「人間」ではなく「人数」として扱われる怖さ。中村倫也主演映画『人数の町』が示すもの

「人間」ではなく「人数」として扱われる怖さ。中村倫也主演映画『人数の町』が示すもの

?2020「人数の町」製作委員会

 9月4日より『人数の町』が公開されている。本作は押しも押されもせぬ人気俳優・中村倫也の主演作であり、“ディストピア”を描いたミステリーとして格別な面白さのある映画であった。その魅力を紹介していこう。

◆“平等”なディストピアのグロテスクさ

 借金取りに追われていた青年(中村倫也)は、黄色いツナギを着たヒゲ面の男(山中聡)に助けられ、ある“町”に招待される。その町の住人は簡単な労働と引き換えに衣食住が保証されていた。この奇妙な町を戸惑いつつ受け入れるも、不信感も拭えずにいた青年は、ある日新しい住人の女性(石橋静河)と出会う。彼女は行方不明になった妹を探しにやって来たと言うのだが……。

 「うだつのあがらない青年が奇妙な町に連れて来られる」という導入から、その場所の異常性をじわじわと、しかしはっきりと見せていくというのが基本的なプロットだ。とは言え、町は監獄というわけではなく、住人には行動の自由が与えられており、“紙”の受け渡しで同意を得ることで住人同士の性行為も認められていて、時おりバスに乗っての外出さえも許可されている。町の見た目は無機質ではあるが、清潔さも保たれているように見える。その暮らしを大いに楽しんでいる住人もいる。

 そうにも関わらず(だからこそ)、その場所はやはり不気味でグロテスクなものに感じられる。その理由の筆頭は、住人が管理されたコミュニティに耽溺しているという、ディストピアの世界観が築かれているからだろう。

 ディストピアはユートピア(理想郷)の対義語であり、SF作品では頻出する世界観だ。ディストピアは往々にして「表面上は効率的・理想的な社会とされている」が、「本質的には目的のために何かが犠牲にされていたり欺瞞に満ちている」というもの。「こうすれば幸せになれる」といった単一的な思想や価値観が強要されていたり、極端な格差ができていたり、多数のために少数が犠牲になることも多い。

 ディストピアの作品群は、過度の管理社会を描いた映画『未来世紀ブラジル』(1985)、感情を禁じられた世界を描いた映画『リベリオン』(2002)など、枚挙にいとまがない。青年が未知の場所に連れてこられる冒頭のシチュエーションから、マンガの『自殺島』を思い出す人もいるだろう。

 『人数の町』がそうしたディストピアとは一線を画すのは、住人たちが“平等”であること。住民たちは名前を名乗らずお互いに“フェロー”と呼び合い、全員が同じ簡単な労働を行っている。さらに家族を持つことは不平等の始まりであるとされ、個人での生活を強いられている。格差もなければ、何かを奪い合ったり争うこともない。

 しかし、平等、つまりみんなが“同じ”にされてしまうことを突き詰めれば、何になるのか?それは人間としてではなく、“人数”として扱われる、ということではないか?という答えに行き着くというのが、この『人数の町』のさらにグロテスクなことだ。それは、劇中で表示される“数字”を見れば、より現実に根ざした恐怖を覚えるものだった。

◆「人数にされる」という恐怖

 劇中では、たびたび暗転し、画面中央のテロップで「倒産 8235件/年」や「人工中絶 16万8015件/年」という具体的な数字が表示される。これらのおびただしい数字は現実の日本の状況に符号しており、かつ劇中の物語にリンクしている。はっきりと、現代社会への風刺が込められた作品でもあるのだ。

 例えば、住民たちが、誰に投票するのかもわからないまま投票所に連れてこられた時には「平均投票率 53.8%」「投票したことがない人 706万人」とも表示されたりもする。

 有無を言わさず投票させられる住民たちは、ここでは単なる「数」となっている。平等に扱われている彼ら彼女らは、もはや人間ではなく、穴埋めのための人数と化している、ということでもある。

 なお、住民がやらされている労働には、大人数で物事に対し機械的にとにかく“絶賛”をしたり、はたまた“ディスり”をする、ステマ(ステルスマーケティング)もある。これも現実にある、個人の意思や主張などを無視した、「人数に頼ったもの」の代表と言えるだろう。

 監督・脚本を務めた荒木伸二は、こうも語っている。「人間が人数に変わる時、私は恐怖を覚えます。小さい頃から多数決が苦手で、人が人の頭数を数える行為に何故かゾッとしました。怖いものがあれば映画が撮れる。ある著名な映画監督がそう言うのを聞いて私は人数に対する恐怖を紐解くところから映画創りを始めました」と。

