野球界は本当にただの「犠牲者」だったのか。終戦から75年が経過したいま「戦争と野球」の関係を見つめなおす

野球界は本当にただの「犠牲者」だったのか。終戦から75年が経過したいま「戦争と野球」の関係を見つめなおす

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◆第二次世界大戦中の野球

 第二次世界大戦と野球について語られるとき、野球は戦争の被害者であるとされることが多い。戦時中、野球が外来のスポーツとして弾圧されていたことはよく知られている。また「戦争によって亡くなった選手」についてもよく言及される。

 もちろん、戦火が野球界にもたらした影響は甚大で、とくに軍人となった選手たちがどのような思いで逝ったか、その心情は想像するに余りある。

 ただ、一方でそうした「悲劇」としての側面に焦点を当てすぎるあまり、戦前の野球界全体として戦争とどう向き合ったのか、という視点ではあまり語られてこなかった。

 終戦から75年。当時を知る野球関係者の多くがこの世を去り、彼らの証言を聞くことは難しくなった。その反面、野球の歴史をめぐる研究は発展をつづけ、終戦直後にはなかった新たな視点による分析や考察も出そろいつつある。

◆戦時体制を受け入れる側面も見られた「1930年代後半」

 そもそも、野球界にいわゆる「軍靴の音」が迫ってきたのはいつ頃の話なのだろうか。その答えとして一般的なのは、昭和12(1937)年に勃発した日中戦争が契機になったという見解だ。

 事実、文部省はこの年の12月に運動を奨励し、国民の心身を修練して挙国一致の体制をつくることを目的とした「国民精神総動員ニ際シ体育運動ノ実施ニ関スル件」という通牒を発しており、野球界もこの時点から戦時体制に組み入れられたといえる。

 野球は後に「敵性スポーツ」として弾圧されるようになるが、この頃にはむしろ野球を含めた「スポーツ」の地位が高まっていった。「運動ができる人間」はすなわち「心身がよく鍛錬された青年」であり、さらに言えば「いい兵士のタマゴ」だったのだ。

 1937年に出された通牒以降、野球は徐々に国家総動員体制に組み込まれていった。甲子園は開催こそできていたものの、「国威発揚」の側面が重視され、選手たちは愛国心を全面に出して、プレーへ臨むことが義務付けられた。

 ただし、ここで野球関係者たちは、野球界が国威発揚の道具に使われることに反発したわけではないとも指摘される。むしろ、彼らは「外来の競技とはいえ、野球はこんなにもお国のためになるんです!」と訴え、「国威発揚」に利用されることを受け入れた。

 もちろん、国家体制に迎合していくことで何とか野球を守ろうという気持ちもあっただろう。中には、学生や民間人によって運営されていた野球が戦争に利用されることに怒りを覚える関係者もいた。しかし、基本的にはお上の言いなりだったのがこの時期の野球関係者の姿とも考えられるのである。

 こうして野球は戦時体制に組み込まれていったのだが、元々外来のスポーツであることから、国粋主義者たちによって野球批判の機運が形成されつつあった。

◆「敵性スポーツ」として弾圧される野球

 野球関係者たちは必死に「戦時体制における野球の貢献」を説いたわけだが、昭和16(1941)年の太平洋戦争開戦以降は、「敵性スポーツ」として弾圧されたといってよい。ただ、事ここに至っても、野球関係者たちは野球を弾圧してくる国家体制そのものを批判することはなかった。

 結果、昭和17(1942)年には当時人気を博していた東京六大学リーグが中断に追い込まれ、甲子園も開催されなくなった。翌年には徴兵令の学生猶予がなくなったため、プロ野球選手ともども戦地へ出征し、その大半が亡くなっている。

 この時期には国粋主義者だけではなく一般民衆の間でも「野球は敵性スポーツ」という認識が共有され、社会全体から厳しい目が注がれた。野球関係者たちもこうした批判を予見し、太平洋戦争開戦前の時点で野球の専門用語を一部日本語表記に改めていた。例えば、「ストライク」が「よし」と言い換えられたのである。

