コロナ禍で考え直す学費と奨学金。栗原康が訴える「学生に賃金を」の真意とは

コロナ禍で考え直す学費と奨学金。栗原康が訴える「学生に賃金を」の真意とは

栗原康さん

◆コロナが学生を直撃

 コロナ禍は、大学生の生活にも脅威をもたらしているという報道も多く流れているが、この状況下、『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(夜光社)や『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店)などの著書がある政治学者・栗原康さんが『奨学金なんかこわくない! 学生に賃金を 完全版』(新評論)を刊行した。

 本書は同出版社より2015年に刊行された『学生に賃金を』の完全版だが、コロナ禍が学生の生活をも直撃する今、大学や高等教育におけるたとえば授業料や奨学金の問題や高等教育の無償化、そして大学とは何かということについて視点を持つことには意義、しかも喫緊の……!があるだろう。

 この本で展開される話は、高等教育の無償化ーたとえば著者が語る「学生に賃金を!」「学費も生活費も公費負担で!」「すべての失業者に学籍を!」というものに代表される、いわゆるアナーキーというか、もしかしたら突飛に感じたり、いや、ギョッとされてしまうかもしれないものだ。

 しかし、アノ日本政府ですら大学生に10万円を給付するという話が出ている状況下、むしろ本書にあるのは、学生が学業を放棄することがないようにするためだったり、また大学という「場」が存在していくために必要なものの考え方や条件について極めて実際的なものだと言って良いのである。

 高等教育をめぐる論点は多いが、たとえば授業料の問題をピックアップしてみよう。格差問題が深刻化し、だいたいの人が貧しくなっていく中で大学の授業料は上がっていったことは指摘しておいてよいだろう。文部科学省によると2017年時点で国立大53万5800円、公立大53万8294円、私立大87万7735円だ。これをたとえばバブルが崩壊した1991年の国立大37万5600円、公立大36万6032円、私立大64万1608円と比べてもそれぞれ約1.4倍、約1.5倍、約1.4倍と上昇している。

 いっぽうで全世帯を5等分した所得5分位階級別の所得金額のなかでもっとも人口の多い層である第2階級の所得は2017年で271万6000円、91年で342万円と、約0.8倍に低下している。なお、私学助成法が公布された75年には授業料がそれぞれ3万6000円、2万7847円、18万2677円だったことも付け加えておきたい。

 さてさて、そんな栗原さんに、学費や大学をめぐる問題についてお話をいただくことができたので、その内容を公開させていただこう。

◆学費が還ってくるのは当たり前

 報道によれば「2割の大学生が退学を考えたこともある」という状況下、大学側もコロナ禍の中の対応として、たとえば早稲田大学が10万円、明治学院大学が5万円などの「補償」を決定したことをこのように語る。

栗原「学生を救うためにすぐにカネをだすのはいいとおもいますが、むずかしいのは、それができるのは一部の有名大学にかぎられてしまうということです。カネのない、地方の大学におなじことはできないでしょう。大学間格差が助長されてしまいます。また、それでことさらに早稲田はすごいとかいう必要もないとおもいます。これまで学生たちはありえないくらい学費をむしりとられてきました。それが還ってくるのはあたりまえなのです。学生たちは『こんなハシタガネで満足できるかよ、ケッ!』くらいの気持ちでカネをもらうとよいでしょう」

 数万円の「補償」のほか、今、大学側が学生に対して取るべき方策には、どういったものがあるのだろうか。

栗原「すべての授業料を免除して、生活費として給付型奨学金をくばることです。だれにカネをだすのか選別さえしなければ、すぐに実施できます。これ以上、かんたんな緊急措置はありません」

 生活費としての給付型奨学金、それが学生を救うことになると栗原さんは語る。現在、バイトのシフトが減らされる、いきなり解雇されるなどで大学生の経済状況が大変なことになっているということについては、「意外」な角度から問題について語る。

