「難波」ラブホ街は、いかにして「ファッションストリート」になったのか<ラブホテルの地理学>

「難波」ラブホ街は、いかにして「ファッションストリート」になったのか<ラブホテルの地理学>

多くの性風俗店が集まる西心斎橋2丁目南部。元々は旅館街だった。(筆者撮影)

 ラブホテル街はどこにできるのか――。

 本連載では、「部屋数」や「料金」などの視点から、大阪市のラブホ街について考察してきた。今回は、「歴史」という切り口でラブホ街を見てみたい。舞台となるのは、大阪で、そして西日本最大のラブホ街《難波》である。性と歓楽の街は、どのような場所の系譜を経て現在に至ったのだろうか。

◆「花街」から「ラブホ街」へ

 日本にラブホ街ができ始めるのは第二次世界大戦後のことである。しかし、性の街としての《難波》の歴史は江戸時代にさかのぼる。近世の大坂には、「大坂四花街」と呼ばれる花街があった。その1つが、現在のミナミ周辺に存在した「南地(なんち)」である。南地は、さらに細かく宗右衛門町、櫓町、坂町、九郎衛門町、難波新地という5つの花街に分かれ、「南地五花街」と総称された。このうちの九郎衛門町と難波新地が、現在ラブホテルが密集しているエリアと重なる。

 1912年、難波新地で「ミナミの大火」と呼ばれる火事が起こった。この火事は約5000戸を焼き尽くし、これにより難波新地は移転することになった。この時の移転先が、現在でも「料理組合」の名目の下、風俗営業を続けている飛田新地である。「ミナミの大火」によって花街は消滅したが、その周辺には、「待合」や「席貸」といった店が残った。これは、芸娼妓を招いて遊興を行う施設である。これらは、昭和初期になると「連れ込み旅館」や「円宿」と呼ばれる貸間産業に転換し、現在のラブホテルの元となった。

 ちなみに、大坂四花街の残りの3つは新町、堀江、北新地である。新町と堀江は住宅や商店が並ぶ一般的な街に変わったが、北新地は現在でも歓楽街となっており、そのすぐ近くの太融寺町や兎我野町にはラブホテルが立ち並んでいる。このように、花街からラブホ街に転換した例は、東京や京都でも見られる(渋谷の円山町、祇園の安井金比羅宮周辺など)。

◆《難波》ラブホ街の成立期

 今回、ラブホ街の変遷をたどるにあたって使用するのは、敷地ひとつひとつの細かな用途を記した「住宅地図」である。大阪市では1959年から住宅地図が刊行されており、これを見ることでどこにラブホテルが建っていたかをおおよそ掴むことができる。ただし、この資料を使うにあたっては注意も必要である(以下画像の「注」参照)。なお、今回の分析の対象範囲は、大阪市中央区の西心斎橋2丁目、道頓堀2丁目、難波2丁目としている。これは、おおむね現在の《難波》で最も多くのラブホテルが立地するエリアと重なる。

 …前書きが長くなってしまった。正確性を保証するためには仕方がない。ラブホテルでも、いきなり「本番」に入るのは無粋だということでご容赦いただきたい。

 それでは、諸々の注意点を踏まえたうえで、以下の地図を見てみよう。これは、1959年の住宅地図に記載された「旅館」「ホテル」「トルコ」をマッピングしたものである。

 この時点で、すでに多くの「ホテル」があったようだ。特に多いのは、北側の区画で、その周辺には多くの「旅館」が並んでいる。この中には「連れ込み旅館」も多く含まれていると思われるが、確かなことは分からない。

 1959年は、大阪でもラブホテルという営業形態が十分浸透した頃である。大阪では、1950年代初頭からラブホテルが出現し、1954年には都島区の「桜宮」に「銀橋ホテル」が開業する。全室にタイル風呂とテレビを備えたこのホテルは、戦後の住宅不足という時代背景もあって大成功をおさめ、第一次ラブホテルブームを巻き起こした。「大阪府ホテル協会」が設立されるのは1961年のことである。1959年の地図からは、従来の「連れ込み旅館」に挑戦状を叩きつけるように登場した、生き生きとしたラブホテルの姿が感じられる…ぜひ感じてほしい。

◆「トルコ風呂」の登場と衰退

 次に、1980年代の地図を見てみよう。1984年になると、1959年の地図には多く見られた「旅館」「ホテル」がかなり減少する。変わって登場するのが、「トルコ風呂」である。

 住宅地図において「トルコ」と書かれた敷地を青で示した。「トルコ風呂」は、現在のソープランド(個室付き特殊浴場)である。1951年、銀座に誕生した「東京温泉」がその走りで、当初はマッサージのみを行う健全な営業だったが、昭和30年代以降は風俗営業を行う店が増加していった。1958年に売春防止法が施行され、それまで風俗営業を行っていた赤線が禁止されたことで、業態を転換する業者が相次いだことが増加の一因である。

