丸ノ内線はなぜ直接新宿・荻窪に向かわないのか <東京地下鉄100年史>

丸ノ内線はなぜ直接新宿・荻窪に向かわないのか <東京地下鉄100年史>

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◆東京を経由しないと新宿・荻窪に行けない丸ノ内線

 池袋から東京、新宿を経由して荻窪に至る本線と、中野坂上から分岐して方南町に至る支線から構成される丸ノ内線。その利用者数は東京の地下鉄13路線中2番目に多い1日あたり137.7万人という都心の大動脈だ。そして丸ノ内線は銀座線に次いで2番目、戦後としては初めて建設された地下鉄でもある。

 普段当たり前のように使っていると意識しないかもしれないが、改めて丸ノ内線の路線図を見ると不思議な形をしていることに気づく。文字にすると「池袋から新宿を経由して荻窪に向かう路線」だが、池袋〜新宿間は東京を経由して、ぐるりと大回りしている。池袋から出発した電車は荻窪とは反対方面に進み、東京駅でUターンし、ようやく荻窪に向かうのである。

 池袋から新宿、荻窪に行きたい人は、丸ノ内線の「新宿行き」「荻窪行き」に乗ってはいけない。東京では当たり前の知識だが、考えてみれば不親切もいいところである。

 だが、丸ノ内線の路線図の謎は、その路線名の由来を考えることで答えが見えてくる。丸ノ内線とは池袋から丸ノ内(東京駅)を結ぶ路線と、荻窪・新宿から丸ノ内(東京駅)を結ぶ路線のふたつが合体しているのである。多くの私鉄が発着するターミナル駅である池袋、新宿と東京・丸の内を直結する地下鉄、それが丸ノ内線の名前の由来であり、役割だ。

 池袋、新宿とくれば、山手線のもうひとつの大ターミナル駅が渋谷だ。渋谷と都心を結ぶのは銀座線。銀座線と丸ノ内線は、赤坂見附で同じホームで乗り換えできるようになっているなど、密接な関係にある。つまり、銀座線と丸ノ内線が協力して、池袋、新宿、渋谷の三大ターミナルから都心に向けて3本の路線を延ばしているというわけだ。

 そしてここから、丸ノ内線が銀座線に続く戦後初の新線として建設された理由も浮かび上がってくる。

◆1920年代以降、東京の市街地が拡大

 東京の郊外で住宅地の開発が本格化したのは1920年代以降のことである。それまで東京の市街地は江戸以来の範囲、つまり西は山手線の内側から東は隅田川を越えて東陽町(当時は洲崎)付近までに収まっていた。

 しかし、人口増加により都心の住環境が悪化したこと、また中央線や山手線が都心まで延伸して電車通勤が可能になったことから、人々は徐々に居住地を郊外に移すようになった。その流れを決定的なものにしたのが1923年に発生した関東大震災であった。地盤が悪く、危険な下町を離れ、環境の良い郊外に移り住む人が急激に増加を始めたのである。

 1919年の地図と1932年の地図を比較すると、わずか10年強の間に、市街地が大幅に拡大していることが分かる。その背景には、1920年代から30年代かけて郊外私鉄の開業が相次いだことが挙げられる。

 東急電鉄の目蒲線(現在は目黒線・多摩川線)、池上線、東横線、西武鉄道の西武新宿線、小田急電鉄の小田急本線、京王電鉄の井の頭線など、東京の郊外を走る私鉄は、住宅地が山手線を越えて郊外に広がっていくのを後押しするとともに、その輸送を支えた。

 これら路線の多くは山手線に接続し、都心までの移動を山手線に頼った。1930年代半ばになると私鉄から山手線に乗り換えて都心に向かうサラリーマンは相当増えており、既に山手線はラッシュ時、6両編成で4分間隔の運転を行っている。つまり、東京の私鉄は山手線とセットで発展してきたのである。その中でも特に、多くの私鉄が接続した池袋、新宿、渋谷はターミナル駅として成長を遂げていった。