栗原「学生がバイトしなくてもいいというのは、のぞましいことだとおもいます。だって、やりたくないでしょう。バイトしなければ大学にいけないというほうがおかしかったのです。コロナが終わっても、バイトしないをあたりまえにしましょう。

 さいきん、デヴィット・グレーバーという人類学者が、コロナはわたしたちがほんとうにのぞんでいることはなんなのか、それをはっきりさせるチャンスをくれたといっています。いまこそいわなくてはなりません。学生に賃金を。バイトしない!」

 選別せずにカネを出すのが一番簡単という栗原さん、「バイトをしないと大学に行けない、生活費が稼げない」という現状自体を問うべきではないか、そしてそれはコロナ禍が逆説的に炙り出した、と指摘し、学生や親を悩ますだろう授業料の無償化を求める。

◆学費の減免ではなく無償化を

 また、栗原さんは奨学金の問題にも目を向ける。

栗原「いま大学はどこも自宅でオンライン授業。学生は大学の施設をつかうことすらできません。すくなくとも、『施設・設備費』は返せよといわなくてはいけないとおもいます。どの大学もそのくらいはすぐにできるはずです。そして、やっぱり大学無償化です。いま野党からは授業料減免などの案がでていますが、この際、減免などとケチくさいことをいわず、四の五のいわずにちゃんと無償化をやってもらいたいです。

 それから、これは学生というよりも、自分の問題なのですが、わたしは奨学金を635万円ほど借りていていまだ返せていません。数ヶ月、滞納しています。とくにこの2ヶ月ほどは無収入。そんな状況であるにもかかわらず、日本学生支援機構からはなんども奨学金返還の催促がきています。実家にも電話がきて、70歳をこえた母親が大声でまくしたてられ、あまりのこわさに泣かされてしまいました。だれもが生活苦であることをしっていながら、そんなことをするのはほんとうにタチがわるい。非人間的な所業です。きっとおおくのひとがいまおなじ目にあっていることでしょう。すぐにやめてもらいたい」

 栗原さん自身が経験している奨学金をめぐる諸々の問題点や、また、たとえば今年4月に実施された通称「大学無償化法」の問題点などについては本の中でも触れられている。これは大学や専門学校など高等教育機関で、希望者のうち条件に当てはまるもののみに入学金や授業料を補助するものだが、たとえば高校卒業後2年以内に進学する必要がある、世帯年収が200〜250万円以下、国立大学独自の減免制度がなくなり、かえって支援の減額や打ち切りにあう可能性があるなど、問題点も多く指摘されているのも事実だ。

◆就職に役立つことばかりになった大学

 なお、先述のごとく70年代から青天井のごとく上がり続けていった授業料だが、その指針となった71年の通称「四六答申」が問題の端緒にあることも記憶しておいて良いだろう。本の中でも触れられている。団塊世代の進学により大学が規模を急拡大していった状況下で、「国公立大の学費を私大並みに」「教育費は個人経済的に有利な投資とみなしうるので受益者負担」とした内容の答申だが、「教育の質の変化」を示唆し、教育に市場の競争原理を持ち込むことを推し進めたものでもある。競争原理の導入と学生の金銭的負担の増加には深い相関関係があるのだ。授業料の高騰、奨学金をめぐる問題…。栗原さんはその大きな原因である、現在の大学を取り巻く状況についても批判の目を向ける。

栗原「2000年前後から、大学は学生の就職の役にたつことばかりをやるようになってきました。マイナー言語をとりつぶし、TOEICなどの実用英語を必須にする。コンピュータでも法律でも、資格試験をとるための講座がガンガンならぶ。そして大学の評価は就職率できまるので、もう教員たちをフル動員。ちゃんと卒業できるようにと、出席日数から成績までをカッチリと管理して、学生たちと面談に面談をかさねていく。どんな仕事がしたいのか、ちょくちょくはなしをきいて、たとえやりたいことなんてなかったとしても、自分でキャリアデザインができるように導いていかなくてはいけない。ブルシットジョブです。

