中村哲医師個人の偉業を「日本はスゴイ」にすり替え。お別れ会で見た、アフガンと日本政府関係者の温度差

中村哲医師個人の偉業を「日本はスゴイ」にすり替え。お別れ会で見た、アフガンと日本政府関係者の温度差

小雨が降る中、お別れ会の会場には5000人が集まった

◆中村哲医師のお別れ会に5000人が参列

 去る1月25日、アフガニスタンにて銃撃されて亡くなった中村哲医師のお別れ会が、福岡市の西南学院大学チャペルにて厳かに行われた。筆者も、中村医師が通った西南学院中学校の一後輩として参列した。あらためて、中村哲医師が私たちに遺したものはなんだったのかを振り返ってみたい。

 午後12時40分、開場20分前の段階で私が会場に到着した頃には、すでに1000人を優に超える人が行列を作っていた。会場となっているチャペルの席はすでに満席で、モニターで同時中継される隣接の一号館の教室をフルに使ってもなお続々訪れる弔問者は入りきれず、『毎日新聞』の報道によると最終的な参列者数は5000人を超えたという。

◆中村医師を危険に陥れた「アフガン空爆支持」を誇る日本政府関係者

 挨拶に立ったアフガニスタン特命全権大使は、時折ハンカチを目や鼻にあて、感極まって何度も声を詰まらせながら「中村先生はアフガニスタンの偉大な友人であり英雄でした」とその死を悼んだ。その姿に、会場のあちこちではもらい泣きの姿がみられ、挨拶を終えた大使に会場全体から暖かな拍手が送られた。

 あとを受けた独立行政法人国際協力機構(JICA)の北岡伸一理事長の挨拶は、それとは対照的だった。曰く、2001年のいわゆる9.11同時多発テロを受けた小泉政権下の対外関係タスクフォースの一員となり、アフガン情勢をウォッチしていたという。同タスクフォースが出した結論に、以下のような文章がある。

「テロ特措法による米国への後方支援は『大きな中東』をめぐる日本外交が地域の安定にも責任をもつ意志を世界に表明したものである」(「21世紀日本外交の基本戦略―新たな時代、新たなビジョン、新たな外交―」平成14年11月28日、対外関係タスクフォース。首相官邸ウェブサイトより引用)

 小泉政権は、9.11後即座にアフガン空爆に踏み切った米国の姿勢を一貫して支持し、2003年のイラク戦争でも多大な支援をした。南アジアから中東にかけて、現在まで続く情勢の不安定化に一役買ったことは疑う余地がない。

 中村医師は当然、そのことに最も悪影響を受けた一人である。それまでは「日本人である」ということ自体が、アフガニスタン人やパキスタン人から信頼される一因となっていた。日本政府が米国のアフガン侵攻を支持した後は、それが通用しなくなった。

 中村医師や、彼が代表を務めていた現地団体であるPMSのメンバー、そして多くのアフガニスタン人の命を危険に晒す後押しをしたということに他ならない。遺族や関係者の前で、よくもそんな経歴を誇らしげに語れるものだ。

◆中村医師個人の偉業を「日本はスゴイ」にすり替え

 その後も北岡氏は、江戸時代に作られた福岡県朝倉市の山田堰にヒントを得て中村医師がアフガンの灌漑事業を進めたことに関して、「日本の素晴らしさを証明した」という趣旨の発言を展開した。

 確かに、灌漑プロジェクトにはJICAも一役買っている。しかし、ここはそれを誇る場所ではない。中村医師の偉業を「日本スゴイ論」にすり替えるその論法には、誰もが閉口した。

 実際、筆者がいた会場では彼の挨拶だけ誰一人として拍手もしなかった。5000人からの参列者を、そして何よりご遺族とペシャワール会の方々をいらだたせるようなことを臆面もなく言える“鈍感力”だけは感嘆に値する。

 ちなみに北岡氏は、対外関係タスクフォースのメンバーを経たのち国連大使となり、その後JICAの理事長に就任して現在に至っている。このような人物が外交の全面に出て日本は大丈夫なのか、心配になるのは筆者だけではないだろう。

◆30年以上前から、中村医師の功績は我々に影響を与えていた

 筆者が中村医師の話を初めて直接聞いたのは、1986年のことだった。筆者と同じ西南学院中学校の出身で、帰国時に中学のチャペルでその活動について後輩の中学生にその話を聞かせてくれたのだ。

