「殺していないのに絞首刑で処刑された人が何人もいる」元死刑囚の免田栄さんが冤罪の怖さを訴える

「殺していないのに絞首刑で処刑された人が何人もいる」元死刑囚の免田栄さんが冤罪の怖さを訴える

免田栄さん

◆34年6か月投獄され、再審無罪に

 何もしていないのに知人宅にいるところで突然逮捕され、無実を訴えたのに死刑判決が確定し、34年6か月も投獄された末、再審裁判で無罪となった日本人がいる。1983年に日本の死刑囚で初めて再審無罪になった免田栄さん(93歳)だ。

 免田さんの再審裁判資料、獄中で使用した六法全書、家族や支援者への手紙など14点を展示する「『地の塩』の記録 免田事件関係資料展」が9月17日から30日まで、熊本市中央区の熊本大学附属図書館で開かれていた。

 展示開始の17日、34年間無実を訴え、死刑台からの生還を果たした免田さんと妻の玉枝さん(83歳)のトークイベントが行われた。現在は夫婦で福岡県大牟田市の高齢者施設に住んでいる。夫妻は何度か、同志社大学で筆者が担当していたゼミのイベントで講演してくれたことがあり、6年ぶりの再会となる。

 免田さんは、ふるさとの熊本県球磨郡免田町(現・あさぎり町)には戻らなかった。親類は、免田さんの逮捕から死刑確定までの報道で生活を破壊された。免田さんは「無罪になっても、社会の自分に対する視線は冷たい」と語る。

 再審無罪判決から36年たった今も、免田さんを死刑とした有罪判決が苦しめているのだ。

 免田さんは約60人の学生、教職員、市民らの前で、「私の場合は運良く社会に戻れたが、人を殺していないのに処刑された人が多数いる」と国家犯罪である冤罪の怖さを語った。

◆警察が拷問の末に虚偽自白を強要

 免田さんは1948年に熊本県人吉市で起きた祈祷師一家4人死傷事件で1949年1月、警察官に連行され逮捕された。

 取り調べの警察官は「我々は天皇から公職を拝命した警察官で、お前たちのような水呑百姓とは違うんだ」と当時23歳だった免田さんを威圧し、殴る蹴るの拷問の末に虚偽自白をさせた。

 1953年に最高裁で死刑が確定。免田さんは第6次再審請求が認められ、1983年に熊本地裁人吉支部で再審無罪が言い渡され、逮捕から34年半ぶりに自由の身になった。

◆法務省の見解は「再審請求は死刑執行を停止する理由にはならない」

 今回の展示には、免田さんが1952年1月、第一次再審請求を行った後、福岡刑務所から免田さんの父、免田榮作氏に宛てた文書3通もあった。

 死刑確定から9日後の1952年1月14日付の1通目の文書では、「死刑執行後の遺体を引き取るかどうか」を尋ね、「引き取らない場合、九州大学医学部での解剖に回す。遺骨の下付願いを出す場合、火葬料として700円を請求する」と通知している。

 免田さんが手書きで第一次再審請求(同年6月)を行った後の同年10月7日付で出された3通目の文書では、「再審請求の手続きが終了し、且つ、法務大臣の命があるまで死刑の執行はされない」と伝え、「火葬料を800円に値上げする」と通知している。榮作さんは刑務所からの文書に回答することを拒んだ。

 安倍政権下では、オウム真理教事件で死刑囚13人が処刑されたが、麻原彰晃氏ら再審請求中の死刑確定者が6人いたほか、一般刑事事件でも再審請求中の死刑囚が処刑されている。法務省は現在、「再審請求は死刑執行を停止する理由にはならない」という見解だ。

◆裁判資料や獄中からの手紙などを熊本大学文書館が保存

 トークの司会は元『熊本日日新聞』論説主幹の高峰武氏と「熊本日日新聞サービス」社長の甲斐壮一氏が務めた。両氏は、熊本日日新聞社編『完全版 検証・免田事件』(現代人文社、2018年)を執筆している。

 約2年前、免田さん夫妻が、自宅に保管している裁判関係資料、獄中からの手紙などを、「社会が教訓として学べるようどこかで所蔵してほしい」と相談した。

 両氏は熊本大学と協議し、文書館が水俣やハンセンなど地元の大事件の資料保存を掲げているため、そこで段ボール箱10数箱分の資料を保存することになった。両氏は熊大から文書館の市民研究員に任命されて資料の整理を進め、資料の中から約10点を今回展示した。

 高峰氏は「免田さんはとても普通の人。釈放された時、悟りをひらいた人が出てくると思ったが、酒も飲むし、やんちゃな面もある。普通の人だから冤罪の被害者になった。展示の名前には、『地の塩』という言葉を使った。