 きっと、大学当局はそれで学生の自由を保障しているとでもおもっているのでしょう。ほら、学生たちはいろんな科目のなかから、自分の仕事に役だつものを選べるようになりました、自分で自分の将来をつかめるようになりましたと。でも、それを自由ということはできないでしょう。はじめから、就職のための学習しかできなくなっているのですから。

 わたしは早稲田大学に1997年入学でかよっていたのですが、正直、大学の授業でまなんだことなんてひとつもありません。だいじなことはすべてサークルでまなびました。出席の管理もゆるかったので、あまり授業にはでません。大学のキャンパスも空いているスペースはいくらでもつかえたので、そこにたむろして酒を飲んだり、勉強会をしたり、映画の上映会をやったり、ケンカをしたり。ひとによってはビラやミニコミをつくったり、立て看をつくったり。たいていはなんの役にもたちません。就職のためにはなりません。

 ほんらい、大学のおもしろさは未知との遭遇にあります。こいつだれだよというような友だちからあたらしい本のはなしをきいたり、変な映画をおしえてもらったりする。しらずしらずのうちに、その友だちに触発されて、おもってもみなかったようなものがおもしろいとおもえてくる、夢中になっている。おのずとです、自発なのです。わたしはそういう自発を経験することが大学の本分だし、学生の自由というものなのだとおもいます。

 しかし2000年以降の大学は、学生からそうした自由をうばいとることに躍起になってきました。重要なのは就職率をあげて、大学の価値をあげることです。キャンパスのジェントリフィケーションといってもいいでしょうか。ビラも立て看も大学のフリースペースをつかうことも、学生を就活からとおざけるものはすべてこわい、きたない、ウイルスだといわれて、あからさまに排除されてきました。除染です。

 いまはそのなれのはてというところでしょうか。それでも学生のなかに、大学にいってよかったとおもう瞬間があるとすれば、きっとそれは当局の管理をすりぬけて、ふと自発をかんじたそのときなのではないかとおもいます。ちなみに、まだそんなのかんじたことがないよという学生さんには、ぜひ京大吉田寮をたずねてみることをおすすめします。一発だよ」

 大学で大事なのは就職やキャリアデザインのための教育ではなく、たとえばサークルでの活動や「未知との遭遇」であるという指摘には、思い当たることが多い学生や元学生も多いのではないだろうか。

◆「借りたら返す」を疑う

 そして、借りたものは返せ、というあまりにも当然のこととされすぎてきたことが、たとえば人を死なせたり、事態を深刻化させると続ける。

栗原「そもそも、日本がなんでもかんでも経済、経済でやってきて、大学を無償化してこなかったからこんなことになっているのです。『借りたものは返せ』は交換のロジックの土台だから? 経済のルールをまもるためには、人間が死んでもかまわない? 奨学金問題だけではありません。いま借金苦で死にあえいでいるひとはほんとうにおおいのではないかとおもいます。

 このコロナを機に、経済よりも『無償』の生のほうが、だんぜんだいじだということを確認しましょう。そのための第一歩です。あらゆる債務を帳消しにしよう。猶予じゃないよ、免除だよ。贈与につぐ贈与、そしてさらなる贈与です。いまこそ人間が見返りなしにたすけあえるということを示しましょう。たがいに条件なんてつけなくても、いくらでもともに生きていけるということを示しましょう。ストライクデット! 借りたものは返せない」

 繰り返される高等教育の無償化について、ではそもそも論になるが、なぜ必要なのかという問いには、「欲しくないか」という要求、欲望の肯定がまずもってあるだろうと語る栗原さん。

栗原「なぜというよりも、ほしくないですかということです。すくなくとも4年間、タダで好きなことを好きなだけまなぶことができる、無条件で生活費が保証される、その機会があらゆる人びとにあたえられる。そんな大学がほしくないですかと。

 もちろん、これは高等教育までふくめて、教育の機会均等をはかろうということでもあります。貧富の格差にかかわらず、だれでも大学にいけるようにしなくてはならない。そうでなければ不平等だし、その進学格差によってさらなる不平等がうまれてしまうと。

