新型コロナウイルスによる「緊急事態」の宣言。起こりうる「人権の停止」に抗うために。

新型コロナウイルスによる「緊急事態」の宣言。起こりうる「人権の停止」に抗うために。

※写真はイメージです photo by 吉野秀宏 / PIXTA(ピクスタ)

◆はじめに――突然の学校休業

 2月27日、安倍晋三首相は、新型コロナウイルス感染症対策のためとして、全国の小中高校に対して、3月2日からの臨時休校を要請した。この決断は唐突に行われたもので、与党議員ですら、その多くが事前に知らされてはいなかったという。

 学校や教育委員会も寝耳に水であった。まして現場の教員たちは、その日の夜、ネットやテレビのニュースで初めて知るといった有様であった。ただでさえ学期末で成績評価や行事などが立て込んでいるこの時期のことである。テストはどうなるのか。卒業式はどうなるのか。学校は短期間に判断を迫られることになり、各地で混乱が起こった。

 問題は山積みである。たとえば非常勤の教員の給与保障はどうなるのか。非常勤の教員はコマあたりで給与が支給されるため、学校が休業するとなると生計が成り立たなくなってしまう。すでに発注してしまった分の給食の食材はどうなるのか。大量の牛乳は廃棄するしかないのか。給食がなくなった場合、それらを貴重な栄養源にしているような子どもの食事はどうなるのか。

 共働き世帯やシングルペアレント世帯で、子供に留守番をさせることができない親たちは、学校の代わりに子供を預けることができる場所を急遽探さねばならなくなった。生活に余裕があれば最悪仕事を休むことで対応可能だろうが、ギリギリの生活で仕事を休むことができない一人親家庭は、それも困難である。

 29日、安倍首相は改めて記者会見を開いたが、この臨時休校に至った経緯についての具体的な説明はなく、また、臨時休校によって困難な立場に立たされてしまう人々について、具体的な支援策を述べることはなかった。

◆休校要請の法的根拠?

 そもそも、今回の首相の要請には、いかなる法的根拠があるのか。学校保健安全法第20条は、学校の感染症予防上の臨時休業を可能にしている。ただし、それができるのは学校の設置者である。たとえば公立の小中学校において、その設置者は地方公共団体の教育委員会にあたる。つまり、首相には臨時休業を決定する権限はない。

2012年、民主党政権の時代に制定された新型インフルエンザ等対策特別措置法を援用すれば、内閣総理大臣は「新型インフルエンザ等緊急事態宣言」を行うことができる。しかし、それでも直接的に臨時休校を命じることができるのは都道府県知事などであって、首相ではない。そもそも政府は現時点で特措法の適用を行っておらず、新法の制定を急ぐとしている。

 従って、2月27日時点での首相の臨時休校要請は「法の外」においてなされたものと考えるほかはなく、少なくとも政府のほうでもそれを認識しているからこそ、表現が「要請」にとどまっているともいえる。

 にもかかわらず、首相の「超法規的」要請は、事実上の法として機能した。この要請を受けて、3月2日もしくは初週からの臨時休業に踏み切る自治体がほとんどであったのだ。教育行政は理念としては地方分権を原則とするとはいえ、自治体の教育委員会が国家の要請を跳ね付けるのは困難である。まして、旧教育基本法を改正して、中央政府が各地の教育により干渉しやすくしたのが、他ならぬ第一次安倍政権である。そのような背景のもとで、首相が公に発表した「要請」は単なる要請でしかないのだから、休校を決定する権限はいまだ各自治体に留保されていると考えるのは、あくまでも建前でしかない。

◆自己拘束なき行政権力

 確認しておかなければならないのは、現代の肥大した行政権力が、現行の法秩序の頭越しに権力を行使することは、やろうと思えば難しくはないということだ。もちろん近代民主主義国家は、三権の分立を憲法上の基本原理としている。立法府が法を制定し、行政府がそれを執行する。立法府が憲法に従って法律を制定しているか、行政府がそれを正しく執行しているか。それを審査するのは、独立した第三の機関である裁判所である。

 ところが20世紀に入り、国家が担うべき役割が増加するにつれて、近代民主主義国家は執行権に権力の重心が集まる行政国家となった。特に議院内閣制においては、行政府と立法府の多数派が(通常は)一致する仕組みになっている。立法府と行政府の緊張関係は希薄化する。それどころか、立法府は行政府の必要に応じて法律を制定する上意下達機関と化してしまう。立法府の最後の砦となるのは、政権の腐敗や法案の問題点について、政府与党を厳しく批判する野党なのであるが、その役割の重要性は残念ながら日本社会において十分認知されているとはいえない。

