竹中平蔵の「ベーシックインカム」はなにが問題なのか。議論のテーブルに付くことの危険性

竹中平蔵の「ベーシックインカム」はなにが問題なのか。議論のテーブルに付くことの危険性

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◆竹中平蔵のベーシックインカム論

 9月23日、経済学者でパソナグループ取締役会長の竹中平蔵が、民放の番組でベーシックインカムについての持論を展開した。彼は菅義偉新首相が真っ先に会談した人物の一人であり、また安倍内閣のときから政府の諮問会議に呼ばれ、国家戦略特区など様々な政策に関与してきた自民党政権のブレーンとして認められる人物である。従ってベーシックインカムについての彼の持論は、単なる私的な考えではなく、政府の政策に影響を与えうるものとして捉えられ、波紋を広げている。

 竹中が主張するベーシックインカム制度とは次のようなものである。人々は月々7万円の最低所得補償を無条件に受給できる。一方で、国民年金や生活保護制度は廃止される。また高額所得者は、後でその所得を何らかのかたちで返さねばならない。

 年収の中央値が20年前に比べて大きく減少している日本において、月々7万円の最低所得補償は大きな可処分所得の上昇になるかもしれない。一方で月々7万円では暮らしていけないため、人々は労働を強いられる。そのとき企業は、賃金を大きく引き下げることができる。こうして雇用条件が劣悪な底辺労働は、ベーシックインカム制度の導入と社会保障の廃止によって拡大していくが、今野晴貴によれば、それが竹中ベーシックインカム論の真の目的であるという。このような新自由主義的なベーシックインカム制度の提唱は、多くの人々に見透かされ、激しい批判を呼んだ。

◆ベーシックインカムの多様な形態

 ベーシックインカム、つまり最低所得補償を導入せよという提案は、竹中平蔵の専売特許ではない。国民民主党の玉木雄一郎代表は、次期衆院選の公約にベーシックインカムの試験的導入を盛り込むことを9月24日に発表した。れいわ新撰組の山本太郎代表は、デフレ脱却のための現金給付制度を提唱し続けている。

 海外では、ドイツやフィンランド、カナダなどで、ベーシックインカムの社会実験が行われている。その人の事情はどうであれ、生きるために最低限の所得補償をという発想は、社会的な平等を求める左派によって発想されたとしてもおかしくはない。

 ベーシックインカムのメリットのひとつは行政手続きの簡単さだが、経済状況の悪化に伴う一時的な救済措置として、定額給付金が推奨されるのも同じ理由である。たとえば今回のコロナ禍における10万円の給付金だが、野党が主張しているようにこれを複数回の継続給付とするなら、それは時限的なベーシックインカムであると解することもできる。

 ベーシックインカムはひとつの政策にすぎず、金額、財源、他の社会保障との兼ね合いなど、その運用形態によっては新自由主義にも社会主義にも転ぶ。左派でベーシックインカム政策を支持する者は、そのような理路で竹中平蔵への批判からベーシックインカムを切り離す。

 確かにベーシックインカムの制度も、消費税と同様、租税とその分配をめぐる包括的なシステムの一部にすぎず、やり方によっては再分配政策として機能することもできるだろう。だがベーシックインカムの議論は、たとえ左派的な問題意識がある場合であれ、新自由主義的な思考へと道を開く危険性を持っている。

◆なぜ今ベーシックインカムなのか?

 能力に応じて働き、必要に応じて取る共産主義社会では、そもそも最低所得補償は問題にならない。ベーシックインカムの議論は、もっぱら自由主義経済を前提としている。左からのベーシックインカム論の主眼は、自由主義経済の市場の中で生じた格差の是正にある。すなわちそれは、弱肉強食の競争社会の促進のためではなく、所得再分配の観点から、最低限の所得を公的に保障するための政策なのだ。

 しかし、所得再分配の方法は、ベーシックインカム以外にも存在する。われわれは将来実現すべき政策について、無限に思考したり議論したりすることはできない。子育て、教育や年金介護、日本の社会福祉はその多くが十分とはいえない。財源の問題もまったく無視するわけにはいかない。したがって、現実的に考えなければならないのは、ベーシックインカムの議論をするかしないかではなく、所得再分配の議論としてベーシックインカムの議論をするか、それともその他の社会福祉の話をするか、ということになる。

 つまり、竹中平蔵の、従来の社会保障を月7万のベーシックインカムで置き換えるという提案は論外としても、従来の社会保障+月7万のベーシックインカムあるいは従来の社会保障を置き換えるが月20万の最低所得が保障されるなどの提案をした場合でも、医療や高等教育の無償化、生活保護や年金制度の拡充などと比較しなければならないのだ。

 日本の社会保障制度は、世界でも最先端とはいえない。北欧や西欧の国々で実現されている高度な福祉ではなく、それらの国々ですらまだ実験段階に入ったばかりであるベーシックインカムを、なぜ今敢えて議論しなければいけないのか。

