静かに繰り広げられる、「アベノマスク」 Wikipediaの攻防

静かに繰り広げられる、「アベノマスク」 Wikipediaの攻防

アベノマスク

◆ Wikipediaのアベノマスクの項目で静かな戦い

 「アベノマスク」という言葉がある。2020年4月1日に発表された布マスク全戸配布について、「アベノミクス」になぞらえて、ネットやマスコミで使用され始めた言葉である。

 この言葉は、登場時から爆発的に使用され、4月2日の時点で既に多くのニュースで取り上げられている(参照:Google ニュース 検索)。本記事執筆時点での、Google のアベノマスクの検索結果は約800万件、Google ニュース 検索の結果は約400万件以上だ。Google トレンドを見ても、4月2日以降安定して検索されていることが分かる。当初は布マスクの方が多く検索されていたが、5月の中旬には検索数が拮抗して、5月の下旬には逆転している。アベノマスクという言葉は、広く多くの人の目に触れていると言える。

 このアベノマスクという言葉について、Wikipedia で最初に記事が作成されたのは4月14日だった。この時は、「新型コロナウイルス感染症対策本部#対策」への転送ページとして作成された。独立した記事として書き起こされたのは、4月16日になる。

 その後、4月19日から、削除依頼のページで、この項目を削除すべきではないかという議論が始まった。4月22日には、ノートでも記事名についてや、別記事への統合についての議論がおこなわれている。ノートについては、4月末の時点でほぼ議論が出尽くしている感があるが、5月になっても、ぽつぽつと投稿は続いている。

 削除依頼については、4月26日の時点で存続が決定した。アベノマスクのページは、現在も存在しており、元ファイル約67KB、表示文字数約2万4千という、かなりのボリュームになっている。

 Wikipedia での、アベノマスクについての論点はいくつかある。政府を揶揄していることに対する中立性からの視点、記事名として相応しいかという視点、独立した内容として扱えるかという視点。外から議論をながめると、この3つが大きいと感じた。

 私がこの論争を知ったのは4月22日のことだった。メモ代わりに削除依頼のページのURLをツイートしたところ、Wikipedia でサーチしているらしき人から、攻撃的なツイートが送られてきた。そのことで、このページの議論が、政治的論争の場にもなっていることを知った。それからちょくちょく見に行くようになり、駆け引きがおこなわれている様子を観察することになった。

◆白熱する議論を観戦する

 私は Wikipedia の編集者ではない。日に何度か読む一利用者だ。普通、Wikipedia の利用者は、各項目の記事しか読まない。しかし、たまに記事以外のところを読むこともある。

 1つは「履歴表示」というリンクの先である。過去の版を確かめることができる。政治的論争になっている記事や、編集合戦になっている記事の場合、過去の版を見ることで、変わっていった内容を確認したり、必要な情報にたどり着けたりすることがある。

 もう1つは「ノート」というリンクの先である。Wikipedia を編集している人たちの議論の様子を確認できる。ここに大量の書き込みがある記事は、論争の種になっていることが多い。特に、新語の場合は、登場時の肌感覚を知ることができる。

 その他、記事によっては「削除依頼」のページがある場合もある。削除については「削除の方針」というページがあり、方針が示されている。

 アベノマスクという言葉は、登場から2ヶ月ほどだが、2020年を代表する言葉のひとつになることは想像できる。新型コロナウイルス感染症のニュースにおける象徴的な出来事のひとつで、全戸配布という国民全員に関わる政策のために、多くの人にとって身近な話題として注目された。

 先ほども挙げたが、外部の人間として「政治的中立性」「記事名の適切性」「独立項目としての適切性」という3つの論点が大きかったと感じた。私は部外者なので、是非については置いておき、利用者の立場として見ていく。

 政治的中立性については、4月の上旬の時点では、確かに議論の余地があったように感じる。しかし、2ヶ月が経ち言葉として定着しており、一般用語に既に変わっている。現時点で議論が収束しているのは、こうした変化の結果だろう。

