便利で快適な生活の裏で忍び寄る「21世紀の全体主義」と、それらに抗う術とは? 哲学者・中島隆博氏に聞く

便利で快適な生活の裏で忍び寄る「21世紀の全体主義」と、それらに抗う術とは? 哲学者・中島隆博氏に聞く

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 新型コロナ禍では社会の有り様が大きく変容せざるを得ない状況になっている。感染症の拡大を防ぐためには、個人の自由が制限され、集団として統制される必要があるからだ。しかし、それはともすれば大きな危険を伴う。

 しかし、実は「全体主義」の空気はコロナ以前から漂っていたーー。

 東京大学東洋文化研究所教授の中島隆博氏は新刊『全体主義の克服』(集英社新書)で、現代ドイツを代表する哲学者マルクス・ガブリエルさんと「21世紀の全体主義」について議論をしたという。

 東西哲学界の雄が見る「21世紀の全体主義」とは何なのか? そして我々はそれにどう抗えばいいのだろうか? 中島氏に聞いた。

◆21世紀の新たな全体主義とは?

――全体主義と聞くと、20世紀のナチス・ドイツや大日本帝国のことが思い浮かんできますが、ただ21世紀の世界にはナチスのような体制はほとんど見られません。新型コロナウイルスに対応するため、国家による統制は強まっていても、それはナチスとは違うようにも思えます。それで、全体主義が再来したと言っていいものでしょうか。

中島隆博氏(以下、中島): 今、静かに忍び寄っている21世紀型の全体主義は、20世紀型のものとは性質が異なるというのが、ガブリエルさんとわたしの理解です。

 ナチスのような20世紀型の全体主義では、強力な官僚制によって支えられたカリスマ的な独裁者が民衆を一つに束ねていきました。ナチスが行ったユダヤ人大量虐殺も、組織化された官僚制なしには実行できなかったことです。「官僚主義的な悪」に支えられた全体主義だったと言えるでしょう。

 これに対して、21世紀型の全体主義では、明確な独裁者や強力な官僚制が再び登場することがあるかもしれませんが、それらがなくても、あるいは十分になくても成立してしまうのではないか。このように捉え返してみようとしたわけです。

 では、21世紀型の全体主義を形作りうるものは、何なのでしょうか。ガブリエルさんが強調するのは、特定の国家やカリスマ政治家というよりも、デジタル・テクノロジーとそれを操るプラットフォーマー企業群がもたらしかねない危険性です。これをガブリエルさんは、テクノロジーによる全体主義的な「超帝国」と呼んでいます。

 最近TikTokが話題になっていますが、そもそもGAFA(*Google・Amazon・Facebook・Appleの4社を指すことば)と呼ばれるプラットフォーマーのアルゴリズムは、わたしたちには開示されていませんし、デモクラシー的な仕方でそれに関与することもできません。しかも、デモクラシーの空間を担保する適切な競争も困難な状況です。

 インターネットの草創期には、ここにこそ新たなデモクラシーのチャンスがあると考えられたこともありますが、実際は期待通りにはなりませんでした。「デジタル全体主義」とガブリエルさんは概念化しましたが、デジタル化が非デモクラシー的さらには反デモクラシー的な方向に進んでいく危険性が21世紀型の全体主義の核心なのです。

―― この本では、全体主義は「公と私の垣根」を壊そうとする運動だとガブリエルさんは言っていましたね。

中島:20世紀型の全体主義の特徴は、人々の内面という私的な領域を支配することにありました。特別警察による思想信条の調査や密告の奨励などが典型です。公的な権力が私的な領域に浸透していったのです。ところが、今日では、わたしたちは自発的に私的な領域をさらしています。世界中の人々が、SNSを通じて、自分のプライベートな事柄をネット空間に直接的かつ瞬時に(immediately)アップしています。そこには、様々な意味での媒介(mediation)が欠けています。戦前の日本の特高(特別高等警察)関係者がこの状況を見たら、どう思うでしょうか。

 20世紀型の全体主義の時代には、「市民的不服従」という仕方で権力に抵抗しました。ところが、現在のテクノロジーの「超帝国」で起きていることは、ガブリエルさんによれば、その逆の「市民的服従」です。それが、21世紀型の全体主義を可能にしているのです。

