JCO臨界事故の悲劇から20年。改めて振り返る事故の概要と要因

JCO臨界事故の悲劇から20年。改めて振り返る事故の概要と要因

東海村原子力安全フォーラム(撮影/井田真人)

◆20年後のJCO臨界事故フォーラム

 今年(2019年)の9月30日でJCO臨界事故の発生から20年になる。1999年9月30日に茨城県東海村の株式会社ジェー・シー・オー(以下、JCO)で発生したこの被ばく事故は、後に重度の急性放射線障害で2人が死亡するなど、非常に痛ましいものとなった。2人の死亡者のうち、最も重い被ばくを受けた大内さん(当時35歳)の治療過程はNHKの特別番組「被曝治療83日間の記録 〜東海村臨界事故〜」(2001年)(※新潮社より文庫化している)で克明に報じられたため、覚えている方も多いだろう。筆者はあの番組を観てから1週間ほど、重々しい、憂鬱な気分が抜けなかった。

 強力な放射線により細胞内の染色体が破壊され、緩やかに、しかし確実に朽ち果ててゆく自分の体との壮絶な闘いに敗れ、大内さんは事故の83日後に多臓器不全で永眠した。また、2番目に重い被ばくを受けた篠原さん(当時40歳)も、同様の経過をへて事故から211日後に永眠している。さらに、この事故では近隣住民の被ばくも起こったが、その住民たちに対する健康調査は現在でも続けられている。

 この事故の記憶を風化させまいと、9月7日の午後、「東海村原子力安全フォーラム 〜 JCO臨界事故を教訓として、ともに考える」と題するフォーラムが開かれた。主催は東海村、開催場所は東海村の東海文化センターであった。

 講演者は4名おり、以下の通り、そうそうたる顔ぶれであった。

・村上達也氏(前の東海村長)

・桐嶋健二氏(現在のJCO社長)

・田中俊一氏(飯舘村復興アドバイザー、前の原子力規制委員会委員長)

・福嶋浩彦氏(中央学院大学教授、元我孫子市長、元消費者庁長官)

 この4名のうち、村上達也氏は事故当時の村長であり、事故対応の陣頭指揮をとった人。そして、田中俊一氏は、事故当時は日本原子力研究所(のちに核燃料サイクル開発機構と統合され、現在の日本原子力研究開発機構に)の東海研究所副所長であり、JCO事業所内で続く臨界を終息させる作業にあたった人という、JCO臨界事故の正真正銘の当事者たちである。

◆1分間の黙祷から開幕したフォーラム

 フォーラムは、2人の犠牲者に対する1分間の黙祷で幕を開けた。続いて、主催者と主賓の挨拶が行われた。挨拶を行った主賓の中には、今夏の参院選茨城県選挙区に立憲民主党の公認候補として立候補し、初当選した小沼巧氏の顔もあった。彼は「リアリティのある原発ゼロ」を政策に掲げる若手議員である。

 次いで、JCO臨界事故の概要を伝える7分程度の重々しいビデオが放映された(機器トラブルがあり、実際に放映されたのは村上達也氏の講演の後になった)。そして、先に紹介した4名による講演が始まった。

◆JCO臨界事故の経緯 〜 田中俊一氏の講演を参考に

 行われた講演はどれも意義深いものであったが、各講演の内容の紹介や講演内容に対するコメント(文句も含む)は別の機会に譲り、以下では、田中俊一氏の講演資料とその他の記録を参考に、JCO臨界事故の経緯を紹介することにしたい。

 田中俊一氏の演題は『JCO事故と福島第一原発事故から学ぶこと』であり、JCO臨界事故と福島第一原発事故の両方に触れるものとなっていた。そう、テレビ等で紹介される同氏の姿を記憶している人は多いと思うが、田中氏は前の原子力規制委員会委員長として、飯舘村復興アドバイザーとして、福島第一原発事故にも深く関わってきた人なのだ。

 JCO臨界事故の不幸中の幸いは、原子力を扱う専門機関が多数ひしめき合う場所で起きたことであった。その地の利を生かし、放射線測定や事故の収束作業、事故の発生原因の解明など、様々な場面で近隣の研究者・技術者が活躍している。当時の日本原子力研究所 東海研究所で副所長を務めていた田中氏も、そのうちの一人なのである。

◆臨界事故の発生

 田中氏の講演資料を紐解きながら、事故の発生過程を簡単に説明しておこう。臨界事故は1999年9月30日の午前10時35分、JCO東海事業所の「転換試験棟」で発生した。当時、転換試験棟では、実験用原子炉の一種である「常陽」の燃料作りに関わる作業が行われていた。酸化ウランの粉末に硝酸を混ぜて硝酸ウラニル溶液を作り、その濃度を均一化する、というものである。

