岩波新書『独ソ戦』が異例のヒット! その背景にビジネスマンの「戦略的思考」ニーズ

岩波新書『独ソ戦』が異例のヒット! その背景にビジネスマンの「戦略的思考」ニーズ

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◆岩波新書『独ソ戦』が異例の売り上げ

 いま、『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書・大木毅著)が売れ続けている。

 第二次世界大戦中、1941年6月のドイツ軍の侵攻から45年5月のドイツの無条件降伏までの間に繰り広げられた独ソ戦。ソ連側は約1億9000万の人口のうち2700万、ドイツ側も6930万人のうち、他の戦線も含め最大831万の人命を失うことになった4年にわたる戦争だ。本書でも詳述しているが、通常戦争から絶滅戦争へと変化し、さらに収奪戦争として戦われ、ホロコーストのきっかけともなった凄惨としか言いようのない戦争である。

 この戦争についてドイツ、ソ連それぞれのこれまでの公式的な語りを乗り越え、豊富な資料や知見をもとに詳述したこの新書、売り上げは昨年7月の発売以降12万部を突破する勢いだ。初刷部数が1万2千部であることを考えると、異例のヒットと言えるだろう。しかも今年の新書大賞も受賞している。

 しかし、なぜ独ソ戦の本が売れるのか? この戦争を「『人類の体験』として理解」するために執筆したというこの一冊がなぜ注目されているのか? ベストセラーとなった理由と特徴を、編集にあたった岩波新書編集部の前編集長永沼浩一さんにお教えいただいた。

◆軍事や戦争に関する本のヒットが相次ぐ

 そもそも永沼さんは、なぜこのテーマを選んだのか。

 「独ソ戦は、人間のあらゆる悲惨が濃縮された史上未曾有の戦争であり、国の別を超え、『人類の体験』として知っておくべきである。そう考える私が独ソ戦をテーマに選んだのは、それが念願の企画だったこともありますが、近年は軍事や戦争に関する本が手堅く売れるという感触を得ていたからです」

 自身の念願であっただけでなく、近年軍事ものが手堅く売れるという感触があったという。岩波新書には、ゼークト『一軍人の思想』、沼田多稼蔵『日露陸戦新史』、高木惣吉『太平洋海戦史』、林三郎『太平洋戦争陸戦概史』といった軍事もののラインナップがある。ここ数年でいずれも復刊が好評で、特にゼークトの『一軍人の思想』は2018年に、1943年以来75年ぶりの重版である。また、岩波書店以外の出版社から発売された軍事ものも、ベストセラーになっているものが多い。

「他社の新書に目を転じれば、一昨年ベストセラーになった吉田裕『日本軍兵士』(中公新書)がその好例です。また、『独ソ戦』の少し前に発売された、大木毅さんご自身の著書『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書)もヒットし、広く読まれました。吉田さんと大木さんの新書は、たんにヒットしただけでなく、歴史学の実証研究にもとづく軍事史・戦争史の著作として、非常に優れたものであったことが特筆されます。ここに、『独ソ戦』のベストセラー化を読み解く糸口があるように思われます」

◆戦略的な思考を学びたいビジネスパーソンにウケた

 では、なぜ軍事ものが人気なのか。従来、軍事についての書物は、戦記やノンフィクションといった読み物が主であった。ところが近年では、実践に基づく知識や実証研究をもとにした書籍が世に出るようになった状況があると指摘する。また、本書の刊行が、たとえば戦略的な思考を学びたいといったビジネスパースンの必要にも応えられるのではという考えもあったという。

「アメリカの企業では、退役した軍の高官が招かれて、副社長などの重要ポストに就くケースがあると聞きます。こうした人物の指導のもと、軍事的な概念や思考法を援用しながら、自社のビジネス戦略を練り、さらにはマネージャーとなるべき人材を育成するといいます。その善し悪しは別にして、戦略的な思考を必要とするビジネスの現場は、根本のところで軍事と密接に結び付いているのが現実です。

 ところが日本では、アジア・太平洋戦争での侵略と敗戦への反省から、軍事は長らく社会から遠ざけられてきた歴史があります。そのため、軍事に関わる知識やそこから派生する戦略的な思考は、生身の人間(軍人)から伝授されるものではなく、もっぱら書物などを通じて学ぶものとなっています。また、その書物にしても、軍事や戦争に関する著作は、作家やライターが取材して書く戦記やノンフィクションといった読み物が中心であり、実践活動にもとづく知識、あるいは実証研究にもとづく知識をもとに書かれた著作はきわめて稀でした。たとえば、大学を中心とするアカデミアにおいては、狭義の軍事史・戦争史を専門とする研究者はきわめて少ない(皆無に近い)傾向にあります。そのため、学問のトレーニングを積んだ研究者の書いた軍事史・戦争史の本は、日本ではほとんど出版されてきませんでした。

