アフターコロナで目指すべき、「いのちを芯にした、あたらしいせかい」

アフターコロナで目指すべき、「いのちを芯にした、あたらしいせかい」

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◆現代は、「経済力」や「権力」という特定の「力」が過剰になった時代

 いま、社会は大きな変化を迎えています。そのきっかけは「新型コロナウイルス」という感染症の流行です。

 新型コロナウイルスは、すでに感染しているのに症状がない時期が長く、わたしたちが移動することで多くの人に感染が拡大しました(もちろん、手洗い、うがいを含めて感染防御を慎重かつ丁寧に行えば、感染は必ず防げます)。

 ウイルスは自分の力だけでは生きることができません。体力が弱まっている人に感染すると、生命力を奪うようにしてウイルスの力で命を脅かされる場合もあります。弱い立場にいる人を守ることが、医療でも社会でも優先事項です。

 わたしたちはあらゆる種類の「力」を持ち、それが個性にもなっています。体力、気力、免疫力、生命力。そのほかに、経済力、権力なども「力」です。受容力、共感力、持久力なども「力」です。

 それぞれに「力」が備わっていて、それは違いであり多様性であり、本来そこに優劣はありません。わたしたちの社会は、ある「力」を多く持つものは渡し、ある「力」を少なく持つものは「力」を受け取るようにできています。さまざまな「力」を分け合うようにして生まれたのが、本来的な社会の成り立ちです。

 それぞれの凸凹をともに集う場の中で補い合い、支え合うのが社会の役割です。たとえば、自分の畑ではトマトが多く収穫され、隣の畑ではお米が多く収穫される。また隣の町の畑ではイモが多く収穫される。余ってもしょうがないので、お互いに余ったものを渡し、足りないものを受け取るのは当然のことです。

 物々交換では手間がかかるため、間に「お金」を介在させることで交換のやりとりを効率よくするようにしていく。流通も含め、そうして社会は少しずつ複雑化して重層化していきました。

 現代という時代は、「経済力」や「権力」という特定の「力」が過剰になった時代なのではないでしょうか。「力」は過剰であれば、全体のバランスは必ず破綻します。そのため、分け与え共有しようとした社会の根本的な仕組みや意義が、忘れ去られようとしているのではないだろうかと思います。

◆人間は、本来ある場所から大きくずれてしまった

 なぜわたしたち人類は、そうした共同体をつくったのでしょうか。

 それは、人間という種は自然界の中では極めて弱い存在だからです。猛獣や自然災害、虫の大群、そうしたものにおびえながら生きていた弱い存在である人間は、集い合うことで生き延びる道を選びました。

 個人だけで生きるのではなく、集団だけで生きるのではなく、個と場とを共存させる道を選びました。こうしたことを実現した生き物は、人類だけです。というのも、個の利害と場や集団の利害とは、必ず衝突するため、その両立は極めて困難だからです。

 個の生活を大切にしながら、共同体という場も大切にする。共同体という場も、家族や親族だけではなく、地域社会や国家など、その規模は重層的で巨大です。これほど重層的な共同体を持ちながら生きているのは人間だけです。

 わたしたちはこうした複雑な仕組みを共存させながら生きていますが、その中心には「弱さ」があります。人間は「弱い」からこそ生き残るために集い、共同体をつくりました。多様な個性が様々な「力」の差を生み、「力」を分け与え分配するようにして複雑な社会を作り上げてきました。

 もちろん、医療もその一環です。ただ、現代は「弱さ」を忘れ、「強い」と錯覚して弱者を大切にしない社会をつくりました。「経済力」や「権力」が「力」のすべてだと錯覚してそのほかに無数にある「力」を疎かにした社会をつくりました。

 人間すべてが「いのち」であることが前提なはずなのに、「いのち」を大切にしない社会をつくり、「いのち」は人間だけではなくあらゆる生命が等しく持つことも忘れてしまうような社会を作ってしまいました。

 進路が少しずれただけで、何十年も経つとそのズレは大きなものとなり、地球船人間号は難破して遭難しそうな状況です。

 新型コロナウイルスの流行をきっかけとして、社会システムの組み換えを起こす必要があるのは「本来ある場所から大きくずれてしまったから」とも考えらます。

◆これからは個としての「いのち」を大切にする時代

 確かに、感染の拡大を防ぐために、軽い安易なつながりは絶たれました。つながりは大切なものです。ただ、つながりは距離が重要であり、近すぎる距離は時に人を縛り、不自由を生みます。

