「宇崎ちゃん」献血ポスター、なぜ議論がこじれるのか

「宇崎ちゃん」献血ポスター、なぜ議論がこじれるのか

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◆「炎上」した献血ポスター

 ある日本赤十字の献血ポスターが、ネット上で議論を呼んでいる。問題になっているのはウェブ漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボレーションしたポスターで、献血に行くことによって同作品のクリアファイルが貰えるというキャンペーンの宣伝として製作されたものだ。

 このポスターでは、いわゆる「乳袋」(*編集部注:乳房のラインがくっきり出る、一般的な服ではあまりない構造の絵画表現)など性的な側面が強調された女性キャラが、煽るような表情で、「センパイ!まだ献血未経験なんスか?ひょっとして……注射が怖いんスか?」という、挑発的なセリフを言っている。ポスター下部には赤十字のマークがあり、「みんなの勇気と優しさで患者さんを笑顔にできる」と書かれている。

 キャンペーンは10月1日から始まっていたが、10月14日、あるアメリカ人男性が、ポスターの「過度に性的な」側面をtwitter上で問題にしたのをきっかけに、一気に議論が巻き起こった。

 公共の場における女性表象のセクシズムについては、すでに30年以上前から問題化されている。そして、女性性を安易なアイキャッチとして利用したり、ステレオタイプ的な表現だったりといった、女性を客体化する表象は批判にさらされ、次第に減少してきたという歴史がある。

 この文脈の中に位置づけるならば、件のポスターは確かにアウトとならざるをえない。同作品とコラボするにしても、より穏当で無難な素材は他にもあったのだから、一番「悪ノリ」に近いイラストを選択した担当者はいかにも不用意であったというしかない。

◆献血ポスターについての不毛な議論

 にもかかわらず、このポスターには擁護の声が集まっている。女性をアイキャッチにして何が悪いのか・献血が多く集まるのだから良いではないか・そもそもこのポスターのどこが「性的」なのか、などである。

 公共の場で女性をアイキャッチ的に使うことがなぜ悪いのかというと、端的にいえば、それが女性を客体として消費することを公的に承認することになりかねないからである。それは性差別を承認することになるので、献血者が増えるから良いじゃないかといった、功利主義の観点から擁護することもできない。

 ポスターのどこが「性的」なのかについては、筆者自身オタクである者としては、そりゃ明らかだろと言いたい。完全に2次元表現における性的なコードに沿って描かれてるじゃん!そりゃ人によって感じ方は異なるかもしれないけど、そこじゃないじゃん! 自分の感じ方じゃなくて、オタク文化をそれなりに享受してきた人間ならだいたい理解できる共通認識の問題じゃん! いまさらカマトトぶんなよ!

 ただし筆者は、このような議論をクドクドやりあうことにあまり建設的な意義を見出せない。先述したように、公共の場で女性表象を性的なアイキャッチとして使用することについては、日本でも、少なくとも1980年代の「行動する女たちの会」以降、重ねて問題にされてきており、それをやるべきではないのは、男女共同参画社会基本法の制定を経て、現在では行政も含めてコンセンサスがある。

 たとえば昔は生命保険会社がヌードカレンダーを各職場に配ったりしていたが、現在ではほとんどの人がそれはやるべきではないと考えるだろう。最低限その前提を議論の出発点とできなければ意味がない。

 したがって、本稿は、なぜ当該ポスターが公共におけるジェンダー表象の水準においてアウトなのか、ということについてはこれ以上議論しない。そうではなくて、なぜこれほど単純なジェンダー表象の失敗案件が、ネット上では(また一部メディアでは)激しい反発を生み、こじれてしまうのだろうか、という点について考えたいと思う。

◆漫画・アニメとのコラボだから「炎上」するわけではない

 公共団体が用いる漫画・アニメ的な女性表象が「炎上」するのは、これが初めてのことではない。人工知能学会が学会誌の表紙に用いたイラスト(2014年)、美濃加茂市の観光協会がアニメ『のうりん』とコラボしたポスター(2015年)、志摩市をPRするため、海女をモデルに製作されたキャラクター「碧志摩メグ」(2015年)、東京メトロのイメージキャラクタ「駅乃みちか」(2016年)、Vtuber「キズナアイ」とNHKのサイエンス番組とのコラボ(2018年)、などである。

 こうしたことにより、漫画やアニメは迫害されていると考える人もいるが、注意しておかなければいけないのは、公共団体と漫画・アニメ表象のコラボ全てが炎上するわけではないということである。既存作品とのコラボに限っても、「炎上」するのはごく一部の作品だけだ。筆者自身、漫画やアニメを広く享受してきたこともあるので、世界観と上手くマッチしたPRを見ると嬉しくもなる。

 献血のポスターも、たとえばアニメ『はたらく細胞』とコラボしたものについては、特に問題になっていない。登場人物である赤血球と白血球と血小板をフィーチャーしたものが多く、白血球は男性的に表象されているので、ジェンダーバランス的にもよい。また血液というコンセプトも一致しており、適切なコラボだといえる。

 結局のところ、公共の表象が「炎上」してしまう理由は、漫画・アニメとコラボしたからではなく、それぞれ個別の理由があるのだ。『のうりん』ポスター・「碧志摩メグ」・「駅乃みちか」はそれぞれ過度な性表現、人工知能学会の表紙・「キズナアイ」の場合は、それぞれステレオタイプな性別役割が問題となっており、ひとつひとつ固有の文脈がある。したがって、この問題について、なぜ公共の場における漫画・アニメ表象は失敗するのか? という問いの立て方をすると、失敗してしまうだろう。

◆女性表象批判は難しい?