◆「改革」信仰の問題

 動機のひとつは、閉塞した日本の現状を打破するのは思い切った「改革」であるという強い信仰だろう。小選挙区や省庁再編、民営化や規制緩和など、80年代以降、日本で強く唱えられ実践されてきた政治「改革」や構造「改革」とよばれるものは、そのほとんどが新自由主義的「改革」であったことは今や明らかなのであるが、それでも日本社会における「改革」信仰は根強い。

 左派のベーシックインカム論は、こうした「改革」信仰がリベラル左派にも浸透している証左だろう。従来の社会福祉制度の拡充や、個別ニーズにこたえていくような地道な改善では飽き足らないのだ。また政府への警戒心から、安直に「小さな政府」を支持してしまう左派も多い。アナキズムとリバタリアニズムとネオリベラリズムは相互に往来が可能で、それらが共通の潮流となって、何かスカっとするような「改革」を求める光景は、ここ30年、よく観測されてきた。

◆「選択の自由」の問題

 従来型の社会福祉に比べてベーシックインカムが好まれる別の理由は、現金給付が極めて個人主義的なシステムだからであろう。健康に生きていさえすれば国民保険は無駄であり、投資でうまく立ち回れる者にとっては国民年金も無駄であり、子育てをするつもりがなければ教育の無償化なども必要ない。そうした者にとっては、細々とした社会保障よりも自分の裁量で自由に使える現金給付に一元化されたほうが、恩恵がある。ここでベーシックインカムは、単身者の若者向けの政策がないとする「世代間闘争」論と結びつく。ベーシックインカムは「すべての世代」に平等だというわけだ。

 しかし、健康な者と不健康な者、能力がある者と能力がない者で、同じ支援を与えるのは公正ではない。やはり必要なところに必要な支援を地道にしていくことがまず考えられるべきだろう。しかしここで、理想化された個人主義がまた問題になってくる。それは「選択の自由」の問題である。

 医療が必要な者に医療を、教育が必要な者に教育を。たとえば現在健康で医療が必要のない者でも、人間の力ではどうしようもない事情で大きな病気や怪我をしてしまうこともあるのだから、強制的に国民保険に加入してもらう。このような公的支援をさらに強めることはパターナリズムであるとして批判する声がある。公的支援は個別の問題に個別にこたえるのではなくて、とにかく現金を渡す。そのお金の使い道は人々の自由である。投資するのであれ、生活の向上に使うのであれ、娯楽に使って浪費するのであれ、何にお金を使うのか選択するのは人間の崇高な自由にかかっている、というのだ。

 もちろん生活保護を現物支給にせよというような、お金の使い道を自分では選ばせないようなかたちで人間の尊厳を奪うことについては反対すべきだ。しかし、公的支援によって与えてもらうのは出来れば少ないほうがよく、自分自身で選択できるならそのほうがよい、ということも一概にはいえない。

 その理由は、個人の自由に価値がないからではない。現金の給付によって示される「選択の自由」なるものは、むしろ資本による人間の訓育だからである。ベーシックインカム制度のもと、人々は月にまとまった金額を渡される。そのカネをどう使うのか。自分自身の「成長」のために使うのか。それともVtuberにスパチャして名前を呼んでもらうのか。人々には選択の自由がある。

 しかし、ここで人々が暗に迫られているのは、人々は正しいお金の使い方をしなければならないということだ。竹中平蔵バージョンのベーシックインカムならば、間違ったお金の使い方をした人間は野垂れ死ぬ。さらにその下にセーフティネットが張られている左派のベーシックインカム制度でも、たとえば生活保護のスティグマは現在よりも大きくなるだろう。なんでベーシックインカムを「有効活用」しなかったのか、となるからだ。

◆ベーシックインカムではなくベーシックサービス

 新自由主義的なベーシックインカム制度は、人間を資本のもとに従属させることについてはすでに織り込み済みだ。それだけでは生活してはいけない金額を元手に、人々が資本主義的に正しい行動をとる設計主義的な発想が分かりやすく現れている。つまり彼らにとってそれは民営化や規制緩和といった「改革」のひとつなのだ。

 一方、左からのベーシックインカム論で、こうした人々の行動変容の問題に解答できている例を私は知らない。むしろ個人主義に対する楽観的な意識があらわれている気がしている。コロナ禍のような特殊な場合には定額給付金は意味があるかもしれない。あるいは教育や医療、老後について、我々の貯金が一円もなくても何ら不安ないような社会保障をして、なお所得の再分配のためにベーシックインカムが構想されるということもあるだろう。

 この点で、立憲民主党のベーシックインカムではなくベーシックサービスという提案は、地に足がついた議論で納得がいく。閉塞した世の中で、大胆な「改革」を求める気持ちも確かに理解できる。だが、それが新自由主義「改革」であるならば、それは人々を解放するのではなく人々を奴隷化する疑似革命なのだ。現在の環境は、それに対する警戒感に欠けている。左派としての戦略的な見地からも、ベーシックインカム論を今すすめようとするのは悪手に違いない。

<文/藤崎剛人>

【藤崎剛人】

ふじさきまさと●非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82

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