エリート医師が染まった「命の選別」イデオロギー。その背景にある、我々が超克すべき思想

エリート医師が染まった「命の選別」イデオロギー。その背景にある、我々が超克すべき思想

写真/時事通信社

 7月23日、京都市のALS患者に対して薬物を投与して殺した疑いで、二人の医師が逮捕された。そのうちの一人O容疑者は、SNSの匿名アカウントで「高齢者は見るからにゾンビ」「ドクターキリコになりたい」などと投稿し、寝たきり高齢者の殺害を肯定する「命の選別」を主張していた。

 またO容疑者は、厚生労働省の元医系技官で、もう一人のY容疑者とともに『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』という電子書籍を発行していたこともわかっている。被害者とは直接の面識はなく、ネット上で知り合ったという。

◆野放しにされた「命の選別」イデオロギー

 2016年、神奈川県の障害者施設で入所者19人が殺害され、26人が重軽傷を負った「相模原障害者殺傷事件」が起こった。犯人の動機には、重度障害者の安楽死を肯定するような「命の選別」思想がみられた。

 このような凄惨な事件が起こった場合、多くの国では、首相なり大統領なりが即座にこうした差別思想を否定するコメントを出すところだ。しかし安倍首相の動きは鈍かった。犯人は衆議院議長宛てに犯行を予告するような手紙を出しており、その中では自分自身の名前も出てきているという報道も知っていたはずだ。また、事件報道が出てから、むしろ犯人に共感するような意見もSNSなどでは多く出てきていた中で、首相がはっきりとしたコメントをすべき緊急性は高まっていたが、安倍首相は明確に何かを発言することはなかった。

 結局のところ、1997年に優生保護法が廃止された以後も、この社会は優生思想、生命の価値に等級をつける思想と決別することは出来なかったのだ。2019年の参議院議員選挙で、れいわ新選組から出馬した舩後靖彦が、日本初のALS国会議員となった。しかし今年7月には、同党の候補者であった大西つねきが「命の選別」をするべきだとする思想を開陳して除名処分を受けている。この件でも、大西を擁護するコメントが多数現れている。

 23日の逮捕は、元厚労省技官だった医者が、重篤な高齢者や病人、障害者はさっさと殺すべきだという思想に基づいて、難病患者を殺したという衝撃的なものだった。しかしそれを受けてもなお、この事件を機に安楽死・尊厳死の議論をすべきだという声が巻き起こっている。そのうちの一人が、大阪市長であり日本維新の会の代表、松井一郎であった。日本社会ではいまだに、隙あらば「命の選別」の話をしたがる者が多く存在する。

 優生思想や尊厳死・安楽死をめぐる問題については、これまですでに専門家たちによって語られてきたし、この事件を受けて今後も語られるだろうから、ここで議論することはしない。むしろ着目したいのは、なぜ厚労省の技官までつとめた人間が、かかる差別的な思想をもって、凄惨な殺人を行ってしまったのかということだ。

◆有能/無能世界観

 カール・シュミットが、政治的な行動の基準となる二項対立を「友」と「敵」に置いたように、日本社会の多くの人々――特に成人男性――によって行動や思考の基準となっていると考えられる二項対立が存在する。それは、「有能」か「無能」かである。

 たとえば経済的な基準の二項対立は「得」か「損」かであり、美学であれば「美」か「醜」、倫理であれば「善」か「悪」、公正さであれば「正」か「不正」だ。しかし現在の日本のマジョリティは、倫理や公正さには関心がないようにみえる。

 6月の都知事選で、圧倒的な得票率で当選した小池百合子だが、あるアンケートでは東京都民は小池都知事が持ち合わせていないものとして「弱者への共感」「将来像を描く力」と回答している。逆に持ち合わせているものは「発信力」や「リーダーシップ」「決断力」などである。いずれも有能さの指標とされるものであり、都民は都知事に「公正さ」や「損得」(他の候補者が主張していた直接給付などには目もくれなかったのだから)は期待せず、ただただ「有能さ」に期待して投票したのである。