 最高裁判所は「憲法の番人」と呼ばれる。しかし日本の場合は、最高裁判所長官の任命権というかたちで、行政府は司法権に介入することができる。国民審査による最高裁判所長官の罷免権は、ほとんど換骨堕胎されている。最高裁判所の違憲立法審査権は、いわゆる統治行為論によって事実上の制限がある。そもそも違憲審査制を充実させることによって、有権者によって選ばれてはいない裁判官が事実上の立法機関となる(「司法国家」)ことについても議論がある。そこで、最高裁判所の代わりに内閣に対する「法の番人」となってきた内閣法制局であったが、第二次安倍政権は人事慣例を破り、法制局出身者以外の長官を据えることで、その番人を骨抜きにしてしまった。さらにまた、人事院を屈服させ、政権に近い検事長の定年を延長することによって、検察庁をも完全に支配下に置こうとしている。

 国家機関の外部から権力を監視する役割を担うのが、マスコミである。しかしこれも安倍政権は、NHK会長や経営委員への「お友達」の起用や、新聞やテレビ局トップとの会食によって、懐柔に成功してしまっている。現在の日本の行政府は、対抗権力によるコントロールを全く望めない状況にある。

 こうした安倍政権による一連の動きは、日本における現行法秩序に対する挑戦である。19世紀ドイツの国法学者G・イェリネックは、『一般国家学』にて、国家は制定された法に自己を義務付けるという国家の自己拘束説をとなえた。のちにこの学説は君主権を正当化するための欺瞞的な説だと自由主義勢力の批判を浴びるが、憲法学者の石川健治のように、むしろそれをカントの義務論的に解釈することによって(国家は自らを法に義務付けなければならぬ)、現状の日本においてそれを再評価しようとする動きもある。(※1)この観点からいえば、安倍政権は自己拘束なき行政権力である。

◆「緊急事態」の正統性

 規範主義的にいえば、日本の行政府が持つあらゆる権力は、すべて日本国憲法に由来する。裏返せば、憲法や制定法を無視した権力の行使は、いかなる正当性も持たないということである。しかし現実的には、コントロールが効かない政権の自由気ままな振舞いは追認されている。これを法規によって抑制することは難しい。「他のあらゆる秩序と同様、法秩序が基づいているのは決断であって、規範ではない」(※2) 。これは20世紀ドイツの公法学者であるカール・シュミットの言葉である。シュミットは『政治神学』において、法学的思考からなるべく人間の意志を取り除こうとする規範主義的な法学を批判し、現実の世界に対して秩序を与えるのは規範ではなく決断であるとした。

 シュミットによれば、規範主義の無力さは「例外状態」という状態について考察することによって明らかとなる。「主権者とは例外状態において決断を下す者のことである」(※3) 。これは、『政治神学』の冒頭にある有名な一文である。日本国憲法では、国民が主権者であると定められている。しかしシュミットがここで述べているのはそうした政体論上の主権者ではなく、「例外状態」において権力を振るうものは誰なのか、ということである。規範主義の考え方では、この「例外状態」という状態を上手く扱うことができない。緊急事態について、憲法や法律で定めることができたとしても、今まさに現実に起こっている事態が緊急事態なのかどうかは、規範によっては判断できないからである。

 というのは、「緊急事態」とは価値命題だからである。法規範は、「緊急事態」の際に国家が取りうる行動を定めることができても、いつどこで何が起こった場合が「緊急事態」にあたるのかを、すべて列挙することはできない。仮に新型インフルエンザやコロナウイルス等の感染症に限定した特別立法であっても、政府はやろうと思えば、それ以外の事態についても「緊急事態」だと拡大解釈することができる。荒唐無稽な話ではない。安倍政権によれば、たとえ3人の専従職員を引き連れていたとしても、首相夫人は「私人」なのだし、「桜を見る会」招待者名簿のバックアップデータは「行政文書ではない」のである。

 「緊急事態」は規範それ自体からは導くことはできない。「今はまさに緊急事態だ」と主権者が言った場合、主権者は事実を記述しているのではなく、「我々は今のこの現実を緊急事態だとみなす」という決断をパフォーマティブに行っているのである。

 この決断は、「緊急事態」を宣言することによって、そのために定められた法規範の適用を求めるものであるのと同時に、その決断自体が法規範と同等の効力をもつことを求めるものである。インドの叙事詩的映画『バーフバリ』(S・S・ラージャマウリ監督)で、マヒシュマティの最高権力者である国母シヴァガミは、自分自身が何か命令する際、最後に「私の言葉を法と心得よ!」と付け加える。主権をもつ指導者の言葉は単なる言葉ではなく、それ自体が法となるのだ。ホッブズは、「真理が法をつくるのではなく、権威が法をつくる」と述べた。主権者が現状を「緊急事態」と定めたのである。ならば、人民も、現状を「緊急事態」であるものとして行動せよ!

