カンボジアで夭折したカメラマン、沢田教一の真実。「常に平和を望み、戦場カメラマンと言われることを嫌っていた」

カンボジアで夭折したカメラマン、沢田教一の真実。「常に平和を望み、戦場カメラマンと言われることを嫌っていた」

沢田教一とサタさんの、初めての「二人展」

◆沢田教一の妻・サタさんとの初の「二人展」

 ベトナム戦争の戦場で日本人ジャーナリストが撮った一枚の写真。数人の子どもを抱えて必死の形相で川を渡りきろうとする母親。「安全への逃避」と名づけられたこの写真で、ピューリッツァー賞を受賞した戦場ジャーナリスト・沢田教一(1936〜1970年)が、カンボジアの首都・プノンペンで銃撃により34歳で倒れてから今年でちょうど50年。

 それを節目として、沢田の生まれ故郷である青森県で、妻・サタさん(95歳)との「二人展」が10月20〜30日に行われた。会場となったのはサタさんの生まれ故郷であり、現在住んでいる弘前市の弘前オランド・ギャラリースペース。

 沢田が亡くなった10月28日には、会場でサタさんのトークショーも行われた。弘前市では新型コロナウイルスのクラスターが発生し、市から月末までの自粛要請が出ていた。

 そのため、トークショーは予定していた30分から15分に短縮された。遠方からのファンや地元メディアなど、たくさんの人々が集まり会場は大盛況で、熱気が生まれていた。その中には、シリアで拘束されていたジャーナリストの安田純平さんの姿もあった。

 展示会の名前は「二人展」。サタさんにとっては、初めての沢田教一との共同開催となる。会場には沢田が撮影した戦場以外の写真や、沢田が撮ったサタさん、サタさんが撮った沢田の写真など、35点ほどが飾られていた。サタさんが描いた、シャガールの絵の模写や静物画、陶芸作品の展示も行われた。

◆「沢田は、平和が訪れることを常に望んでいたんです」

 トークショーでは、沢田との思い出をサタさんが語った。

「結婚したときは、教一さんはカメラを持ってなかったんです。私がクビから下げて持っていた黒いカメラを時々使っていました」

 二人は、よく国内の撮影旅行に出かけたという。

「ベトナムに行くっていったときはずいぶん反対したんですけど、止められませんでした。私も行きました。ご飯とかもすぐに慣れましたし、快適でした。ニョクマムという調味料があるんですけど、凄く臭いんですね。それにもすぐに慣れました」

 一時期は香港に住み、その後ふたりでベトナムに渡ったという。料理の好き嫌いは二人ともなかったようだ。

「教一さんは物知りだったので、私のほうが年上でしたけど、色んなことを教えてくれました。教一さんから教わったことは多いです。だから私は、教一さんが何か言ったら、イエッサ!と答えるだけでした」

 サタさんは11歳年上だが、沢田のことを「若じい」と呼び、敬意を払っていた。何か言われたら、「イエッサ!」といって従ったという。

「沢田は34歳のままだけど、私だけおばあちゃんになっちゃって」

 ポツリとこぼし、こう締めくくった。

「沢田は、『戦場カメラマン』と言われることを嫌がっていました。平和が訪れることを常に望んでいたんです」

 この展示会の沢田の写真に、戦場の写真が一枚もないことが理解できた発言だった。

◆平和を望んだカメラマンが今の世界を見ていたら……

 15分のトークショーはあっという間に終わった。その後、質問コーナーが設けられた。

「先ほど、サタさんは、私だけがおばあちゃんになってとおっしゃいましたが、沢田教一さんがもし生きていたら、どんなおじいちゃんになっていたと思いますか」

 という質問に、サタさんは「たぶん、若い頃と同じように私は教一さんの言ったことに『イエッサ!』と言っていたでしょう」と答えた。

 そして、質問コーナーの最後に笑顔を交えてこう語った。

「沢田が今の世界を見ていたとしたら、あの頃よりも平和で喜んでいるかもしれないですね」

 沢田とサタさんの平和に対する思いを、強く実感できた写真展だった。

<文/神田桂一 写真/坂本慎平>

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