじめます。時が満ちるまで、赤ちゃんは暗い子宮の中で少しずつ成長しています。狭く暗い場所から外界に通じる出口は、たった一つしかありません。

 赤ちゃんの体は、小さい方が外界へ出やすいのはもちろんですが、体が小さいと体力も不十分で、子宮の守りがない外の空間に出ることは命を失うほど危険な状態かもしれません。

 ただ、あまりに体が大きくなってしまうと、そもそも外界に出られなくなるかもしれません。そうした絶妙なバランスを、赤ん坊と母体とは無意識の中で相互にやり取りをするように、生まれてくるタイミングを絶妙に見計らっているように思います。

 母体の子宮は収縮し、外へ通じる出口へと新しいいのちを運ぼうとしはじめますが、ただそれだけでは外に出ることはできません。新しい命は、体を微妙に回転させ、全身を波打つようにねじりながら、出口へ通じる道に対して自分の体を最小限にし続けながら外に出てくる必要があるのです。

 そこでは、母体の力だけではなく、自ら出ようとする赤ちゃん側の力も相互に協力することが前提になっています。生まれたての赤ちゃんには産毛が生えていて、「けもの(毛もの、獣)」としての人間の歴史を感じさせてくれるものです。

 生後は産毛が必要なくなり、「毛もの」から卒業して布や衣服を身にまとうことになりますが、こうした胎児期の産毛も、狭い産道をなんとか自分自身の力で出ていくために、摩擦を最小限にして安全に出ていくための生命の知恵の一つかもしれないと思いました。

◆誰もが、人生の始まりは圧倒的に弱い存在として生まれてきた

「人が生まれてくる」というプロセスは、赤ちゃんにとっても母にとっても本当に命がけのプロセスです。そこに事前の練習はなく、たった一度の本番だけです。人は命がけで生まれてきます。人は生きていると、自分が強いと思い込み、自分の思い通りになるという錯覚に陥ることがあります。

 ただ、人生の始まりは圧倒的に弱い存在として生まれてきます。誰かが懸命にいのちを育んでくれたからこそ、人は生きています。人は一人では弱く生きていけない存在だからこそ、愛を与え合い、愛を受け取り合い、多くの人と協力して支え合います。

 そうしたことを、人生の始まりで自分自身の体験として学びます。人は、両親だけではなく、あらゆる人の助けを借りてやっと生き残ることができる弱い存在です。

 人生の始まりは「外に出たい」という強い意志と、命がけの勇気により始まります。そして、外界では弱い存在を支えようとする誰かの愛の力も、命を保つために重要です。「生まれる」そして「生きる」ということは本当に大変なことなのです。

 だからこそ、人のいのちの奥底には困難を乗り越える力も同時に備わっているのではないかと思います。裸一貫で知識も経験もなく、勇気をもって生まれてきた時を思い出してほしいのです。そうした生命が誕生する瞬間は、どんな人にも共通体験として奥底に内在されています。

◆出会いのために、出会うために、人は生きているのではないか

 どんな人にも、必ず誕生日があります。それは、忘れがちになる「誕生という体験」そのものを、少なくとも年に一回は思い出させてくれる内省的な日でもあります。そして、内なるいのちの受胎を、外なる世界に対して表現する日でもあります。

 人生に意味があるのかどうか、それは哲学的な命題であり、普遍的な解答は見つかりそうにありません。ただ、人は誰かとの出会いにより、人生の深い意味を発見することがあります。出会いのために、出会うために、人は生きているのではないかと思います。人生の苦難も、誰かとの出会いにより、人生の深い意味として立ち上がってくることがあります。

 生きているからこそ、そうした人と人との出会いも起こりえます。誕生日とは、挫折や栄光も含めて、人生の始まりから考え直し、すべてを真っ新(まっさら)にして生きなおすためにも大事な日なのではないでしょうか。

◆生まれてきたことは、それ自体がこの世界への表現

 何かが新たに生まれると言うことは、秘儀であり奇蹟だと思います。生まれてきたことは、それ自体がこの世界への表現です。

 誕生日の一日を、自分がこの世に生を受けた理由を日々自分の胸に問い直す。外からやってくるいろいろな現象を啓示とみなし、日々の現象の表も裏もあらゆる方向から光を当てて、存分に味わう内省的な日として。そして、そのことを言葉や行動で外の世界に表現する日として。

 生きているといろいろなことがありますが、そのことも生きているがゆえに体験できることです。

 1年間は365日あり、いろいろな日があります。東日本大震災が起きた3月11日という一日は、それぞれにとって何か大きなことを思い出させてくれる内省的な日です。そして誕生日も、誰にでも訪れる、何かを思い出し、言葉や行動として表現する象徴的な日です。こうしている今も世界のどこかで、新しいいのちがオギャーと生まれてきているでしょう。

【いのちを芯にした あたらしいせかい 第10回】

<文・写真/稲葉俊郎>

【稲葉俊郎】

いなばとしろう●1979年熊本生まれ。医師、医学博士、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014〜2020年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(山形ビエンナーレ2020 芸術監督 就任)。在宅医療、山岳医療にも従事。未来の医療と社会の創発のため、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。著書に、『いのちを呼びさますもの』、『いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―』(ともにアノニマ・スタジオ)、『ころころするからだ』(春秋社)、『からだとこころの健康学』(NHK出版)など。公式サイト

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