 つまり、わたしたち市民が自ら疑似独裁を生み出しているということです。デモクラシーを破壊しているのはわたしたち自身ではないのか。これがガブリエルさんとわたしからの問いです。

◆デジタルなスコアリングに支配される人々

―― 最近ではSNSに自らの考えを投稿したところ、それが「炎上」してしまい、それを苦に自殺する人もいます。若者たちの日常を映したテレビ番組が炎上し、出演者が自殺してしまう事件も起こっています。それでも人々はSNSに自らの内面をさらけ出すことをやめようとしません。これはなぜでしょうか。

中島:自己への関与の仕方に問題があるように思います。ガブリエルさんは公と私の垣根の破壊を全体主義の特徴として取り上げていましたが、わたしはもうひとつ、私的な領域それ自体の破壊を感じています。

 ネット上に公開している自分のプライベートなものは、多くは他愛のないものです。何を食べたとか、何を着たとか、どこに行ったとかですね。しかし、その背後にあるのは強烈な承認欲求です。誰かに自分のことを認めてもらいたいがために、SNSで「いいね」を集めて、自分が何者かを確認したいわけです。これはまるで、他人を通じてではありますが、自分で自分をすみずみまで監視しているかのようです。自分のことが気になって仕方がないために、SNSを通じて自分自身を管理し、支配しようとしていると言ってもいいかもしれません。

 とはいえ、それは自己を破壊しかねません。なぜなら、私的な領域がプライベートなものに覆い尽くされてしまい、もうひとつ重要なパーソナルなものが消されていくからです。パーソナルなものは、所有や消費とは異なり、他者とともに形成される自らの経験とその変容からなるものです。さきほど媒介の意義を強調しましたが、それはこうした意味での他者に関わるものです。「いいね」を押してくれることを期待する他者のことではありません。その次元が消され、自己が自分によって管理する対象になっているのです。

 ガブリエルさんが指摘するように、スマートフォンなどを通じて人々の行動をスコアリングするアルゴリズムがいたるところに普及しています。公共交通機関の利用、レストランでの食事、実家を訪ねる頻度などをデジタルシステムにフィードバックし、点数をつけてもらうのです。これもまた、スコアリングによって自分自身の位置づけを確かめる作業です。それだけ現代人は自分の存在根拠を見失っている、もしくは、存在根拠を求めてはいけないところに求めているということです。

―― 現在の全体主義が「市民的服従」によって成り立っており、自分たちが支配されているという感覚を感じさせないものである以上、人々は今後もSNSに自分の内面をさらし続けるでしょう。いったいわたしたちはどうなってしまうのでしょうか。

中島:現在のような状況が続けば、ユベル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』(河出書房新社)で指摘したように、人々のニーズや好みが計算され、すべてが快適に設計された世界が訪れるでしょう。そこではあらゆるものがアルゴリズムによって処理されるため、衣食住も満たされ、生活に困ることもありません。しかし、経験を作りあげるような計算外の出来事や偶然といったことは起こりにくくなります。

 しかし、これははたしてユートピアなのでしょうか。わたしは、その逆のディストピアだと思います。というのも、ここにはわたしたちが一人の人間として、パーソナルに振る舞えるスペースがないからです。これが21世紀の全体主義の未来です。

◆「群れ」として扱われることに対抗するには

―― 新型コロナウイルスはいずれどこかのタイミングで終息すると思います。しかし、SNSやテクノロジーを通じた全体主義が止まる姿は想像もつきません。どうすればデジタル全体主義を克服できるでしょうか。

中島:20世紀型の全体主義であれ21世紀型の全体主義であれ、全体主義の社会では人々は単なる「群れ」として扱われます。わたしたち一人ひとりがどのような人間であるかは無視され、「その人」としては扱われないのです。パーソナルなものを避けているのです。

 そうだとすれば、全体主義を克服するには、デモスである民衆一人ひとりに開かれたデモクラシーが必要だということになります。これは字義通りの「パン・デミック」です。「パン・デミック」という言葉は「全(パン)・民衆(デモス)」を意味しています。これこそわたしたちが追求すべきものだと思います。

