三浦春馬さんの訃報に思う。「休む」技術や環境整備、「言葉」の大切さ

三浦春馬さんの訃報に思う。「休む」技術や環境整備、「言葉」の大切さ

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◆亡くなる前に信頼できる人に相談して、重荷を分かち合ってほしかった

 三浦春馬さんの訃報は胸が痛みました。

 自分が2020年7月に上梓した『いのちは のちの いのちへ』(アノニマ・スタジオ)で書きたかったことも、まさにこうした事態を少しでも減らすような、新しい医療の場を願って書いたものでした。

 医療の場が「病院」という空間の中だけで限定されてしまうと、自死のような事態を防ぐことは難しくなってしまうのです。

 特に芸能界の人、有名人とされる人は誰にも相談できない人が多いのです。亡くなる前に信頼できる人に相談して、重荷を分かち合ってほしかったと思います。自分もそうした力になれる一人になりなかったです。亡くなってからでは遅く、すべては亡くなる前に。

 相手が困っている時には、微細なサインを読み取りながら、丁寧に対応する必要があります。そもそも、「言葉」はかなり大雑把なやり取りに終始することが多く、思っていないことを言えてしまうのも「言葉」の特性です。

 相手が発している微細なサインを受け取るためには、発される言葉よりも、表情や顔色、視線、声のトーン、その他にもあらゆる身体の表現……そうしたすべてを丁寧に細かく読み取ろうとする態度こそが求められます。役者として何かを演じることのプロであるからこそ、「元気な自分」「いつも通りの自分」を完璧に演じることすらもできてしまうのですから。

◆真面目な人ほど「死ぬしか選択肢がない」と思い詰めてしまう

 真面目な人ほど「反省」という行為が、自分を責める行為につながりやすいです。「反省」は成長へとつながるための大事なステップになる場合もありますが、「反省」が「自分を責める」ことと一体化してしまうと、「自分を責める回路」から出られなくなります。

 自己否定を心の中で繰り返していくと、「この世界にはどこにも居心地のいい居場所がない」と思い詰めてしまいます。「いまの嫌な循環から抜け出したい」と思う時、眠ったり、お酒を飲んだりすることで、一時的に「意識活動」が途切れるので、一時的なリフレッシュにはなります。

 悪いサイクルを堂々巡りしている状況から、自分の意識活動は一時的に抜けることはできます。ただ、お酒から覚めて、眠りから覚めて、また朝が来た時、何も現実世界が変わらないことに深く絶望してしまう、そうしたことを繰り返していると、「生きる」という複数の選択肢の中に「死ぬ」という選択肢までもが入り込んでしまうのです。

 それは、お酒や眠りで意識活動を一時的に変えることができることと同じ文脈です。閉じられた回路の中で、悩みの根源へと深く考え込んでいくと、そもそも生きていること自体がすべての悩みの根源だと考えるようになることもあり「それなら死ぬしか選択肢がない」と理屈の中で思い詰めてしまいます。

◆遠い未来を見る心の余裕やスペースが生まれることが大事

 心の病に悩み苦しんでいる相手に対して、周囲が「正しさ」を盾にして「責任」 を押し付けていくと、究極的には「生きていること」がすべての原因だと追い詰めてしまうことがあります。

「生きている」からこうなってしまったのだ、と。そうしたことは、SNSやネット世界の中での相手を中傷し批判する言葉の濁流がそういう状況を少しずつ作り上げて、追い込んでいきます。

 そうした考えに閉じ込められてしまうと逃げ場がありません。考えが煮詰まっていくと、自己否定や絶望から自死へと至る悲劇も起きてしまいます。

 因果論で現在の状況を理屈で考え詰めていくと、そうした最悪の事態に陥ることがあります。だからこそ、そうしたときにふっと未来へと視点が向き、それも近い未来ではなく、遠い未来を見る心の余裕やスペースが生まれることが大事なことです。周囲もそうしたことに心を配る必要があります。

 そうした視点の切り替わりが起きるためには、まず悩み苦しむ相手から「自己否定」「自己責任」といった重荷を、一度取り外すことが大事なことです。周囲の者たちが協力して、自然治癒力という心の復元力がうまく働く土台を準備することこそが大事なのです。

◆本当に「休む」ことさえできれば、自然治癒力が適切に発動する

 ただ現実には、周囲の者たちが本人の自然治癒力を損なうように動き、追い詰めて逃げ場がない方向へと言葉を投げかけている場合も多いので、注意が必要だと思います。周囲の者たちが、自然治癒が働きやすい土台を作っているのかどうか、改めて考え直してみる必要があります。

 そうして自然環境を育むような丁寧な環境整備によって、「治ろう」という生命の自然な欲求が生まれる土壌ができます。そもそも、「生きている」こと自体が前向きなことなのですから。生命の働きを阻害しないようにすることが大切なことです。

 周囲が手助けをして、「自己否定」や「自己責任」という言葉や思考回路と自分との切り離し作業を行ってみます。一度でもいいから重荷がなくなり、心に余裕ができた状態を体験してもらいます。

 見えざる圧力から逃れた状態を感じてもらい、ゆっくりと音楽を聴くように良質な他者の言葉や思いやりに身心を浸せば、自分の考えだけが同じ場所を堂々巡りせずに別の思考の水路が生まれてくるのです。

 そうしたプロセスにより、自分の心の体勢を整える余裕が生まれてきます。現代社会は「休む」ことができません。本当に「休む」ことさえできれば、自然治癒力が適切に発動してきます。「休む」技術や環境整備こそが、今の社会には求められています。