◆「例外状態」における人間疎外

 「例外状態」とは本来、法規範とその適用の間にある、換言すれば当為と事実の間にある、どちらともつかないアノミーの地帯のことを指していたはずだ。しかし『政治神学』におけるシュミットのように、決断主義を採用することで「例外状態」を法規範のうちに取り込んでしまったとたん、「例外状態」はとたんに物象化し、人民の思考を支配する。月曜日からの休業を木曜日の夜に決めるなんてどうかしてる?確かに普通ならば。だが今は緊急事態なのだから仕方がないだろう。学校を休校すると子どもを預ける先がない?なるほどそれは大変だ。しかし今は緊急事態なのだから何とか耐え忍んでくれ。イベントを休業すると収入がなくなる?かわいそうに。しかし今は緊急事態なのだ。何とか協力してくれ。野党はいちいち政府の批判をするな。今は国難だ。戦時下と同じだ。一致団結せよ……。

 「緊急事態」の宣言は、それまでの法や制度を一気に破砕するだけでなく、国家が人民に対して負うべき責任や義務をも破砕する。そしてそれは、それを法として理解してしまった人民にとっても、仕方がないものとして受け止められてしまうのである。

 シュミットの「例外状態」をミシェル・フーコーの「生権力」論によって読み解くジョルジョ・アガンベンの試み(※4)のように、これを人間の権利の側面からみてみると、「例外状態」において主権者は、法や権利を停止させ、人間の生を宙吊りにしたうえで、人間と人間の間に線引きを行っているといえる。

 もしテロリストの攻撃を止められるなら、(アブグレイブ刑務所のように)捕虜に拷問することも許される。「子どもの安全」という抽象的な大義のためなら、学校を休業して困る人がでたとしても仕方がない。「中国人お断り」は差別ではなく、公衆衛生のための当然の処置である……。「例外状態」において、普遍的な人権は停止され、新たな境界線が引かれる。もちろんそこで人間的なものの恩恵を受けられないのは、常に弱い者の側である(非正規、貧困、シングルマザー……)。

 そして「緊急事態」の宣言が、主権者の決断に根拠を置くのであれば、理論上、こうした人権の停止はいつでも起こりうることになる。「例外状態」と「通常状態」の境界は消滅し、私たちはいつでも、宙づりにされた生(アガンベン的に言えば「剥き出しの生」)を生きることになるだろう。

 しかし、一時期盛んに主張された「決められない政治」から「決められる政治」へというスローガンが示すように、我々の社会では決断こそが指導者のなすべきこととみなされている。「例外状態」において、むしろ弱者を排除するような「苦渋の決断」をすればするほど、かれは「優れたリーダー」とみなされることになるのである。これは安倍晋三についてだけ述べているのではない。大阪府知事や北海道知事に対しても当てはまる。

◆おわりに

 3月9日、安倍首相は、今回の状況を「歴史的緊急事態」とした。13日には、緊急事態条項を盛り込んだインフルエンザ法を援用した、コロナ新法が制定される予定である。同法では私権制限についての政府の行動は極めて限定されている。しかし上述の通り、「緊急事態」において、政府のなしうる行動は事実上歯止めはないのである。

 私たちは、コロナウイルスによる危機に立たされている。もちろん感染症のパンデミックは恐ろしい。しかし――ある意味ではそれ以上に――恐ろしいのは、コロナウイルスが人権に代わる新たな価値尺度として、「緊急事態」における法秩序の王冠(corona)となることである。それは、日本国憲法が事実上改憲されたのと同じ効果をもたらす。

 だから、「緊急事態」を煽り、人間の生を「剥き出しの生」へと切り詰めようとする言説に対しては、抵抗していかなければならない。全国的な学校の休業は、もし必要であったとしても、超法規的な方法によってのみ可能となるわけではない。たとえば休校のデメリットを予測し、必要な支援策を「事前に」定めておくことで、各自治体の教育委員会に自然と休校の決断を促すことは可能だったはずである。「今は緊急事態なのだから黙っていろ」という圧力に抗して、こうした批判を続けていく必要がある。

 目に見えないウイルスによって、我々の生命は脅かされている。しかし、いかに生命の危機だからといって、我々の生命そのものを国家に売り渡す必要はないのである。

【参考文献】

※1 石川健治「すべての人が負けたのだ―安保法制「一億総活躍」思想の深層を探るー佐々木惣一が憲法13条を読む」WEB論座 2016年2月23日付

※2 Carl Schmitt, Politische Theologie, Duncker & Humblot, 2009(2. Aufl., 1934), S.16

※3 Ebenda, S.13

※4 ジョルジョ・アガンベン(上村忠男・廣石正和訳)『アウシュヴィッツの残りもの――アルシーヴと証人』月曜社、二〇〇一年。

<文/北守(藤崎剛人)>

【北守(藤崎剛人)】

ほくしゅ(ふじさきまさと) 非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu1982

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