なぜ東京には東京メトロと都営地下鉄、二元体制なのか?<東京地下鉄100年史>

なぜ東京には東京メトロと都営地下鉄、二元体制なのか?<東京地下鉄100年史>

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◆東京メトロと都営地下鉄、2つの鉄道事業者

 今回取り上げるのは、東京都が建設した初めての地下鉄路線、都営浅草線だ。東京メトロにとって最古の路線が銀座線であるように、都営地下鉄にとって最古の路線という位置づけなのが浅草線である。

 東京で地下鉄を利用したことのある人の誰もが、なぜ東京には東京メトロと都営地下鉄の2つの地下鉄事業者が存在するのかという疑問を持っていることだろう。東京メトロの前身、営団地下鉄(帝都高速度交通営団)は地下鉄ネットワークの整備を目的として1941年に設立された特殊法人であった。にもかかわらず、東京都は別に都営地下鉄を建設し、運営している。どうして東京の地下鉄は二元体制で進められることになったのか。その裏側には、政府と東京都の長年にわたる「確執」が存在したのである。

 東京の地下鉄整備計画のルーツは、ちょうど100年前にさかのぼる。東京の都市計画を策定する「東京市区改正委員会」は1920年、東京の規模拡大に伴って、路面電車だけでは輸送需要に追い付かない状況となったことから、7路線からなる地下鉄整備計画を告示。さらに1925年には、関東大震災の復興計画にあわせて計画が改定され、5路線からなる東京都市計画高速度交通機関路線網が告示された。現在の地下鉄ネットワークはこの計画を出発点として、幾度もの改定を重ねた結果、整備されたものである。

◆東京市から地下鉄建設の主導権を取り上げた政府

 地下鉄は都市計画の担い手であり、地下鉄の収容空間となる道路の管理者でもある地方自治体の手で建設されることがほとんどだ。現在、札幌、仙台、横浜、名古屋、京都、神戸、福岡など日本各地に存在する地下鉄は、営団地下鉄を改組した東京メトロと、大阪市営地下鉄の民営化によって誕生した大阪メトロを除き、いずれも「市営地下鉄」という位置づけにある。

 当然、日本で最初に地下鉄整備計画が浮上した東京も、東京市(当時)の手によって建設が進められる計画だった。しかし、東京市は震災復興で手一杯で、地下鉄整備に着手することができず、戦前に開通した路線は、将来市営地下鉄と統合するという条件のもと、民間企業の手で建設された現在の銀座線のみにとどまった。

 その間にも東京の規模拡大は続き、地下鉄整備の必要性はますます強まっていく。地下鉄整備を急ぎたい国は、政府が主導する形で都心の鉄道・バス事業者の統廃合を進め、地下鉄整備を担う主体として1941年7月に営団地下鉄を新設。東京市は路面電車とバスの運営を担当することになった。いわば国が東京市から地下鉄建設の主導権を取り上げた格好になる。

◆戦後も解体されなかった営団地下鉄

 戦時中、戦争遂行のため電力や食料、住宅など様々な産業が国家によって統制された。敗戦を迎えると、これら統制団体はGHQ(連合国軍総司令部)の手によって順次解体されたが、議論となったのが営団地下鉄の扱いであった。

 再び自らの主導のもとで地下鉄建設を進めたいと考えた東京都は、営団地下鉄は都民の意思が反映されない非民主的な組織であるとして、営団地下鉄廃止キャンペーンを展開し、あわせて営団地下鉄の買収と新線建設計画からなる「都営高速度鉄道建設計画」を発表した。しかし、戦災復興事業を抱える上、地下鉄を建設する技術・経験のない東京都に地下鉄整備を任せることはできないとして政府が強く反対したため、営団廃止の動きは実現することなく収束した。

 GHQも当初、営団地下鉄を解散させる方向で検討を進めたが、政府と営団がGHQに対し、戦時統制を目的とした組織ではなく、東京の地下鉄整備・運営のために設立した組織であると説明を重ね、存続が認められた経緯がある。こうして戦後も営団地下鉄が地下鉄建設を担うことが決まり、1952年から戦後初の新線として丸ノ内線の建設が始まった。

◆建設が間に合わず東京都に浅草線敷設を許可

 ところがその頃、東京の人口は復興計画の予想をはるかに超えたペースで拡大していた。敗戦直後(1945年11月)の人口調査で約277万人まで減少していた東京都心(現23区)の人口は、10年後の1955年には700万人まで増加。営団地下鉄は地下鉄の整備を急ぐものの、人口の拡大に路線の整備が追い付かない状況になってしまったのである。都心の鉄道はパンク状態となり、私鉄各社は相次いで独自の地下鉄建設計画を発表。また東京都も再び「都営地下鉄」建設計画を構想し、首都東京の交通計画は大混乱に陥った。

 こうした状況を整理、解決するため、運輸省(当時)は1956年に「都市交通審議会」を設立し、各社の計画の調整に乗り出した。その結果、各私鉄による独自の地下鉄建設は、都市計画上・交通計画上の観点からみても問題が多いため計画を取下げさせ、代わりに今後建設する地下鉄新線は私鉄と直通運転を実施することとし、実質的に私鉄の都心乗入れを認めた。

 私鉄が乗り入れる地下鉄新線は営団が引き続き建設を進めるとしたが、営団だけでは必要な地下鉄建設が間に合わないことから、例外的な緊急措置として東京都にも一部の路線の建設を認めた。こうして現在の地下鉄と私鉄の相互直通及び、地下鉄事業者の二元体制が確立したのであった。

 営団地下鉄は保有する未成3路線の免許のうち、1号線の免許を東京都に譲渡。営団が2号線(後の日比谷線)と5号線(後の東西線)、東京都が1号線(後の浅草線)を分担して建設することが決定した。1号線は押上で京成電鉄、泉岳寺で京急電鉄と相互直通運転を行うこととなり、従来の銀座線、丸ノ内線とは異なり、通常の電車と同じパンタグラフ方式を採用した。

 1960年12月、日本で初めて私鉄と相互直通運転を行う地下鉄路線として、浅草線が開業。そして同時に、都営地下鉄という新たな地下鉄事業者が誕生したのである。これが東京の地下鉄二元体制の始まりであった。

<文/枝久保達也>

【枝久保達也】

鉄道ライター・都市交通史研究家。1982年、埼玉県生まれ。大手鉄道会社で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当した後、2017年に退職。鉄道記事の執筆と都市交通史の研究を中心に活動中。

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