◆思っていることを「言葉」に変換するのはかなり高度な行為

 心の水路を枯れさせず氾濫させず、適切に循環させる環境整備こそが大切なことです。自死の問題を受けて、そのことを単純に個人や周囲のせいにせず、社会の構造の問題、場の問題として受け止めて、必ず次の社会創造につなげていく必要があります。

 こうしたことの背景として、芸能人や有名人の方は、SNSやインターネット世界で受けるバッシングが辛辣で激しい、ということもあるだろうと思います。女子プロレスラーの木村花さんが亡くなったこともそうしたことと関係があり、現代社会の全体像を真剣に受け取め、いま生きているものたちの責任としても、よりよき未来へとつなげていく必要があるだろうと思います。

 本来「言葉」でのやり取りは、かなり高度なものです。形にならない感情や思いに適切な言葉をあてはめる「言語化」を含め、「言葉」の世界はかなり抽象度が高い行為です。

 自分も本や文章を書く立場になって痛感したことですが、自分が本当に思っていることを「言葉」に変換するということは、極めて高度でかなりの訓練を必要とする行為です。

 実際に著作を書いていても、常に言い足りないし、常に言い過ぎる、という思いの中で、何度も何度も自問し推敲し、書き直し続けました。一度でうまく言葉に変換できることもあれば、何度も何度も推敲する場合もあります。

 わたしたちは、こどものとき「言葉」をなんとなく覚え、「言葉」でのやり取りをなんとなく学習します。そのとき、「怒り」「支配」「欲望」「力」などを推進力として「言葉」でやり取りをしている大人や社会から言語を学習すると、言葉のやり取りがそうしたものだ、と誤って学習してしまうのです。

◆自分の生命の深部から生れてくる言葉をこそ、大切にしたい

「怒り」や「復讐」のようなものをコミュニケーションで場を支配するために使っている人(多くは無自覚です)は意外に多く、「言葉を扱う」という行為が、あまりにも安易に行われています。そうした時代に強い危機感を感じています。

 たとえばヘイトスピーチのように、相手を傷つける言葉で場を支配するやり取りも、時代の危険な徴候だと思います。芸能人含めて、言葉の矢面に立っている人たちが受ける言葉の暴力には、想像を絶するものがあるのではないかと思います。

 だからこそ、今からは言葉でのやり取りを全員が再学習する機会としても、「対話」を真剣に考える時代になると思うのです。

 悪意に満ちた言葉をコピーして発し、そうした行為に悪気も悪意もなく言葉をやり取りしている時代を、自分は次の世代に残したくない。それぞれ個人が、ちゃんと自分が吟味した言葉を責任もって絞り出す時代へ向かうためにも。

 本当に自分が考えていることを、ちゃんと言葉にすることは難しいものです。そもそも「自分は何を考えているのか」を知ることが第一歩になりますが、そもそも、そうした前提こそが疎かにされやすいものです。「中動態」のように、外部とは関係なく自分の生命の深部から生れてくる言葉をこそ、大切にしたいのです。

◆「言葉」のやり取りとしての対話を真剣に考える時代へ

 精神科医のジャック・ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」と言いました。つまり、自分の欲望は実は他者の欲望のコピーだということです。「他者の欲望」をコピーして発するのではなく、「自分の欲求」を知り、自分の言葉を発するのは、それなりに大変な作業で、ある程度のトレーニングが必要なのではないでしょうか。

「言葉」というものをもう一度見直す時代。そして、「言葉」のやり取りとしての対話を真剣に考える時代へと舵を切る必要があります。そうした基礎的なことを、大人になってしまうと「再学習する」機会がないことが、そもそも危ないだろうと思うのです。

 もちろん、非言語での身体を介したコミュニケーションも、人間には絶大なる影響があります。医療現場で言葉以上に、ダイレクトな身体を介した対話を行っている自分としても痛切に感じていることです。そうしたこともともに考え、深めていく時代へと進んでいく必要があるのではないでしょうか。

 本来、対話は極めて創造的なものです。自分は、医療者としても1人の市民としても、そうした安全で安心な場をつくる責任があると日々痛感しています。聖域であるたましいを守り、いのちを守るためにも。

 三浦春馬さんの訃報を聞いた後に、散歩に出ました。コンクリートに踏んづけられている植物を見ても、蜘蛛の巣に浮かぶ一滴の水滴を見ても、こどもが作るシャボン球を見ても、青空を飛ぶ鳥を見ても、自分には彼の魂の影のように見えてしまい、涙が止まりませんでした。

 人が一人亡くなるとき、世界はグラリとバランスが崩れるのを感じます。そして、また何か別の形へと変わっていきます。わたしたちが心を動かして日々を生きていれば「ひとりの死も無駄にできない」と自分の心が強く動いていることも感じるはずです。

【いのちを芯にした あたらしいせかい 第5回】

<文・写真/稲葉俊郎>

【稲葉俊郎】

いなばとしろう●1979年熊本生まれ。医師、医学博士、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014〜2020年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(山形ビエンナーレ2020 芸術監督 就任)。在宅医療、山岳医療にも従事。未来の医療と社会の創発のため、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。著書に、『いのちを呼びさますもの』、『いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―』(ともにアノニマ・スタジオ)、『ころころするからだ』(春秋社)、『からだとこころの健康学』(NHK出版)など。公式サイト

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