 ペシャワール会の発足が1983年、中村医師がペシャワールのミッション病院に赴任したのが翌1984年。そのわずか2年後のことだった。ペシャワール会報(号外:2019年12月25日)によると、ちょうど彼がアフガン難民の治療を始めた頃である。

 偉大なる大先輩の話を聞いた筆者は言葉もなく、ただただ圧倒されるだけだった。同じように、感じ入った私の同級生はその場で「俺、医者になる」と宣言した。実際、彼は医学部を卒業して勤務医を経て独立し、開業している。

 筆者はといえば、その後国際関係学、哲学、平和学を学んでいくことになる。中学生時代に中村医師の話を聞いたことが筆者の背中を後押ししていることは間違いない。

 それが、1986年の中学生たちに与えた影響だった。その後、中村医師はアフガニスタンで井戸を掘り始め、さらには灌漑にまでその事業を広げる。あれから30年以上、さらにどれだけ積み上げていっていたのか、想像を絶する。

◆一人ひとりの命をすくい上げる「点」の活動を「面」まで広げる

 中村医師は、一人ひとりの命をていねいに取り上げて救っていった。その累積が65万人とも言われているが、実際にはもっと多いのではないだろうか。

 何十万人を対象とするようなプロジェクトは、面的に展開する。でなければ「大規模救済は不可能だ」とされるからだ。だが彼は、常に点をひとつひとつ積み上げていってこの数字に達したのだ。本当に途方もないことである。

「効率的」にプロジェクトを進めるにあたって効果的なのは間違いない。しかし、それだとどうしても、最もマージナルな(辺境にいる、中央から遠い)人たちが常に排除されてしまう。

 中村医師はそれを知っていて、むしろよりマージナルな部分から点で接していって、面を凌いだのだ。

 点的アプローチを貫く人びとこそ、最も尊敬に値するひとだ。逆説的のようだが、国際関係論(国際援助論、国際協力論など)を軸にした社会科学的アプローチは面的アプローチに傾きがちであり、筆者もその例に漏れない。しかし同時に、それとは真反対の点的アプローチこそ、より深く人を救えると筆者は確信するからだ。

 彼は、目の前の命をひとつひとつすくい上げるように治療を施していった。患者に必要なものは医者である。この当たり前のことが、先進国の大都市の真ん中ですら機能しない中、それが地球上で最も機能しなさそうな場所に単身乗り込んで、一人ひとりの「落とさずに済むはずの命」をすくい上げていっていたのだった。

◆戦場で武器を持たずに平和を説き、それを実践する

 中村医師から学ぶことは、非常に多くある。平和学者として筆者が何よりも彼に感謝したいのは、やはりこれだ。

「最も勇敢なものは戦場に赴きてなお武器を持たず平和を説き、それを実践するもののことである」

 このテーゼを完璧に証明してみせたこと。当然、これと対になるテーゼは以下のようなものだ。

「最も卑劣なものは戦場から遠ざかって平和を口にしながら他人に武器を持たせ、それを撃たしめるもののことである」

 誰のことか、あえて言う必要もないだろう。

 このテーゼは遥か昔から唱えられ、万人の得心するところだった。しかしそれを実行する人は希少であり、そのような人が現れるたびに聖人化されることが続いてきた。「私たちには彼のようなことはできない」と、むしろ平和構築への関与を他者化してしまうような言説を、中村医師のケースにおいてもしばしば耳にする。

 しかし、本当にそうだろうか。中村医師はクリスチャンだった。新約聖書・マタイによる福音書第5章9節は、こう説く。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(新共同訳)

 2000年も昔から、わかっていたことなのだ。そろそろ実行に移せるようになっていることが、人類が進化したという証なのではないだろうか。その意味で、中村医師は私にとって「人類の進化の証」だった。「進化した人類の、生きたモデルケース」だったのだ。

 人類が進化を運命づけられた種だとしたら、私たちは哲先輩のフィロソフィーを追って生きていかねばならないのだ。中学のはるか後輩たる私の目から見た中村哲医師とは、そういう人である。

< 文・写真/足立力也>

【足立力也】

コスタリカ研究者、平和学・紛争解決学研究者。著書に『丸腰国家〜軍隊を放棄したコスタリカの平和戦略〜』(扶桑社新書)など。コスタリカツアー(年1〜2回)では企画から通訳、ガイドも務める。

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