 JCOはその作業において、作業時間の短縮を主目的にしたと見られる複数の違反行為を行った。ウラン粉末と硝酸を混ぜる過程で使われるはずだった専用装置「溶解塔」は使われず、ステンレス容器(事故発覚後に“バケツ”と揶揄された)が使われた。さらに、濃度を均一化する過程で使われるはずだった「貯塔」も使われず、代わりに、別の目的で設置されていた「沈殿槽」が使われた(実は均一化の工程で貯塔を使うこと自体も違反行為だったが、貯塔の利用が社内マニュアル化されていた)。

 これらの違反行為のうち、とくに沈殿槽の使用がその後の悲劇の直接的な原因となった。「貯塔」は臨界の発生を防ぐ形状・大きさで作られていたが、沈殿槽はそのような形状にはなっておらず、また容量の大きい物だった。さらに悪いことに、沈殿槽は二重構造になっており、冷却のための水が周囲を流れていた。そのような構造は、臨界状態の維持に役立ってしまうのだ。

 これらのことが重なり、作業者たちによって臨界が達成される量の硝酸ウラニル溶液が注ぎ込まれたその瞬間、沈殿槽内で核分裂反応が発生、瞬間的に強烈な放射線が放たれた。沈殿槽が置かれた室内には、このとき3名の作業者がいたが、そのうち2名がこの瞬間に致死量の放射線を浴びたと考えられている。臨界はその後も維持され、最初の一撃よりは弱まったものの、沈殿槽からは尚も放射線が放たれ続けた。

 JCO臨界事故は、以上のようにして発生した。

 致死量の被ばくを受けた2名はその後、造血幹細胞移植などの治療を受けたが、死亡。残りの1名も重度の被ばくを受けたが、致死量には達しておらず、骨髄抑制(白血球の減少)の症状が現れたものの、無菌室での治療により回復、その後、退院している。また、沈殿槽からの放射線は室外にも届いており、他のJCO職員や近隣住民たちが大小の被ばく(0.01 mSv〜49 mSvと推定されている)を受けた。

◆臨界収束作業が開始されるまで

 事故が発生した日の12時30分、東海村は防災無線で臨界事故の発生を伝えるとともに、近隣住民に屋内退避を指示した。これらの広報は、国や県からの指示を待たず、当時の村長であった村上達也氏が独断で行ったとされている。15時、東海村は半径350m圏内の避難を決定し、住民に避難を要請した。

 田中俊一氏がいた日本原子力研究所 東海研究所でも、この前後から事故対応の動きが本格化している。13時10分には研究所内に対策本部を設置、村や県に専門家を派遣した。13時23分には科学技術庁の指示を受け、周辺地域の放射線測定を開始。16時ごろ、臨界の継続を確認した齋藤伸三 東海研究所長の指示で、臨界を終息させる方法の検討を開始した。

 16時30分、核燃料サイクル開発機構がJCO施設近隣で中性子線測定を開始し、17時ごろにはJCO敷地境界での中性子線量率が4 mSv/h程度と判明。18時ごろ、JCO職員が東海研究所に到着、手書きのスケッチにより沈殿槽と事故現場の状況を説明した。21時ごろにはJCOから沈殿槽の詳細図が到着し、臨界発生までの作業内容が報告された。

 この頃、16時ごろから東海研究所で続けられていた検討により、臨界の終息には沈殿槽の周囲から水を抜くことが有効であると判明。23時ごろに田中俊一氏らが、24時ごろには住田健二 原子力安全委員会委員長代理(当時)がJCOに到着し、臨界終息のための行動を開始した。

 なお、この間、22時30分には、科学技術庁の事務次官から助言を受けた茨城県知事が、10 km圏内の住民に屋内退避を要請している。

 水抜き作戦は、住田健二氏の指揮、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構の職員らの支援のもと、JCO職員によって実行された。当初、JCO側からは、核燃料サイクル開発機構にも作業に参加してほしいという要望が出たが、住田健二氏はこれを認めず、作業は設置者であるJCOの責任で行うべきとして、JCO所長を説き伏せた。この作業に参加した18名のJCO職員は、のちに一部から“決死隊”と呼ばれることになる。

◆“決死隊”による水抜き作戦

 作業では2人1組となり、前の組が作業現場から戻ってきたら次の組が作業現場に向かうという、リレー方式が採られた。1組あたりの作業時間は1〜2分間と、非常に短く制限された。このような作業方法は、放射線量率の高い現場で作業を行う場合に、1人あたりの被ばく量をなるべく少なく抑える方法としてよく用いられるものである。

 さて、その“現場”である。作業現場となったのは「冷却塔」と呼ばれる装置から伸びる配管である。冷却塔は屋外に置かれているが、そこから伸びる配管は転換試験棟内に入り、すぐ近くの沈殿槽につながっている。そして、沈殿槽の周囲にある水は、この配管を伝わって沈殿槽と冷却塔の間を行ったり来たりしている。したがって、何らかの方法でこの配管から水を流し出すことができれば、沈殿槽の中の水を抜くことができるはずなのだ。

