罵詈雑言やヘイトスピーチを言い続けてしまう人の、「正しい自己治療」とは

罵詈雑言やヘイトスピーチを言い続けてしまう人の、「正しい自己治療」とは

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◆「当事者」になると、相手をそう簡単に批判することはできない

 インターネット配信でのニュースを見ているときに、ひどい言葉で誰かを批難している言葉に出会うことがあります。そのとき、突然後頭部をボカンと殴られたような気持ちになり、驚くとともに心身が痛み、言葉にならない悲鳴を上げていることに気づきます。やり場のない悲しみは、さらに心をかき乱し続けます。

 いろいろなことに当てはまることですが、「当事者」になると、相手をそう簡単に批判することはできません。なぜなら、いろんな葛藤や矛盾を抱えながら当事者がどんな状況でどんな思いで頑張っているか、その現場を身に染みて知ることで、相手の行動や言葉も共感しながら受け止めることができるからです。

 自分は医療従事者ですから、医療の現場の大変さはよくわかっています。だから、そう簡単に表面的なことを切り取って医療現場の批判はできません。表に出てこない、いろいろな背景がそこにあるはずだろう……と、結果だけではなく複雑なプロセスの全体性をこそ、想像し共感するからです。

 たとえば、自分が本を書く書き手にもまわったからこそ、本を書く側の大変さも身に染みてわかります。文章を紡ぐ立場の大変さがわかるからこそ、そう簡単に自分以外の誰かの本や文章の内容を批判できません。

 たとえば、自分で料理をして、掃除をして、子供の相手をして……と、一日中自分が家事に従事すると、普段子どもをみている配偶者や、家庭を守っている方の大変さが身に染みてわかります。そうした共感する力は、少しでも当事者の気持ちになってみないと分かりません。

 サービス業でも家事でも、芸能界でも医療界でも、すべてを当事者視点で見てみると、そう安易にクレームを言ったり、非難の言葉を投げかけたりすることはできません。相手の苦しみに共感しながら言葉を紡ぐことは、言葉を発する側にもそれなりのトレーニングを必要とします。

 当事者、生産者、発信者など、相手の立場に回って考えてみる習慣を失ってしまうと、相手の立場を理解することは難しいです。現代は、いろいろな物事が複雑化し分断化され専門化されすぎたせいで、こうしたズレや断層があらゆる場所で起きてしまっているのかもしれません。

◆健康な身心を保つために努力する人からは、悪口は出てこない

 ちなみに、自分は能の稽古をしています。稽古や習い事では、必ず「先生」という存在が自分の中に生まれます。わたしたちは、教えを受ける立場にいないと人に頭を下げることがなくなり、知らないうちに傲慢になります。

 だから、どんな人でも習い事やお稽古をすることで積極的に「初心者」となり、先生という存在を持つことは大事なことだと思っています。「自分はまだまだ未熟であり、何もわかっていない発展途上の存在だ」ということを、頭だけではなく身を持って知るためにも。未知のことにチャレンジし、初心者・初学者の立場となることで、人はおのずから謙虚になります。

 インターネット上で悪口を書き、罵詈雑言で非難を続ける人の文体や言葉のスタイルを注意して研究してみると、いかにして相手の急所を一撃でつくか、そうしたことに長けていることに感心すらします。

「自分が言われたくない」ことを、先に相手に言うことで防御しているのかもしれません。いじめられたくない人が、いじめる側にまわって場を支配するように。なぜここまで相手の急所を突く言葉を習得しているのかと冷静に考えてみると、そうした否定的な言葉を別の状況で自分自身が言われてしまったことがあるのではないでしょうか。

 言葉はそうした形で悪い循環の環をつくりながら、攻撃性を増していきます。暴力行為と同じで、悪口を言い続けている人は、個人的な正義感の遂行とともにスカッとした爽快な気になっていて、病みつきになっているのかもしれません。

 人をジャッジし裁く行為は、自分が相手よりも心理的に上の立場に立つことができるので、支配欲も満足させることになります。つまり、悪口という行為が下手な自己治療になってしまっていることが問題なのです。悪口に快感や快楽を感じているとしたら、それは間違った自己治療の行為として、自分ではもう止めることができません。