 しかし、この言い換えに関しても具体的な政府からの命令があったわけではなく、あくまで野球関係者による自主的な規制であったことには注目したい。「野球を守るため」といえば聞こえはいいが、結果だけを見ればむしろ積極的に戦時体制に寄与していったともいえるのである。

◆ロシア系投手を改名させたあげく追放

 加えて、野球関係者たちが実際にプレーする選手を守れなかった例もある。

 戦前の巨人で活躍したロシア系名投手のヴィクトル・スタルヒンは、開戦前の時点で巨人の首脳陣から「須田博」という日本風の名前への改名を要求されている。スタルヒンは出身国のロシアが革命によって崩壊し、子どもの頃に日本に亡命した無国籍人となっていた。その後長らく日本で暮らしていたが、彼は「外見が日本人らしくない」という理由で望んでも日本国籍が与えられていなかったのだ。

 そのため、スタルヒンには日本の野球界を除いて居場所がなく、彼は当然ながら改名を受け入れた。その後、そうまでして野球を続けたがっていたスタルヒンを、巨人首脳陣は容赦なくチームから追放した。もともと、スタルヒンの入団は巨人発足時に首脳陣が特高警察を動員してまでプロ入りを望まない彼を恫喝し、強引に入団させた経緯があったにもかかわらずだ。

 これも「野球界のために、一人の犠牲は仕方なかった」と反論されるかもしれない。野球関係者が政府の方針に結果として加担しているのは明らかであり、選手一人を自主的に追放するような彼らを「野球のために戦った」と手放しに称賛してもよいのだろうか。

 結局、強引な手段を使ってでも野球を続けようとしたプロ野球関係者だったが、戦局の悪化に伴い昭和19(1944)年にはリーグ戦の一時休止が決定した。

◆アメリカの協力により早期復興を果たした「終戦後」

 従来から戦時下での野球には強い関心が寄せられてきたが、終戦後の動きに関してはあまり一般に知られていない。

 実は、終戦後に野球は他競技に比べてもかなり早く再開している。野球場は上陸したGHQによって接収されていたものの、終戦わずか2か月で早稲田、慶應のOBによる「オール早慶戦」が開催され、野球は息を吹き返した。

 翌年の昭和21(1946)年には東京六大学野球リーグとプロ野球の公式戦が再開し、さらに戦前からの懸案であった野球界の自治的性格も取り戻された。

 こうした野球の早期復活は野球関係者の努力というより、終戦後の日本に対して強い影響力をもったアメリカの意向が大きかった。彼らは国技でもある野球を日本に浸透させ、自国に対する警戒心を和らげようとしたのだろう。事実、戦後に作られた野球に関する規則や組織は、その成立をGHQ部局の一つ、CIE(民間情報教育局)が主導している。

 そのためか、今日まで野球関係者の「戦争への協力的な姿勢」が問われることはほとんどなかった。しかし、戦時下の行動を見ると、彼らは「戦争協力者」と呼ばれても仕方のない行為をしている。同じような立場で、やむなく戦争に協力した文化人たちは、戦後容赦ない批判にさらされた。

◆野球は戦争の単なる「被害者」ではない

 要するに、野球を戦時下で「敵性スポーツ」として弾圧された「被害者」としてだけ捉えることはできない。競技を守るためとはいえ、野球界が自発的に戦時体制に組み込まれていった側面があるのである。

 しかし本論で言いたいのは、「戦争に協力した関係者たちを責めるべきだ」ということではない。関係者たちも、最初は「野球が好きだから」「野球を守りたいから」と戦時体制にやむなく迎合しただけなのだろう。しかし、結果として野球を愛する選手の追放という悲劇を生み出している。

 当時の野球関係者たちが「悪」だった、とは思わない。それでも、単に戦争で犠牲になった選手たちに焦点を当てるだけではなく、積極的に政府の方針に迎合していき、ついには選手の追放にまで至ってしまったという事実を、我々は直視しなければならない。

<文/齊藤颯人>

【齊藤颯人】

上智大学出身の新卒フリーライター・サイト運営者。専攻の歴史系記事を中心に、スポーツ・旅・若手フリーランス論などの分野で執筆中。Twitter:@tojin_0115

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