 たとえば、人と人が集って生まれるある場(家族、職場、地域……あらゆる場が重層的にあります)の中にいるだけで立場の安全が保証されるとき、その場の中に入るかどうかだけが目的となります。「場の中で何をするか」は問われなくなります。

 むしろ、場の中で個性が突出すると場の均衡を乱すので、場の力によって意見を封殺されたり場から追い出されたりしてしまいます。そうした場が持つメカニズム自体が権威や権力や既得権益を生み出す温床でもありました。

 場から脱落した人は、這い上がれない仕組みが巧妙に作られていました。正常ではない「場」の中で、人は浅いつながりを求め、人は個人としての成熟を求めなくなります。成熟しない個人が増えると、人は自分で考えなくなります。

「理解」せずに、ただ「同意」するだけの社会になります。対話の基本は、「理解」であり、「同意」の前に「理解」が先立つはずなのです。

 これからの時代は、安易に場に巻き込まれず、個としての「いのち」を大切にする時代になります。場が壊れてしまうと、個は成熟を求められ、成熟へと促されるのです。

 そして個人個人が、自分の生きる「いのち」を最も大切なものとして掲げて「いのち」を守り、それでいてエゴイズムにならない時代へと進んでいくでしょう。お互いが大切だと思える距離を大切にしながら、個人と個人とが新しいつながり方をする時代へと社会はうつります。

 個人が成熟すれば慈悲が育ち、エゴイズムにはなりません。それぞれが個を深め、深い領域でつながりあい、心で深くつながりあっている時代。個人と個人とが物理的な離れていたとしても、共鳴し、共感し、共振するつながり。孤独であっても、孤立ではないつながり。

「個人と場との関係性が、一段違うステージに踏み出そうとしている」と自分は感じています。それは医療の世界のみならず、あらゆる世界で同時に進行していることなのでしょう。

◆「いのち」を芯にした「あたらしいせかい」へ

 人間の言葉では「コロナウイルス」という名前がつけられます。ただ、地球語や宇宙語の観点で言えば、「ウイルス」というのは人間の都合の名前でしかなく、すべては「いのち」なのです。

 地面にも地下にも空中にも、雑草や虫と呼ばれるものにも、土の中にも水の中にも空気中にも、「いのち」の存在と働きしかない。「いのち」こそが、自然を満たしているのです。

 こうした地球語のレベルに降り立って、わたしたちの社会をもう一度考え直してみる機会なのではないでしょうか。人間語でこの世界を捉えている限り、いまの事態は受け止めきれないのではないかと思います。

 医療関係者は、個人の中にきらめくかけがえのない「いのち」のためにこそ、働いています。それ以外に何があるでしょうか。

「いのち」の力や働きを中心にした世界へと移っていく時代の過渡期だと思います。病院や福祉などの医療施設はもちろん、社会が「いのち」あるものになるために、自然界にある「いのち」の力こそ、芯となり軸となり核となる社会へと移行していくでしょう。

 変化に対して、おそれを感じる気持ちも生まれます。それは、ある意味で「死」へのおそれと等しいものです。ただ、眠りの後に新しい1日が必ずはじまるように、変化の後には何かが死んで新しいものが必ず生まれます。

 見通しがない先を歩いていくことに、現代は慣れていません。先人としての死者たちから多くのことを学びながら、見通しがない先に一条の光を見つけ、自分のいのちを輝かせて新しい未来へと一歩踏み出していく。社会と自分とが無関係に動くのではなく、自分も社会の一員として責任と覚悟を持って生きていく。

 医療現場にいるひとりの弱い人間として、自分が心から生きたいと思う未来を、試行錯誤しながら創造して生きていきたい。そして、現代はまさにそうした分岐のY字路に立っているのではないでしょうか。

【いのちを芯にした あたらしいせかい 第1回】

<文・写真/稲葉俊郎>

【稲葉俊郎】

いなばとしろう●1979年熊本生まれ。医師、医学博士、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014〜2020年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(山形ビエンナーレ2020 芸術監督 就任)。在宅医療、山岳医療にも従事。未来の医療と社会の創発のため、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。単著『いのちを呼びさますもの』(アノニマ・スタジオ)、『ころころするからだ』(春秋社)、『からだとこころの健康学』(NHK出版)など。公式サイト

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