 ただ、健康な身心を保つために日々努力している人の口からは、悪口は出てこないはずです。なぜなら、そうした否定的な言葉が自分自身の身心に悪い影響しか与えないことを体感として知っているでしょうし、そもそもそうした言葉自体が沸きにくい心の状態になっていることもあるかもしれません。

◆ネット上で悪口や罵詈雑言を続ける人は、過去の被害者でもある

 悪口や罵詈雑言を言い続ける人は、どうやら自分のバランスを保つため、間違った自己治療的な行為で相手へと言葉の刃を向けているように思います。自分が言われたくない急所をよく知っているからこそ(自分が同じ言葉を発された被害者だからこそ)、相手の急所へと狙いを絞って迷わずかみつくことができるのです。

 そう考えると、加害者となる人は、たいてい過去の被害者でもあることが多く、裏表の構造になっています。ただ、そうした悪い因果の鎖は、誰かがどこかで断ち切る必要があります。

 相手への言葉の刃は、自分をも切り裂きます。なぜなら、相手への悪口やわき起こってくる負の感情に対して、自分の脳は他者に向けられているのか自分に向けられているのか判別できず混乱し、自分に対しても否定的な毒素として少しずつ自分を蝕んでいくからです。

 相手への悪口、汚くののしるような心ない言葉。情報化社会となったことで、個人レベルで抑えこまれていたものが世間に溢れるようになってしまいました。ただ、そこに込められた呪詛のような言葉に影響されないよう注意して冷静に観察してみると、いろいろと発見もあり対策も打てると思います。

◆傷つけ合い批判し合う社会よりも、助け合い支え合う社会を

 人と人とは、単純に関係性を持ちたいだけ、つながりたいだけなのに、急所にかみつきあい、傷つけあうことでしか関係性を作れない人もいるのかもしれません。関係性のつくり方が、どこかで間違って学習してしまったのかもしれません。その人の内側で停滞し腐敗しかけている水の流れを、どこかに放流して流そうとしているだけなのかもしれません。間違った自己治療のような行為として。

 人から発されるものは、体の叫びのようなものです。言葉にならないものは、叫びやうめき、声のようなものとして発されます。それは頭だけではなく体でも同じようなことが言えます。

 多くの人がキリキリと理由の分からない痛みを感じています。体はどこにも行き場がなく、キリキリと叫んでいます。その時の解毒方法が分からず、自己治療が分からず、体の歪みは複雑な経路をたどって、罵詈雑言やヘイトスピーチのような形で表に顔を出しているのかもしれません。

 だからこそ医療者としてやるべきことが多いことを感じてもいます。そして、芸術にも自己治療の正しいやり方として、大きな役割があると思っています。芸術も医療も、失われたものをもう一度取り戻しに行かないといけないのではないか、と。

 2020年9月に開催された山形ビエンナーレは、現役の医師が芸術監督を務める芸術祭として、わたしたちが固有の健康を回復する未来の養生所になることを目指しました。いのちの可能性を追求する自由な聖域として。

 コロナ禍の中、オンラインで行った芸術祭は2020年9月に一時的に幕を閉じましたが、まだアーカイブでいろいろな対談を見ることができます。そうした主催者の思いを感じながら、ぜひご覧になっていただきたいと思います。

 傷つけ合い批判し合う社会よりも、助け合い支え合う社会をこそ、わたしたちは真に望んでいると思っています。

【いのちを芯にした あたらしいせかい 第7回】

<文・写真/稲葉俊郎>

【稲葉俊郎】

いなばとしろう●1979年熊本生まれ。医師、医学博士、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014〜2020年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(山形ビエンナーレ2020 芸術監督 就任)。在宅医療、山岳医療にも従事。未来の医療と社会の創発のため、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。著書に、『いのちを呼びさますもの』、『いのちは のちの いのちへ ―新しい医療のかたち―』(ともにアノニマ・スタジオ)、『ころころするからだ』(春秋社)、『からだとこころの健康学』(NHK出版)など。公式サイト

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