 では何が問題なのだろうか。ネットの議論をみていると、とにかく批判派と擁護派の双方の認識の断絶が目立つ。ポスターの巨乳表現への批判をしているのに、それが巨乳それ自体への批判と捉えられてしまうという、奇怪な現象も起こっている。

 こうしたことから、表象における女性の客体化についてのフェミニズムの問題意識は難解であり、したがって世間一般に浸透していないことが問題なのではないか、と主張する人も多い。また、セーフな表現とアウトな表現の基準が不明確であり、万人に共有されるような明快さがないことから、このような混乱やとまどいが起きているのではないか、と主張する人もいる。

 しかし、これについても筆者はそうか? と思う。女性自らが行う主体的な表現と、女性を客体的に扱う表現の違いを理解し区別するのは、そんなに難しいことなのだろうか? 筆者も一応オタクを自認しているので、女性を客体化する表現を消費していないとは言わない。しかしだからといって、女性を客体化する表現が問題であるということが理解できなくなるわけではないし、可能な限りの折り合いをつけていく必要があると思う。まして、自分が眼差す対象と他者の存在そのものを混同させたりはしない。

 もちろん、ポスターへの批判をする者の中に、巨乳自体がおかしいと不用意に発言する者がいたとするならば、それは個別的に批判されなければならない。だが、白人が顔を黒塗りにして、唇を分厚くするメイクをするブラックフェイス・パフォーマンスを人種差別として批判することが、実際に肌の色が黒に近く唇の分厚い黒人を差別していることにはならないのと同様に、2次元表現における性的なコードによって特徴づけられて描かれた巨乳イラストを問題にすることは、けして巨乳差別ではない。単純なことだ。これを理解させるために、何千字にもわたって弁を尽くさなければならないとは思えない。

 さらに、明確な基準がなければ、人は漫画・アニメ表象について、セーフな表現とアウトな表現を区別できないのだろうか? 筆者はこれも違うと思う。年間で、公共における漫画・アニメ表象が問題になってバズるのは、せいぜい数件。前述したように、公共と漫画・アニメとの、ほとんどのコラボレーション、ほとんどの企画は、「炎上」せずに済んでいるのだ。

 もちろん、実際はアウトなのに、フェミニストに「発見」されていないだけの表象や、ジェンダーのことなど何も考えていなかったが、たまたまセーフだった表象もあるだろう。だがそれでも、ほとんどの表象については、関係者はセーフなものを選択できている。つまり、きちんと区別をしようとしさえすれば、人は表象を区別できる。区別できないぐらい曖昧な表象についていえば、その都度考えれば事足りる話だ。厳密な基準にこだわる意味はない。

◆不誠実な「否認」

 では結局、何が問題なのか? 身も蓋もない言い方をすると、ポスターを擁護する側が、ポスターの問題を「否認」していることが問題なのだ。「否認」の仕方は様々だが、ポスターに問題があるとは決して認めないぞという姿勢だけは一貫している。

 公共性の高い団体と低い団体、公共性の高い場所と低い場所、主体と客体、巨乳「である」ことと、巨乳「を描く」こと、性的なものが誇張された表現と誇張されていない表現。普段は区別できているはずで、そうでなければ日常生活を送るのも困難であろうはずのことが、当該のポスター問題になるやいなや、都合よくできなくなるのだ。

「否認」を行うものは、この区別の可能性と不可能性のあいだを不誠実に揺れ動く。たとえば、公共性の高い場所であることを問題にすると、“巨乳「である」表現と巨乳「を描く」表現の双方を”排除せよというのか、と言う。女性の客体化を問題にすると、当該ポスターの絵を”あらゆる場所で”禁止せよというのか、と言う。延々と批判する側の主張を曲解し続け、そのような曲解はエコーチェンバーによって拡散される。そして、最終的に「何を言いたいのかわからない、結局はお気持ちの問題なのだろう」「アニメ・漫画表現が嫌いなのだろう」と締めさえすれば、けして負けない議論ができるのだ。

◆「否認」論には付き合うべきではない

 最初に、筆者がポスターの賛否をめぐる議論について不毛だと言ったのは、こうした「否認」論に巻き込まれる可能性があるからだ。もちろん、女性表象の問題について思考し、丁寧に言語化していくことは必要なことだ。そして、問題を理解しない者に対して誠実に対話と説得を続けていくことも大切だ。それを否定はしない。だが、不誠実な「否認」論者と泥沼の論戦に入り込むぐらいなら、消耗する前にさっさと撤退して、ほかのことに時間を費やしたいものだ。

「行動する女たちの会」の行動の記録である『ポルノ・ウォッチング―メディアの中の女の性』(学陽書房、1990年)を読むと、80年代は70年代よりも多少はマシになったという感想が述べられている。女性表象に関していえば、2019年は1980年代よりもさらにマシになっているといえるだろう。状況が停滞しているようにみえたからといって悲観することなく、関心を持ち続けていくことが重要なのだ。

<文/北守(藤崎剛人) 写真/HBO編集部>

【北守(藤崎剛人)】

ほくしゅ(ふじさきまさと) 非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82

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