 もちろん、現時点で東京都の一日の新型コロナ感染者数は緊急事態宣言時をはるかに超え、今なお拡大を続けているにも関わらず、東京都は今のところそれに無策であるのだから、真の意味で小池都知事が有能かどうかは疑問が残る。人々が外見上有能アピールをしているだけの無能をあっさりと支持してしまう問題については、また稿を改めて考えてみたい。

◆有能/無能世界観を支える新自由主義

 有能/無能二元論の内面化は、新自由主義イデオロギーが通俗道徳化するにつれて強化されてきた。この通俗道徳のもとでは、人間は自由であり、自分の能力次第で何でもできるとされ、自己決定と自己責任のもとで、個人の市場価値をひたすら高めることを称揚される。

 個人の自由の追求は、元々は左派が要求してきたテーマでもあった。だが、前近代的な制度や不自由を押し付ける権威の打破の先にあるのが新自由主義であった。文芸評論家の?秀実は、1968年革命の帰結が新自由主義改革だとしている。たとえば当時の学生は大学解体を訴えたが、まさに国立大学の独法化によって、大学は解体されたのである。

 我々は小学生のころから自由に個性を伸ばせと教えられる。21世紀の教育では、保守的な教師でさえ、個性などいらぬと言うわけにはいけない。だがもちろんそれを真に受けて、児童生徒は本当に自由に振る舞ってはいけない。それはあくまでも市場価値がある個性のことであり、最終的に自己啓発セミナーまがいのイニシエーションが求められる就職活動を経て、完成する個性のことなのだ。

 そうやって、自分自身の能力を特別な商品として売りつけることを当然のごとく規範化して「社会人」となっていく人々に、階級意識は育たない。「給料をあげさせるためにデモする暇があったら自己研鑽して自分の商品価値を高めよ」と言われてしまうのだ。

 元々日本は、実態がどうであったかにせよ、中産階級意識の高い国であった。だが「幸福な時代」が終わり、新自由主義経済の浸透で格差が急速に拡大していく中、労働者意識が再び勃興することもなく、新自由主義的個人だけが宙吊りのまま取り残されている。

 階級など存在しない、あらゆる個人は平等である。ただ勝者と敗者がいるだけである。そして勝者は努力した者のことであり、敗者は怠けた者である。したがって格差とは自己責任なのだ。このような価値観を内面化した者に、いかなる連帯が可能であろうか。自分が貧困なのは自分が無能であり価値がないからなのだから、団結して社会のほうを変えようとするのは道徳的悪なのだ。自分が弱者だと認めることは自分の無能を認めることになり、それならば自分にはまだ「チャンス」がある者として、誰の助けを借りないという選択を選ぶ方がまだましだ、となる。

◆テクノクラートとしての階級意識

 このような状況下で、持つことができる唯一可能な階級意識はテクノクラートである。いまや、あらゆる市民は医者であれ教師であれエンジニアであれコンビニ店員であれ、個人は何らかの「専門家」でなければならず(その職業がいわゆる専門性になじまない場合でさえ)、社会に対してはその専門性を通してのみ関わりあう。むしろ、そのような立場以外からの発言は無価値とされるのだ。すでに丸山真男が「タコツボ型」「実感信仰」などの概念によって論じた日本社会の問題が、また再びアクチュアリティを伴って現れてくるのだ。

 たとえば、環境問題への取り組みを企業に要請する市民はバカにされる一方、「そうすることができない業界の事情」を語る、企業の中の人に共感が集まる。グレタ・トゥーンベリがいくら世界の一流の環境学者や各国の政策担当者と意見を交換しようと、彼女は「素人環境活動家」として遇され、石油業界の中の人と称する匿名アカウントが持ち上げられるのが日本のSNSなのである。