 各ターミナルには路面電車も乗入れていたが、速度の遅い路面電車では都心まで時間がかかるため、都心に用事がある人はスピードの速い山手線に乗り換えていた。

 ところが全ての私鉄の利用者が山手線に乗り換えるので、私鉄の利用者が増えていくと山手線だけでは輸送力が足りなくなる。また山手線は都心まで大回りをしているので、ターミナル駅と都心をもっと直線的なルートで結ぶ交通機関が求められるようになってくる。

◆ターミナル駅と都心をつなぐ丸ノ内線の誕生

 そこで、後の東急グループ創業者である五島慶太(ごとうけいた)が中心となって、1934年に設立されたのが「東京高速鉄道」という地下鉄事業者であった。前回の記事でも取り上げたように、銀座線は浅草〜新橋間を「東京地下鉄道」、新橋〜渋谷間を東京高速鉄道という2つの私鉄が建設した路線が統合されて誕生した歴史がある。

 東京高速鉄道は東横線のターミナル渋谷と都心を直結するため、東京地下鉄道への乗り入れを前提に、渋谷〜新橋間の地下鉄建設を計画した。東京地下鉄道は独自に新橋〜品川間を延伸する計画だったため、これに反対して激しく対立するが、山手線と並行する新橋〜品川間よりも、山手線を短絡する渋谷〜新橋間の方が整備を求められていたこともあり、最終的に東京地下鉄道と東京高速鉄道は新橋で接続して直通運転を行うことになった。

 続いて、新宿と都心を結ぶ路線、池袋と都心を結ぶ路線も構想されているが、東京地下鉄道と東京高速鉄道が経営権を巡って激しく対立したこともあり、これ以上の地下鉄建設は戦前には実現しなかった。そこで政府は地下鉄建設を推進するために、両社を統合して「帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現在の東京メトロ)」を設立した。

 丸ノ内線の原型となる路線は、営団の手によって戦時中に計画されたが、太平洋戦争が激化したため建設は延期され、地下鉄建設はしばらくの空白期間を迎える。

 戦争に敗れた日本は焦土から再出発する。復興が進んだ1952年、戦後初の地下鉄新線として建設されることになったのが丸ノ内線だった。丸ノ内線は1954年に池袋〜御茶ノ水間に開業し、1959年までに順次、新宿まで延伸していく。この結果、池袋、新宿、渋谷の三大ターミナルから都心への移動経路がそれぞれ2本ずつとなり、輸送量が格段に増加することになった。

◆丸ノ内線は神田を経由するのが理想だった

 ところで銀座線と丸ノ内線は、赤坂見附駅で同じホームが乗り換えできる。これは新宿・渋谷のいずれから来た利用者も、赤坂見附でどちらかの路線に乗り換えれば、丸の内側(東京駅)と銀座・日本橋側(銀座駅・日本橋駅)のどちらにも行けるようにしたものだ。

 しかし、池袋から来た利用者は丸の内側(東京駅)に向かうしかなく、日本橋側(銀座駅・日本橋駅)に行くことができない。実は元々、池袋の利用者も都心の両側に行けるようにするために、丸ノ内線は神田を経由して銀座線と乗り換えできるようにする計画だった。ところが、神田駅周辺の用地が確保できずに断念され淡路町経由に変更された経緯がある。

 丸ノ内線が当初の計画通りにできていれば神田から赤坂見附までが東京駅の内と外の二つの円弧で結ばれ、郊外から入ってくる人がどちらにも行きやすい、さらに便利なネットワークになっていたことだろう。

 ちなみに丸ノ内線の新宿〜荻窪、中野坂上〜方南町間は、1961年から1962年にかけて「荻窪線」という名前で建設されている。この路線は混雑が激化する中央線のバイパスとして混雑緩和を図るために整備され、丸ノ内線と一体的に運行されていたが、当初は異なる名前の路線として案内されていた。1972年に荻窪線は丸ノ内線と統合され、池袋〜荻窪、中野坂上〜方南町の全区間が丸ノ内線と呼ばれるようになった。

<文/枝久保達也>

【枝久保達也】

鉄道ライター・都市交通史研究家。1982年、埼玉県生まれ。大手鉄道会社で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当した後、2017年に退職。鉄道記事の執筆と都市交通史の研究を中心に活動中。

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