 ところが、現場は沈殿槽のすぐ近く(およそ3 m前後とされる)であり、放射線量が極めて高いことが予想された。直近の周辺測定では、沈殿槽から約35 m地点で中性子線が10 mSv/h、15 m地点でガンマ線が20 mSv/hとなり、ともに測定できる上限に達した。それ以上に近づいた場合の線量率は、もはや推定するほかなかった。現場での1組あたりの作業時間は、2分間までと決められた。

◆未明に開始された作戦

 10月1日の2時35分、水抜き作戦が開始された。1組目が現場に入ると、予想よりも早く線量計のアラームが鳴り始めた。2人の作業者は現場の写真を3枚撮っただけで戻ってきたが、予想よりもだいぶ多い被ばくを受けていた。そのため、作業時間をさらに短くするなどの作戦変更が余儀なくされた。現場での作業時間は1分間までに短縮された。そして作業が再開された。

 水を抜く作業は3段階で行われた。まず、配管に付いている排水弁を開けることが試された。この作業には3組目で成功したが、弁からの水の抜けが非常に悪く、臨界は収まらなかった。ついで、冷却塔の下部に有った排水用の配管を壊すことが試された。5組目がこれに成功し、水が流れ出たことと放射線量が幾分低下したことが確認されたが、それでもなお、臨界は収まらなかった。沈殿槽の周囲にある水は流れ出しきっていなかったのだ。

 そこで、3つ目の方法が試された。配管からガス(反応性の極めて低いアルゴンガスが使われた)を流し込み、沈殿槽内の水を押し出そうという方法だ。この作戦の実現のために先ず、6組目が配管の一部(継手)を緩める作業を行い、7組目がそれを外して持ち帰った。その継手にはホースを繋げる細工が施された。

 8組目は配管途中のフランジを緩め、水が漏れ出すようにした。漏れ出す水は生暖かかったらしい。9組目がホースの繋げられた継手を現場の配管につなぎ戻し、ホースをアルゴンボンベが置かれた40 m先までのばした。最後に、10組目がボンベを操作し、アルゴンガスを流し込んだ。

 作戦は成功した。緩めておいたフランジ部から水が勢いよく噴き出した。放射線量率が急速に低下し、6時14分、ついに臨界の終息が確認された。臨界の発生から20時間近くが経っていた。その後、8時30分ごろには再臨界を防ぐためのホウ酸水が沈殿槽に注がれ、臨界の終息がより確かなものとされた。このホウ酸水の注入作業はJCOと核燃料サイクル開発機構が協力して行った。このようにして、臨界は完全停止した。

 16時30分ごろ、茨城県知事が10 km圏内(350 m圏内は除く)の屋内退避の解除を発表。翌日(10月2日)の18時30分には、東海村が350 m圏内の避難を解除した。

◆田中俊一氏と村上達也氏が考える事故原因

 田中俊一氏はJCO臨界事故についての講演の終盤で、この事故を誘発した3つの主な原因を挙げた。

 JCOによる許認可の条件を無視した操業に加え、“発注者”による変更許可申請を越えた要求や、作業の丸投げ、そして、“監督官庁”による安全審査での違反見逃しである。これと同じ3つを、田中氏と同じ事故当事者である村上達也 前東海村長も自身の講演で挙げていたのは非常に印象的だった。

 最後に、その後のJCOについて少し述べておこう。JCOは2000年3月28日に科学技術庁より核燃料の加工事業許可を取り消す行政処分を受け、2003年4月18日にはウラン再転換事業の再開を断念している。2000年10月11日には茨城県警によりJCO東海事業所の所長ら6名の職員が逮捕され、その後、水戸地方検察庁により刑事起訴された。2003年3月3日、水戸地裁より、その6名に執行猶予付きの禁固刑や罰金刑が、そして、法人としてのJCOに罰金刑が言い渡された。控訴はされず、このまま刑が確定している。なお、有罪判決を受けた6名のうちの1名は、沈殿槽での作業に参加し、重度の被ばくを受けながら唯一生還したY氏である。彼は被害者でもあり、加害者でもあったのだ。

 余談であるが、JCO臨界事故が発生した日の翌日(1999年10月1日)には、小渕内閣(第2次改造)の組閣が予定されていた。しかし、小渕恵三首相は事故対応を優先し、組閣を4日間延期した。

 一方、今年の9月11日には、台風15号で千葉県とその近県が甚大な被害を受けるなか、安倍内閣(第4次安倍・第2次改造)が悠然と組閣を行っていた。

<取材・文/井田 真人>

【井田 真人】

いだまさと● Twitter ID:@miakiza20100906。2017年4月に日本原子力研究開発機構J-PARCセンター(研究副主幹)を自主退職し、フリーに。J-PARCセンター在職中は、陽子加速器を利用した大強度中性子源の研究開発に携わる。専門はシミュレーション物理学、流体力学、超音波医工学、中性子源施設開発、原子力工学。

関連記事(外部サイト)