 吉田裕さんの『日本軍兵士』と大木毅さんの『独ソ戦』は、その空白を埋める最初の著作です。戦略的な思考を学びたいと考えるビジネスパースンは、単なる読み物でなく、学術的な裏付けのある、信頼するに足る著作を必要としていると思われます。そこで『独ソ戦』では、いわゆる「電撃戦」と呼ばれる戦術とドイツ軍のドクトリンとの関係や、日本では知られていないソ連軍の作戦術について、軍事学の観点から詳述していただきました。ビジネスパースンの学びにも役立つと考えたためです」

 実際、売り上げデータに目を転じてみると、読者は主に30〜40代男性が多いという。やはり働き盛りのビジネスマンによく読まれているようだ。

◆ミリタリーファン以外にも読者が広がった

 また、話題を呼ぶことになったのは影響力のある人物によるSNSでの推薦も大きかったという。これで当初の狙い通り、ミリタリーや歴史ものの読者だけでなくビジネスパースンにまで読者が広がったといったこともあり、5万部を超えるベストセラーに。

「大木さんの話によれば、『ハードな軍事ものの本が出れば必ず買う』という読者は約2000人だそうです。しかし、2000人だけでは新書は重版になりません。中公新書をはじめ、各社の新書では歴史ものが堅実ですが、初動の時期にはそうした読者に加え、歴史好きの読者が買い求めてくださったと考えられます。

 そのうえでティッピング・ポイントになったのは、発売から約1週間後に、成毛眞さんがご自身のfacebookページで『今年のベスト新書』と紹介してくださったことだと思います。この投稿でアマゾンの総合ランキングは最高9位まで浮上しました。ここで、従来のコア層(ミリタリーファン+歴史好きの読者)とは異なる、いわば『第二層』の読者に広がったのではないかと推測しています。具体的には、成毛さんのフォロワーとなっているビジネスパースンたちです。岩波新書としては稀な、『独ソ戦』単独の全五段広告を新聞に掲載するなどして、こうした読者に支えられ、5万部あたりまで伸ばすことができたと考えています」

◆戦争が近づいていることを感じている人が多い?

 そして、ベストセラー化の決め手はやはりというか、著者である大木氏の筆致や該博な知識がもたらす本としての面白さであった。

「5万部を超えると、そこから先は評判が評判を呼ぶベストセラー効果が生まれてきます。とくに大木さんの筆致が素晴らしく、読者を飽きさせず、ページをぐいぐい繰らせる叙述と論述が見事でした。『通史や概説の執筆にあたって必要不可欠なのは、何を書くかではなく、何を書かないかを判断するための物差し、言い換えれば、当該のテーマをいかに分析するかの枠組みである』とご自身が述べるように、『新書』というコンパクトな概説書の特長と利点を十分に理解し、『これぞ新書』と呼べる本に仕上げてくださったのも要因と考えられます。端的にいえば、面白いのです」

 一方で永沼さんは過去の戦争への反省がもたらした軍事への「忌避感」が、昨今の世界情勢から薄れ、戦争への危惧が皮膚感覚に近いものになっていることもヒットの要因ではないか、とも指摘する。

「近年、軍事や戦争に関する本が手堅く売れるのは、人びとの皮膚感覚として、戦争が以前にもまして近くに感じられるからではないか、と私には思われます。中国の軍事大国化、ロシアの帝国主義的回帰、伊藤計劃の『虐殺器官』さながらの暗殺国家と化したアメリカ。大国のこうした不穏な動きが、かつて日本が歴史の彼方に置いて封印した軍事というものに、人びとの目を向けさせつつあるように見えます。『独ソ戦』のベストセラー化を読み解くうえで、いまひとつ必要な視点ではないかと思われます」

<取材・文/福田慶太>

【福田慶太】

フリーの編集・ライター。編集した書籍に『夢みる名古屋』(現代書館)、『乙女たちが愛した抒情画家 蕗谷虹児』(新評論)、『α崩壊 現代アートはいかに原爆の記憶を表現しうるか』(現代書館)、『原子力都市』(以文社)などがある。

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