 その際、ナチス・ドイツからアメリカに亡命したユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントの議論が参考になります。ずいぶん前になりますが、ハンナ・アーレントの研究会に参加したとき、ある研究者から「アーレントの思想のポイントはDon’t feel at homeだ」と言われたことがあります。Don’t feel at homeとは「家にいるようにくつろいではならない」という意味です。つまり、快適さに甘えて思考停止してはならないということです。

 これは非常に重要な視点です。テクノロジーが進歩し、デジタル化が進んだことで、わたしたちの暮らしがある面で快適になったことは間違いありません。ハラリの描く未来は、まさにこの快適さに貫かれています。しかしその結果、わたしたちの生活はアルゴリズムによって完全にコントロールされることを許すのです。

 こうした事態を打開しようと思えば、快適さから距離をとって、スペースをあけるしかありません。このスペースこそがデジタル全体主義の及ばない場所であり、ここにこそ人間の居場所があります。そのためには、対抗アルゴリズムのような発想を、テクノロジーに関わる人々に持ってもらう必要がありますし、それが切に望まれているのだと思います。こうしたスペースをあけなければ、パン・デミックなデモクラシーは成り立たないと思います。

◆全体主義と闘う哲学

―― ガブリエルさんをテレビに出て資本主義について気の利いたコメントを述べるスタイリッシュな哲学者と見ていた人は、この本で展開されている彼の全体主義批判に驚くと思います。

中島:ガブリエルさんは資本主義に対しても厳しい批判を行っていますが、その背景には戦後ドイツの反全体主義という文脈があると思います。

 たとえば、彼が『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)で言っている「世界」とは、すべてを包括する統一的な根拠のことです。そこでは強力な同一性が支配していて、すべてを全体化していきます。ガブリエルさんはこうした意味での「世界」を批判し、「世界は存在しない」と主張することで、全体主義への哲学的な批判を行っているのです。

―― ガブリエルさんをハイデガーの影響下にある哲学者と位置づける日本での評価が多いなか、『全体主義の克服』のなかで、彼がハイデガーを痛烈に批判しているのも驚きでした。

中島:ガブリエルさんもハイデガー哲学のもとでトレーニングを受けたと言っているので、影響がないわけではありません。しかし、その影響をどう乗り越えるかが課題なのです。

 ハイデガーは、20世紀の哲学に大変な影響力を持ち、ナチスとの関係も深く、日本の哲学者にも影響を与えました。そのハイデガーが提起したのが「死」の問題です。ハイデガーは、正しく「死」に関心を持てば、本来的に生きることができると主張しました。ハイデガーの哲学は、第一次世界大戦という世界戦争が展開した20世紀において、死に直面した人々を惹きつけたのです。

 20世紀に全体主義が台頭したのは、第一次世界大戦と、同時期に流行したいわゆる「スペイン風邪」が大きなきっかけでした。当時は現在と同じくらいに経済のグローバル化が進んでおり、その負の影響も広がっていました。国際協調が崩れ、世界戦争に突入し、文明としてのヨーロッパの意義が根底から損なわれます。そのようなときに、「根拠」を与えてくれるように見えたハイデガーの哲学に、人々が熱狂したのは無理もありません。それはヨーロッパだけではなく、日本のように、ヨーロッパ近代を反復しようとしたところにも広がりました。

 しかしそれでは、全体主義に取り込まれることに抵抗できなかったのです。「一」なるものに全体化され、意味づけられるままにならないような哲学をどう打ち立てるのか。それがガブリエルさんの新実在論や新実存主義のひとつの目論見だったのです。わたし自身も、「一なる全体」に抗する哲学を、東アジアから考えようとしてきました。

―― 中島さんもガブリエルさんも、哲学を従来とは違った役割をもたせようとしているのですね。

中島:そうです。現在の状況も100年前をなぞるように、非常に不安定で危機的なものになってきています。しかし、100年前の轍を踏むわけにはいきません。当時の哲学とは違った貢献を、現代の哲学者はしていかなければならないと思っています。そのひとつの試みが、今回の新書『全体主義の克服』なのです。

<取材・構成/中村友哉>

【中村友哉】

「月刊日本」副編集長。1986年、福岡県生まれ。早稲田大学卒。学生時代から『月刊日本』編集部で働き、2015年より副編集長

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