 これは聖書にある言葉で、『地の中には塩があるので腐敗を防いでいる』という意味だ。免田さんがいることで、冤罪の怖さを我々に気づかせてくれる。私たちの社会が気づかないことを、身をもって気づかせてくれる人だ」と話した。

◆獄中でずっと私を助けてくれる人がいた

 高峰氏は「免田さんの最初の自白調書では、自分の名前をカタカナで書いていた。文字も十分書けなかった免田さんは、職員から辞書を借り、贈られた六法で、法律を学んだ。再審のことを教えてくれたのも受刑者だった」と述べた後、獄中での闘いについて聞いた。免田さんは次のように答えた。

「1949年1月に逮捕され、投獄されたが、苦労するばかりではなく、獄中でずっと私を助けてくれる人がいた。そういう人たちと運動の時間などに話をしたり、うなずき合ったりしていた。

 言葉にもなって出ることもあった。それが偶然にも再審無罪につながった。努力して希望を持つという気持ちを持たなければ遠い昔に処刑されていたと思う」

 免田さんはまた「自分に不利な判決が出た時に、社会ではその判断は正当とされる。本人は正当だと思っても思わなくても、そうなる。人間の弱さを感じる。それに負けずに努力してきたつもりだ。裁判の過ちが冤罪を引き起こす。本当に不備のない法治国家にしてほしい」と訴えた。

◆処刑された人たちの顔が脳裏に浮かんでくる

 日本では1983年から84年の約1年間に、免田さんのほか、谷口繁義さん(財田川事件)、斎藤幸夫さん(松山事件)、赤堀政夫さん(島田事件)が死刑台から生還した。免田さんは冤罪の怖さについてこう話す。

「残念なことだが、拘置所の中で、約70人の死刑囚を見送った。私はたまたま再審が決まり、無罪を勝ち取って社会に戻ることができたが、人を殺していないのに、殺したということで処刑された人が何人もいる。

 その一人一人の方の目、顔が今も脳裏に浮かんでくる。死刑囚には(牧師、僧侶などによる)教誨の時間があるが、その教誨の後に、『自分はやっていない。どうにかならないか』と言われたことがあった。

 私は運よくチャンスが回ってきて、再審無罪になった。運のいい人と悪い人がいる社会だ。これから残る人生、運によって人生が決まるようなことがないように、新しい民主主義の社会を作るために、自分の経験を生かして努力したい。これからも仲間に入れていただきたい。

 私は自然の摂理を大切にしたい。私は不幸中の幸いの男だ。私を支援してくれた人たちのご恩を忘れず、これからも頑張りたい」

◆免田さん「冤罪がない社会にしたい」

 高峰氏が「今も冤罪が絶えない。どうすべきか」と聞くと、免田さんはこう答えた。

「世の中は、逆も真理なりだ。何事にも裏があると、肝に銘じてきた。国が人権を保障する、国民一人一人が納得のいくまで考える。昔のような『お上主義』ではだめだと思う。

 冤罪事件はいろんな人たちの問題だ。今日か、30年、40年後にあるかもしれない。みなさんもいつ何時、被害に遭うかもしれない。民主主義国に恥じないように、冤罪がない社会にしたい」

 免田さんは死刑確定後、毎朝、処刑場に送られる可能性があった。

「人間の日常の生活でも、お互いに注意し合って暮らさなければならない。誰もが冤罪に巻き込まれるかもしれない」

 無実の罪で34年間、自由を奪われた経験のある免田さんは、今も警察のでっち上げを警戒しているのだ。

◆「日本は捨てたものではないと思う」と玉枝さん

 妻の玉枝さんは、裁判資料を永久保存する熊大に感謝しているという。

「地元の大学に展示していただき、若い人に、助けを求められる前に支援活動を始め、役に立つような人になってほしい。資料を栄養にし、参考にして、役立ててほしい。若い人たちにバトンをタッチしたい」

 玉枝さんは「免田は今でも、昼間疲れていても横にならない。ソファに座っている。獄中では雑魚寝が許されなかったからだろう。今も長い拘禁生活の影響がある」と話した。

 免田さんが釈放された翌年からともに暮らす玉枝さんは「一緒にいて思うが、この時必要なんだという時に、弁護士、支援者に出会うことができた。いろいろな人たちに助けられてきたと痛感する。そういう意味で日本は捨てたものではないと思っている」と話した。

 さらに玉枝さんは「自らが必要なことがあれば、自らが立ち上がらなければだめだと思う。私たちが大切にされる社会をつくる。日本をもう少し住みやすい、平和な、障害者も安心して暮らせる社会にしたい」と訴えた。

<文/浅野健一>

【浅野健一】

あさのけんいち●ジャーナリスト、元同志社大学大学院教授

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