エセ保守論客の「礼儀作法本」に潜む「しきたりファシズム」の醜悪さ

エセ保守論客の「礼儀作法本」に潜む「しきたりファシズム」の醜悪さ

AFP=時事  PHOTO/YOSHIKAZU TSUNO

◆竹田恒泰氏の「礼儀作法本」

 こんにちは。ドリーです。保守の作品を一冊づつ取り上げ、その身勝手な歴史認識を紹介する企画。今年も、冬が近づき、終わりが迫ってきましたが、皆さんは如何お過ごしですか。

 本企画では第1回と第2回で、それぞれ百田尚樹、杉田水脈両氏の歴史観を紹介してきましたが、第三回目となる今回は保守の中でも一際有名な竹田恒泰氏を取り上げたいと思います。

 もはや彼についての説明は不要でしょう。虎ノ門ニュースの論客であり、旧皇族の宮家に生まれ、その華麗な経歴を武器に、天皇の歴史に関する優れた本を執筆した人物です。

 いわゆる保守の人ですが、元皇族という肩書きもあって、その伝統文化に対する思い入れは、保守の中でも随一。その浮世離れした本気度を凝縮した本が、この『日本の礼儀作法〜宮家のおしえ〜』です。今日はこの本を皆さんに御紹介したいと思います。

 まずは簡単に内容を説明しましょう。

 現代の日本人が日本の古き良き伝統的な礼儀を忘れてしまっている。その事を憂いた元皇族の竹田恒泰が若干上から目線で、日本の古き良き礼儀作法を教えとく……的な内容になっています。

 しかし内容は、かなりシュールで、現実離れしていて、皆さんも驚かれることだと思います。

◆竹田氏の提唱する日本人として正しい食事作法とは

 先ず竹田恒泰は、冒頭、食べ物に対する敬意の気持ちを日本人は失ったと嘆き、食べ物への感謝を表すためには、必ず「食前感謝の儀」が必要だと主張されます。で、食べ物への感謝を心から表す実践的な礼儀作法が竹田氏いわく、以下のようなものだそうです。

 まず、1、静座(心を落ち着けて座る) 

 ふむふむ。

 2、一拝(一度、礼よりもやや深く頭を下げる動作をする)

 3、一拍手(一度、拍手を打つ)

 ここまでは良い。しかし次が、問題です。

 4、歌奏上(食前感謝の和歌を詠む)

 

 −−−−−−−−−う、歌!!!!!!??

 竹田恒泰氏いわく日本古来の和歌を歌わなければ、食への感謝の気持ちは表れないんだそうな。なんかめんどくせぇよとここで匙を投げる人も居るかもしれません。が、待ってください。これだけには留まらないのです。食べ終えると、再び、今度は「食後感謝の儀」を実施するのだと言う。それがこれです。

 1、端座(正しく座る)

 2、一拝(一度、礼よりもやや深く頭を下げる動作をする)

 3、一拍手(一度、拍手を打つ)

 4、歌奏上(食後感謝の和歌を詠む) 

 また歌かよ……と思ってしまうが、毎食一人で竹田氏がコレを実施してるんだとしたら頭を下げるしかありません。  

 さらにさらに。これだけには留まりません。竹田恒泰氏は、日本人の基本的なマナーとして「お辞儀の礼儀作法」も必要だと主張する。竹田恒泰氏いわく「一般礼式では、礼は上半身を傾ける角度によって三つの種類に分けられる」らしい。

 角度!!? 

 竹田氏いわく「15度の礼を「会釈」、30度の礼を「敬礼」、45度の礼を「最敬礼」だと言う(p73より)。

 小学4年の算数の授業の様に、いちいち頭下げる時に、竹田氏は分度器で測っているのかな。と読んでいて腹立ってくるのですが、ここまでは、まだ笑って済ませるレベルです。だが後半になって、私はこの本に、ある強烈な不快感を覚えたのです。

◆「美しい日本語」を標榜する竹田氏の日本語

 本の後半、竹田恒泰氏はこう主張をする。

“日本語の正しい知識を持ち、少々の訓練をすれば、誰でも「美しい日本語」の使い手になれるのである“(P92)

 日本語の美しい言葉遣いを忘れてしまった日本人は、日本人の一人として恥ずかしい。そこで、竹田恒泰氏が、美しい日本語の作法を提唱しておられます。その筆頭として提唱されるのが「お〜あそばす」型だそうです。「〜あそばす」を使うと敬語が一段と美しくなると主張しております。