 Wikipedia には、中立性について繊細だと思われる記事が他にもあり、「上級国民」「パヨク」「ネット右翼」「マスゴミ」などは、類似の問題点があると思われる。特に上級国民については、ノートで長い議論がされており、論争の様子を見てとれる。

 また、日本語ではないが、ヨーロッパの国境線付近での戦争の記事などでは、各国の言語で異なる内容や記述量になっていることがある。こうした違いを見ると、中立性の難しさを感じるとともに、書き手の立場による情報の取捨選択の危険を感じる。

 記事名の適切性については、「記事名の付け方」というガイドラインがある。このページでは、冒頭に5つの基準が挙げられている。「1. 認知度が高い」「2. 見つけやすい」「3. 曖昧でない」「4. 簡潔」「5. 首尾一貫している」。

 なるほどとうなずくのは、2の「見つけやすい」という項目だ。ネットで公開される記事にたどり着くには、検索をおこなわないといけない。そのため、多くの人が探すであろう名称が記事名として適切ということになる。基本的には日本語での正式名称を使用しつつ、基準を考慮して正式名称ではない記事名となる場合もある。

 正式名称ではない「アベノマスク」の記事名としての妥当性については、2の「見つけやすい」という点が考慮されていることになる。それ以外の検索語で、適切にこのページにたどり着くのは、現時点では難しいと感じる。

 独立項目としての適切性については、当初記事の量が少なく、他の記事への統合が議論されていたようだが、ボリュームが増えることにより、その声は下火になっていった。統合先としては、以下が主に挙げられていた。

・布製マスク

・新型コロナウイルス感染症対策本部

・日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響

・新型インフルエンザ等対策特別措置法

・日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況#日本政府の対応

 布製マスクについては、当初からアベノマスクの方がボリュームが大きく、統合するといびつになると指摘されていた。言葉の登場から2ヶ月経ち、布製マスクの中に含めるのは無理だろうと感じる。その他の記事については、妥当と思われるが、一記事のボリュームが大きすぎることから、いずれにしても別項目として分割されることになるのではと思った。

◆言葉の意味がリアルタイムに膨らんでいく

 こうした、成立直後の言葉の議論を追っていくのは非常に興味深い。単語の誕生や、その意味の変遷、社会の中での扱われ方の変化を観察することは、言葉について理解するのに役立つ。

 言葉は時間とともに意味を変えていく。登場時の意味と、普及時の意味が変わることも多い。定着すると思われていた語がすたれたり、意外な言葉が生き残ったりすることもある。新語の登場頻度は、インターネット時代になり高くなっている。

 私は以前、ネットスラングについて調べて、それをネタにした短編小説をネットで書いていた。また、日に数度は辞書を引き、言葉を調べている。インターネットは、気軽に言葉の意味を検索できる。そのため、紙の国語辞典を利用してた頃より、圧倒的に多く言葉の意味を調べている。

 新しい言葉が出てくれば、その意味と周辺情報をまとめたページが存在していて欲しいと考えるのは、自然な流れだろう。Wikipedia は、その受け皿の一つになっている。Wikipedia は小さな空間だが、社会の縮図のようなところがある。そこでの議論は時に、新しい言葉が出てきた時の、人々の反応を観察できることがある。

<文/柳井政和>

【柳井政和】

やない まさかず。クロノス・クラウン合同会社の代表社員。ゲームやアプリの開発、プログラミング系技術書や記事、マンガの執筆をおこなう。2001年オンラインソフト大賞に入賞した『めもりーくりーなー』は、累計500万ダウンロード以上。2016年、第23回松本清張賞応募作『バックドア』が最終候補となり、改題した『裏切りのプログラム ハッカー探偵 鹿敷堂桂馬』にて文藝春秋から小説家デビュー。近著は新潮社『レトロゲームファクトリー』。2019年12月に Nintendo Switch で、個人で開発した『Little Bit War(リトルビットウォー)』を出した。

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