 しかし、さらにだいじなのはこの「無償」というのはタダということばかりでなく、見返りをもとめられない、条件がないということです。とくに日本では、国がカネをだすとしたらそれは経済の役にたつからでしょう。でもそれだと、いま必要とみなされている仕事のことばかりをまなぶことになってしまいます。

 『無償』というのは、ほんとうに無用でもいいのです。こんな言語をまなんでも役にたたない、この小説を読みこなしても役にたたない、数学を専門的にやりすぎて役にたたない、それでもと。もちろん、なかには実用的なことをやる学生もいるでしょう。それでもいいのです。まわりのことなどどうでもいい。ただおもしろそうだとおもってやってみて、気づいたらのめりこんでいる。各人各様にいくらムチャクチャやってもいい。

 きっと、そういう知性のなかから、いまは軽視されているけれども、数十年後に必要だとおもわれるようななにかが生れてくるのでしょう。しかしくりかえしになりますが、「無償」というのは、そんな将来すら気にする必要はないということです。考えたとたんに、そのひとの思考がいま有用なものに縛られてしまいます。大学無償化とは、条件なき大学をつくることです。無数の知性を爆発させることです」

◆「学生に賃金を!すべての失業者に学籍を!」

 「条件なき大学」という夢。コロナの時代だからこそ、「無償」とその先にあるものを考えることが必要というわけだ。

栗原「いま、こうした大学をつくることは、とりわけ重要なことだとおもいます。これまで日本では経済が命だと考えられてきました。交換の論理でうごくのがあたりまえ。これだけカネをだすのだから、これだけのことをしてもらう。はたらけ、役にたて、きっちり借りを返せと。はたらかざるもの食うべからず。はたらけなくなると負のレッテルがはられ、生活保護すらとるのをためらわせる。そんな圧力がかかります。

 大学もおなじです。高い学費をとってきたのは、これだけカネをかけたのだから、いい就職先をみつけなければいけないとおもわせるためです。奨学金という名の借金をせおわせ、返せなければひとでなしだと圧力をかけて、どんなブラックな仕事でも黙々とやらせる。今年から「大学無償化」をやるといいつつ、実際にはほんのひとにぎりの低所得者に限定したのは、その学生に負のレッテルをはりつけて、おまえら貧乏人はみんなに迷惑をかけたのだから、はたらいて借りを返せとおもわせるためです。

 わたしたちがいま目にしているのは、そうした発想自体がこのコロナ禍で破綻をきたしているということです。これだけみんなが生活に困窮しているのに、たった10万円の現金給付をするだけで、政府はあわてふためきためらっていました。なぜこんなにケチなのか。きっとはたらいてもいないのにカネをだすとシメシがつかない、経済が破綻してしまうとでもおもったのでしょう。おそらく大学ひとつでも経済と切り離して考えることができていれば、こんなお粗末なことにはならなかったのだとおもいます。

 わたしが大学無償化についてはなすとき、いつも矢部史郎さんの『学生に賃金を』という文章を念頭においています。これは学生にはたらけといっているわけではありません。会社ではたらかなければカネがでない、それがあたりまえだという思考そのものをぶち壊せということです。経済なんて関係ない。学生はただ胸をはってカネをもらえばいい。条件なき大学とは、経済に飼いならされてきたわたしたちにとって、『無償』の生をいきる訓練の場だといえるでしょう。なんどでもいいたい。『学生に賃金を! 学費も生活費も公費負担で! すべての失業者に学籍を!』」

<取材・文/福田慶太>

【福田慶太】

フリーの編集・ライター。編集した書籍に『夢みる名古屋』(現代書館)、『乙女たちが愛した抒情画家 蕗谷虹児』(新評論)、『α崩壊 現代アートはいかに原爆の記憶を表現しうるか』(現代書館)、『原子力都市』(以文社)などがある。

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