 《難波》においても、1970年代以降に「トルコ風呂」が増え、1984年には図の範囲だけでも39もの店舗が見られるようになった。しかし、1989年にはこれらの「トルコ風呂」は完全に姿を消す。これは、トルコ人留学生の抗議によって、1984年末に「トルコ風呂」という名称の使用が認められなくなったためである。ただし、名称が変更されただけで営業は続いており、1989年の地図にもそれと思しき店舗名は見られる。

 また、同じく1984年には風営法が大幅に改正(施行は翌年)され、ラブホの新規開業がより難しくなった。これによって、ラブホの数は全国的に減少することとなる。1984年は、風俗業界が一変した年であった。

 もう一つ注目してもらいたいのは、西心斎橋2丁目における「旅館」「ホテル」の減少である。ここには、「性」の街としての《難波》の大きな流れが現れている。

◆初期ラブホ街は「若者の街」へと生まれ変わった

 《難波》ラブホ街の大きな流れ、それは、北から南へのラブホの大移動である。1959年からの《難波》の変遷をまとめると、以下のようになる。

 この図からは、北側の西心斎橋2丁目から、南側の道頓堀2丁目・難波2丁目へとラブホ街が移動したことが見てとれる。1959年には多くを占めていた「旅館」は、1980年代に入るとほとんど姿を消す。それに代わって、「トルコ」が出現するが、1984年を過ぎると消滅し、今度は「ホテル」が南側で増加していく。なぜ、このような移動が起こったのだろうか。

 その答えは、現地を見るとよく分かる。現在の西心斎橋2丁目や、その北にある炭屋町は、大阪の若者が集まるファッションストリート「アメリカ村」となっている。1960年代まで、この一帯は倉庫や駐車場に混じってラブホテル・旅館がある程度の、明るいとは言えない街だった。しかし、1970年代以降、繁華街・心斎橋の近くにありながら地価が安いという条件を活かし、デザイナーたちが店を構えるようになった。その後つぎつぎとアパレル店が開業した結果、ラブホ街は押し退けられ、西心斎橋2丁目付近はファッションの街となった。

 一方、南側の道頓堀2丁目・難波2丁目は、間に道頓堀川を隔てていることもあり、服飾関係の店は進出してこなかった。むしろ、道頓堀の歓楽街の延長として、居酒屋やバーが集まる享楽的な雰囲気の街であった。このような街のイメージの差異が、ラブホ街の“南進”を招いたと考えられる。あるいは、できる限りラブホテルを狭い範囲に押し込めておきたいという行政側の誘導もあったかもしれない。

◆「性なる街」の歴史地理

 以上が《難波》ラブホ街の変遷である。現在も多数のラブホテルがひしめく《難波》であるが、歴史を遡ると今以上に“色”の濃い街であったことが明らかになった。連れ込み旅館、ラブホテル、「トルコ風呂」など、《難波》の店々の消長には、日本の戦後風俗史が現れている。

 ラブホ街の歴史については、すでにいくつかの本が出されている。本稿も、先学の研究成果を参照している。ラブホ史に関心を持った方は、ぜひ以下の文献にもあたっていただきたい。

[参考文献・資料]

井上章一(1999)『愛の空間』角川書店

金益見(2012)『性愛空間の文化史 「連れ込み宿」から「ラブホ」まで』ミネルヴァ書房

近藤利三郎(2006)『なつかしの関西ラブホテル60年 裏のうらのウラ話』レベル

『ゼンリン住宅地図 大阪府 大阪市 中央区 南部』ゼンリン,2005・2015年

『精密住宅地図 大阪市中央区』吉田地図株式会社,1959〜1994年

 そのほか、筆者による以下の論考では、神社の門前に形成されたラブホ街について考察している。こちらも併せて読むと、大阪のラブホ街をより立体的に見ることができるであろう。

重永瞬(2019)「大阪市天王寺区生玉町におけるラブホテル街の形成と変容」志学社論文叢書

◆「ラブホテルの地理学」3

<取材・文・撮影/重永瞬(都市商業研究所)>

【重永瞬(都商研)】

しげながしゅん●Twitter ID;@Naga_Kyoto>。京都大学文学部地理学専修在籍。京都大学地理学研究会第7代会長。京都・観光文化検定試験1級を史上最年少(20歳)で合格。著書に『大阪市天王寺区生玉町におけるラブホテル街の形成と変容 歴史編』 (志学社論文叢書)

【都市商業研究所】

若手研究者で作る「商業」と「まちづくり」の研究団体。Webサイト「都商研ニュース」では、研究員の独自取材や各社のプレスリリースなどを基に、商業とまちづくりに興味がある人に対して「都市」と「商業」の動きを分かりやすく解説している。Twitterアカウントは「@toshouken」

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