 この言葉通り、この『人数の町』では「人間が人数に変わる」恐ろしさを描いている。その恐怖の片鱗は、確かに多数決という日常的な行為にも表れているのかもしれない。そして、ディストピアは現実の社会に根ざした、その先にあり得る“最悪”といえる例を極端な世界観で見せたものだ。劇中の町で起こる出来事の全てが絵空事ではなく、リアルな恐怖としても映るのは、そのためだろう。

◆中村倫也の真価を発揮する、ギャップのある役柄

 本作の主演を務めたのは、数多くの映画やドラマに出演し、近年では『アラジン』(2019)の吹き替えも務めた人気俳優の中村倫也。そのキャリアの中では、比較的感情表現が抑えめの、地味とも言ってしまえる役柄なのだが、だからこそ中村倫也の演技力と、内なる魅力が重要な意味を持っていた。

 主人公の青年は冒頭で「俺は最高でも、最低でも、特別でもなかった。町に向かう他の者たちと同様、意思が弱く、世の中に居場所がなかった」とナレーションで語っている通り、平凡(以下)の、主体性のない性格だ。その後も彼は何となく町のルールに従ったりしているだけ、特に何も考えていないような、空虚な存在にさえ見える。

 だが、中村倫也が演じることによって、そのキャラクターの内面には確かな信念、はたまた憤り、そして「どこかで感情を爆発させ暴走してしまうのではないか」という危うさをも同時に感じられる。加えて、彼が本来持っている優しそうな雰囲気、親しみやすさが、観客にもっとも近い存在として映り、主体性がないように見えたとしても、「彼ならきっと何かを良いことをやってくれる」という希望をも持てるようにもなっていたのだ。

 そんな中村倫也は、直近の主演作『水曜日が消えた』(2020)において、解離性同一性障害を患う1人の人間の、曜日ごとに異なる7人の人格を演じ分けてもいた。とは言え、劇中のほとんどで演じているのは愛らしくて親しみやすい1人の人格だけではあるのだが、だからこそ“別の人格が表れた”時の衝撃が際立つようになっていた。彼は「親しみやすさ」からの「ギャップのある」役柄で真価を発揮する、素晴らしい俳優なのだと『水曜日が消えた』と『人数の町』を並べて観て、改めて実感できた。

 他のキャストでは、初主演作『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017)で数多くの新人女優賞を受賞し、以降も続々と話題作に出演している石橋静河にも注目してほしい。彼女が演じる役柄は、中村倫也演じる青年と好対照の能動的な性格であり、だからこそ後半での彼らの邂逅がドラマティックになっていた。さらに、ViVi30周年記念専属モデルオーディションでグランプリを獲得したモデルの立花恵理が映画デビューをしており、美女としての圧倒的な存在感を見せている。

◆心から応援したくなるオリジナル企画

 本作は、コマーシャルやミュージックビデオを手掛けてきた映像作家の荒木伸二による、初長編映画だ。しかも、“第1回木下グループ新人監督賞”で準グランプリを受賞した、原作のないオリジナルストーリーとなっている。

 日本映画ではあまり目にしないディストピアというジャンル、現代社会の負の数字を扱った風刺など、モチーフとしては決して万人に受け入れられやすい題材ではないだろう。それでも、実力派の映像作家に長編映画初監督を任せたことはチャレンジングであるし、1つの映画作品としてしっかり成立させたという事実は、間違いなく称賛されるべきことだ。

 コロナ禍で日本の映画業界は窮地に陥っており、今後は「企画の通りやすい」「お金を集めやすい」「原作が有名な」映画がさらにメジャーなものとして扱われ、エッジの効いたフレッシュなオリジナル作品の企画は、さらに難しくなって来ているのではないか。その意味でも『人数の町』は貴重であり、心の底から応援したい作品だ。

 また、『人数の町』は特異な設定以上に、淡々とした語り口や、奇妙な状況に従属し続ける作劇が続くため、ある程度は好みが分れる映画でもあるだろう。しかし、前述したような現代社会の風刺、グロテスクな恐怖に着目すれば、さらに面白く観られるのは間違いない。そして、一筋縄ではいかない、深い余韻を残すラストシーンまで、見届けてほしい。

<文/ヒナタカ>

【ヒナタカ】

インディーズ映画や4DX上映やマンガの実写映画化作品などを応援している雑食系映画ライター。過去には“シネマズPLUS”で、現在は“ねとらぼ”や“CHINTAI”で映画記事を執筆。“カゲヒナタの映画レビューブログ”も運営中。『君の名は。』や『ハウルの動く城』などの解説記事が検索上位にあることが数少ない自慢。ブログ 「カゲヒナタの映画レビューブログ」 Twitter:@HinatakaJeF

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