 こうして、カント的な意味の公共性はなくなる。社会問題を解決するための、市民間の討議可能性も消失する。残るのは、社会問題をテクノロジーによって解決しようとする、ナイーブな(それだけに危険な)技術信仰である。

 テクノクラートは民主主義を好まない。ナチス・ドイツや旧共産圏では、たくさんの技術官僚たちが積極的に体制へと参画した。権力のお眼鏡にさえかなえば、民主的決定プロセスや人権への配慮といった煩わしい事柄に忙殺されることなく、やりたいことができると信じたからだ。

 公共的思考など必要ない。狭い範囲の合理性や効率を追求していけば世の中はよくなっていく。そしてその合理性や効率を妨害する無能な上司や同僚や顧客への不満こそが、日本の文字メインのSNSで特に有名でもない男性職業人が共感を集める理由だろう。

◆男性性と有能性

 ここで「男性」と書いたのは、有能/無能二元論とテクノクラート意識というのは、マチズモとしての男性規範と相性がいいのではないかという考えからだ。自らの弱さ、自らの無能を認めず(すなわち、無能は不能を想起させるから)、常に有能であろうとする男、対話によってではなく、自らの力と技で物事を解決する男。女性のように感情的ではなく、常に論理的(=効率的であり合理的)な男。

 こうしたジェンダー的な価値規範が有能無能二元論を支えている部分は大きい(念のため付言するが、女性が有能/無能二元論を内面化しないという意味ではない)。いわゆるマンスプレイニングも、男性は専門家であり女性は素人である、という固定観念から生じる。

◆技術信仰と「命の選別」

 しかし、公共的思考なき合理性や技術は、あらゆる事柄をフラット化してしまう。情報伝達手段としていまだにファックスを使うことと、回復の見込みのない高齢者を生かし続けることが、同じ水準において「非効率」なものとして認識されてしまうのだ。

 ここにおいて、技術信仰と「命の選別」は野合する。合理化や効率化のためには、「タブーなき」議題設定を常に行なっていく必要がある。倫理的な葛藤や慎重さは障害物でしかない。だって自由なのだから。有能な者は無限に与えられた自由の中で無限に価値を生み出すのだから。その自由を制限する者は効率も合理性も分かっていない無能なのだ、というわけだ。

 しかしこのような技術信仰の全能感、そしてその全能感への共感の帰結は、アウシュヴィッツのガス室である。この厚労省の元技術官僚は、アウシュヴィッツの何百万分の一であれ、同じ結論に達したのだ。

◆虚偽意識の打破

 そもそも有能/無能二元論が本当に社会のために役立っているのかは怪しい。それは結局男性マチズモの幻想に過ぎないのではないか。有能な者を好む男性たちによって支持された安倍政権は、外交、経済、災害、新型コロナ、あらゆる領域において無能を晒し続けている。だが、擬似テクノクラートとしての虚偽意識を有している支持者にとって、それを認めることは世界観が崩れることである。したがって、アベノマスクにせよGo toにせよ北方領土交渉の失敗にせよ、あらゆる領域で無理がある擁護がみられている。

 確かに、露骨な新自由主義を好むものは今や少ない。竹中平蔵は安倍政権を支持する者からも憎悪されている。しかし、新自由主義の弟たち、自己決定論と自己責任論、そして技術信仰はいまだに内面化されている。

 しかし、これらは全て虚偽意識である。もちろん虚偽意識を虚偽だと言ったところで、虚偽意識から簡単に逃れられるものではないが、とはいえ、さすがに多くの人が流石にまずいと気づく「命の選別」イデオロギーだけを撃って済むものではない。「命の選別」に至る思考を防ぐためには、たとえば自身の商品価値を高めるために自己研鑽を積む姿勢を美徳とする価値観も撃たなければいけないだろう。

<文/北守(藤崎剛人)>

【北守(藤崎剛人)】

ほくしゅ(ふじさきまさと) 非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82

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