ロボットにアイドルの名前を付ける男たち。「キモい」の歴史的形成過程を追う<史的ルッキズム研究1>

ロボットにアイドルの名前を付ける男たち。「キモい」の歴史的形成過程を追う<史的ルッキズム研究1>

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◆#KuToo・石川優実さんを罵る男たちはいかに「罵倒」されるか

 女性労働者に対するパンプス着用強制を問題化した、「#KuToo」の石川さんが、男性たちの攻撃にさらされています。主にツイッターを舞台にして、石川さんへの罵倒がある。

 石川さんが浴びせられる罵倒語のなかで、代表的なものは、「ブス」です。反石川の男性たちはこの言葉をしつこく繰り返しています。

 

 しかし、この男性たちも無傷ですむわけではありません。彼らは別の罵倒語にさらされていて、その代表的なものは「キモい」です。気持ち悪いやつ、という意味です。

 

 「ブス」と「キモい」、どちらがより意味深く拡がりをもつ表現かというと、「キモい」だとおもいます。これは、パンチがある。そして、深い。史的ルッキズム研究第一回は、「キモい」という表現を考えることから始めます。

◆工場のロボットを「百恵ちゃん」と呼んでいた

 1970年代、石油ショックとドルショックという二つの大事件によって、日本は長い経済不況に陥ります。60年代の高度成長から一転して、産業界・労働界は大きな壁にぶつかります。このとき産業界が目指したのは、省エネ化、省力化、さらにコンピューターを導入した生産工程の自動化です。マイクロコンピューターの飛躍的な発展によって、オフィスオートメーションやファクトリーオートメーションが急速に進められていきます。工場では産業用ロボットが開発・導入され、人員を削減していきます。多くの労働者に頼ってきた「労働集約型」の産業が、ロボットによる無人化を目指し、熟練の労働者が解雇されていきます。そんな時期の、あるエピソード。

 ある工場に試験的に導入された2台の産業用ロボット。人間とロボットが入り混じり作業をしています。この工場ではロボットに愛称をつけて呼んでいます。1号機・2号機と呼ぶのではなく、「百恵ちゃん」「宏美ちゃん」と名付けました。これは当時人気のあった女性歌手、山口百恵と岩崎宏美からとった愛称です。職場へのロボット導入に多くの労働者が戸惑っていたころ、この工場ではロボットに女性の名前を付けることで「親しみやすいものにしたのだ」、と。現代風に言えば「擬人化」ですね。経営者も現場の工員も、「これは良いアイデアだった」と言うのです。

◆「キモい男たち」が生まれたのは70年代?

 このエピソードは、私が知る限りでもっとも古い、「キモい」話です。おそらくこのあたりの時期、70年代に、キモいの起源があるのではないかと、私は考えています。

 「おい、百恵ちゃん止まったでえ!」「百恵このまえメンテナンスしたばっかりやろ!」。こういう具合です。キモいです。

 機械を擬人化し、しかも女の名前で呼ぶ。大の男がよってたかって「百恵ちゃん」「宏美ちゃん」と呼ぶ。昔気質の職工であれば「ちっ! ガキが!」と吐き捨てたようなふるまいです。いま私の脳内で思い浮かべたのは、鶴田浩二の音声で「ガキが!」と聴こえたのですが、ともかく、日本の金属労働者と金属労働組合は、自分たちの仕事を奪うであろう産業ロボットを受け入れました。ロボットを女性人気歌手の名前で呼びながら、です。労働組合の協力によって、日本の産業界はロボット技術の徹底的な導入と人員削減を果たし、コストダウンに成功し、電機・自動車部門で貿易黒字を生み出していきます。そうして80年代の日本経済は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を誇ることになるのです。

 「キモい」という表現に私が興味をひかれるのは、その対象のキモさが、個体レベルで「気持ち悪い」のではなく、一群を形成し、ある層としてキモい文化を形成しているからです。考えが幼稚で性欲をむき出しにしている、それが個体レベルであれば、いつの時代にもそういう人はいるよとなるでしょうが、現在のキモい人々と言うのはけっしてそうではない。歴史的・社会的に生み出されてきた強い傾向として、キモい人々がある。これは特殊歴史的な存在であって、いつの時代にもあったものではない。私が考えたいのはここです。

◆とにもかくにも「トラック野郎」はキモくはない

 いま、キモいという様態を示すために「性欲をむき出しにしている」と書いたのですが、これも正確ではない。キモいということは必ずしも性欲とイコールではありません。性欲も含まれるが、性欲に限定されない、もっと得体のしれない気味の悪さです。

 たとえば、70年代の長距離ドライバー「トラック野郎」は、社内の仮眠スペースに女性のヌードポスターを貼っていました。座席の後ろのカーテンをめくると、必ずと言っていいほど特大ヌードポスターが貼ってある。こうした習慣がキモいかキモくないかというと、これは、キモくないのです。それは上品な習慣ではないけれども、あるていど理解できるものであって、気味の悪いものではありません。昼夜をまたいで運転を続けるトラック野郎が、大げさに言えば単独で生死の境を走り続ける男が、車内にヌードポスターを貼るというのは、わかる。これは一種の護符であって、意味としては観音様の絵を飾るようなものです。ここまで言うと良く言い過ぎか。少なくとも、キモいというのとは違う。女性のヌードポスターが大量に流通し消費されることの是非を議論するとしても、それはキモいということとは別の範疇のものです。トラック野郎が飾るヌードポスターは、キモくない。

 それにたいして、産業用ロボットを「百恵ちゃん」と呼ぶ工場労働者は、キモいです。彼らはただ女性の愛称を付けているだけで、性的な図像を貼り付けたりはしていないのですが、それでも充分にキモいのです。

※近日公開予定の<史的ルッキズム研究2>に続きます。

<文/矢部史郎>

【矢部史郎】

愛知県春日井市在住。その思考は、フェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズ、アントニオ・ネグリ、パオロ・ヴィルノなど、フランス・イタリアの現代思想を基礎にしている。1990年代よりネオリベラリズム批判、管理社会批判を山の手緑らと行っている。ナショナリズムや男性中心主義への批判、大学問題なども論じている。ミニコミの編集・執筆などを経て,1990年代後半より、「現代思想」(青土社)、「文藝」(河出書房新社)などの思想誌・文芸誌などで執筆活動を行う。2006年には思想誌「VOL」(以文社)編集委員として同誌を立ち上げた。著書は無産大衆神髄(山の手緑との共著 河出書房新社、2001年)、愛と暴力の現代思想(山の手緑との共著 青土社、2006年)、原子力都市(以文社、2010年)、3・12の思想(以文社、2012年3月)など。

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