観光客の無関心なまなざしとGo To トラベル<史的ルッキズム研究6>

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◆感染拡大のリスクを抱えた「Go To トラベル」

 この記事が掲載されるころにはもう始まっていますが、政府は「Go To トラベルキャンペーン」と題して、国内観光旅行の振興事業を行います。観光旅行の交通費などを補助するために、1兆3500億円の予算を組んでいます。

 この施策には、当然多くの批判が向けられています。新型コロナウイルスの感染が終息していない状態で、国内の移動を奨励するのです。これまで感染を抑制してきた地域に大都市圏の人々が移動することで、市中感染が飛び火するのではないかと懸念されています。

 このキャンペーンを主導するのは、経産省、国交省、国交省の外局である観光庁です。大戦後の日本政治は、一種の「開発独裁型政治」であったと言われるのですが、まさに開発主義の中心的省庁が、このキャンペーンを主導しています。

 そして、この事業が生み出すだろう感染爆発の対策については、政府は予算を出さず、地方自治体まかせにしているのです。

 地方の医療機関は感染者の増加に備えなくてはなりません。コロナウイルス発症者に備えて、入院患者のいくらかを自宅に戻して、病床を確保するのです。観光振興政策のために、地方の社会は文字通り身を切ることになります。観光客を遊ばせるために、高齢の患者を病院から追い出し、ひっそりと息を引き取るよう促すのです。

 財政的にも人的にも脆弱な地方自治体は、このキャンペーンに反発しています。すでに青森県のむつ市は、キャンペーン期間中の観光施設閉鎖を決めています。むつ市にとって、観光収入はわずかで、負担ばかりがかかるのです。いくつかの地域はむつ市のような自衛策をとってキャンペーンに背を向けるでしょう。しかし観光収入に依存する地域は、警戒をしつつ観光客を迎えるでしょう。

◆地域のリスクに目をつむる観光

 この「Go To キャンペーン」政策では、観光の収奪的性格が最大限に発揮されることになります。観光客は目に映るものを楽しみ、目に映らないものを忘れます。

 これまで連日議論されてきた感染問題をあっさりと忘れるなんてことが、はたしてできるでしょうか。観光ならそれができます。このかんに私たちが学んだこと、医療従事者が抱える困難や、既往症を持つ人々の不安や、エッセンシャルワーカーが負っているリスクについて、あっさりと忘れることができるでしょうか。観光ならそれが可能になるのです。

 観光という産業は、風景を眺め楽しむことと、人々の生活を顧みないこととが、一体となっています。目に映るものだけが存在し、目に映らないものは存在しない。目に映らないものを想像することはしない。目に見えないものに思いを巡らしても仕方がない。そうした規則によって構築された社会を、「スペクタクルの社会」と言います。

◆シチュアシオニストが唱えた「スペクタクル社会」

 「スペクタクルの社会」は、ヨーロッパの芸術左翼集団、シチュアシオニスト・インターナショナルによって提出された概念です。シチュアシオニストは、1957年に登場したグループで、フランスの「5月革命」を準備したと言われています。彼らが問題にしたのは、文化領域における収奪、搾取、人間疎外の問題です。

 大戦後のヨーロッパは、マーシャルプランによる戦災復興計画によって、アメリカ型の生活スタイルを受け入れていきます。人々の余暇は、レジャー産業によって組みなおされ、市場化され、産業的に設計された文化商品が普及していきます。

 シチュアシオニストは、文化の産業化・商品化・広告化が、人間の感受性を侵すことになると警告し、文化領域での反資本主義闘争を訴えました。文化の商品化は、生活を豊かにするのではなく、人間疎外をより深刻化させる、と言ったのです。

 シチュアシオニストは10年もせずに解散してしまいましたが、その思想はヨーロッパの左翼運動に脈々と受け継がれてきました。資本主義経済が人間の感受性を侵し破壊するという認識が共有されているのです。

◆無関心が支えるまなざし

 さて、話を戻して、「スペクタクルの社会」です。

 大戦後の日本もヨーロッパと同様に、観光開発を進めてきました。1960年代から観光は大規模になり、習慣化し、新しいタイプの人間を生み出していきます。観客的人間。目に映るものだけを眺め、目に映らないものを想像することができない人間です。スペクタクルの規則を遵守する観客的人間が、事物を眺め、楽しみ、「経済をまわす」のです。

 それは風景を愛でる場面でも、女性の華やかさを愛でる場面でも、共通した構造をもっています。対象の表面を眺めているだけで、本当の意味で関心を向けているわけではない。対象にたいして、本当はどこまでも無関心なのです。この無関心が、収奪の構造を可能にする条件となっています。観光客においても、アイドルファンにおいても、そうです。ぞっとするほどの無関心が、レジャー経済を支えているのです。

<文/矢部史郎>

【矢部史郎】

愛知県春日井市在住。その思考は、フェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズ、アントニオ・ネグリ、パオロ・ヴィルノなど、フランス・イタリアの現代思想を基礎にしている。1990年代よりネオリベラリズム批判、管理社会批判を山の手緑らと行っている。ナショナリズムや男性中心主義への批判、大学問題なども論じている。ミニコミの編集・執筆などを経て,1990年代後半より、「現代思想」(青土社)、「文藝」(河出書房新社)などの思想誌・文芸誌などで執筆活動を行う。2006年には思想誌「VOL」(以文社)編集委員として同誌を立ち上げた。著書は無産大衆神髄(山の手緑との共著 河出書房新社、2001年)、愛と暴力の現代思想(山の手緑との共著 青土社、2006年)、原子力都市(以文社、2010年)、3・12の思想(以文社、2012年3月)など。

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