 「お目覚めあそばす」「(口を)おすすぎあそばす)」「お風呂にお入りあそばす」

 しかし、竹田氏いわく、こうだ。

“あまりに雅なので、それを自然に使いこなせるようになるには、それなりの練習が必要なのかもしれない“(P134)

 なにを黒帯の達人みたいに言うとんねん(笑)。

 私はここで、竹田恒泰の言葉遣いが、「美しさ」とはかけ離れている点が気になりました。ここで皆さんに竹田恒泰氏の「美しい日本語」をご紹介しましょう。竹田恒泰氏が普段からいかに美しい言葉を使っているか? 皆さんも竹田氏の美しい日本語の「言葉遣い」に酔いしれてください。

“なんで天皇に指示しとんじゃ、このクソバカ野郎。何を偉そうに。中略、河野洋平のバカちんがですね、あんな河野談話出したわけじゃないですか“(出典:竹田恒泰チャンネル「韓国議長が侮辱した天皇とは、日本人が二千年にわたり大切に守り通した、まさに日本そのものです」より)

 さらに竹田氏は、こんな恐ろしいことも言っておられます。

“歴史学者が歩いてたら取りあえず後ろから蹴り入れといていいぐらい“(2019/2/14(木) 有本香×竹田恒泰×居島一平【虎ノ門ニュース】)

 「クソバカ野郎」「後ろから蹴り入れろ」……。こんな粗野な言葉遣いをする人間に、他人様に美しい日本語を教える資格が、果たしてあるのでしょうか。竹田氏ほど、美しい日本語の美から最もかけ離れた人間なのではないでだろうか……と、筆者は思ってしまいました。

 さて、実は、竹田氏のここまでは独善的な「美しいマナー」の押しつけが披露されるだけなのだが、この本の最大の恐怖ポイントは、竹田氏の後半の主張です。

◆「伝統」の名の下に「教育勅語」を押し付ける竹田氏

 竹田氏は、美しい「伝統」と称して、教育勅語を礼賛し始めます。日本人の生き方の教科書であると竹田氏は教育勅語を礼賛し、その内容を絶賛。竹田氏いわく教育勅語は“日本人としての美しい生き方であると「教育勅語」は教えている。これこそが日本人の「生き方の作法」“(P252)ーーなのだか。

 こうして竹田氏は「教育勅語」を伝統の中にしれっと持ち込み、それを「美しい日本の文化」として「通過」させようとするのですが、これは非常に巧妙な罠であり、騙されてはいけません。まず竹田氏が礼賛する「教育勅語」には、大きな陥穽があります。

 まず教育勅語の排除の確認がされたのは、1948年の国会です。その理由が国会の議決にある通り「この勅諭の根本理念が主権在君並びに神話的国家観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損い」と謳われてある様に(1948年6月19日。衆議院本会議 教育勅語の何が問題か P67)そもそも教育勅語は、民主主義で生きる我々の基本的人権感覚を相容れないから排除されたのです。竹田氏の主張にはその点が全く欠け落ちています。

 何故、民主主義と教育勅語は相容れないのか。文中の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」が基本的人権を損なう解釈をされかねない文章であることもさることながら、もっと根本的な話をすれば、理由はシンプル。

 何故なら、民主主義とは、特別な地位を優遇される支配者階級から人民自身が、権力を奪い取る歴史の帰結だからです。民主主義の歴史は、自国民を投獄し、又は、拘禁し、辱め、殺す等の「生殺与奪の権利」を、人民が王族や貴族から奪い取ったことから由来するからです。

 そもそも貴族から「王権」を奪い取ったものが民主主義なのだから、貴族から命令される筋合いがないのです。 

 このあたりを理解しておかないと、竹田氏の様に「日本の伝統だから」という理由で、教育勅語が礼賛する者が、学校などで、採用してしまえば、民主主義の理念を破壊する一歩手前の状態に陥りかねません。何故なら教育勅語は民主主義の理念「法と良心の分離の原則」を脅かす危険性を秘めている文章だからです。

 分かり易く説明しましょう。例えば、自分の信念を、法律よりも上に置いて、国家権力による強制より「オレの信念」を上に置くことは悪いことでしょうか? 例えば、ベトナム戦争で、アメリカの若者たちは、良心的徴兵拒否をして、戦争に行くことを拒否しました。が、日本では戦前、法律に反した者は、道徳的にも悪いと非難されました。

天皇が道徳の担い手であり、法律の担い手でもあったからです。つまり戦争に国民を動員する法律に従わねければ、道徳的に悪いのだ、という観念そのものが、何万人もの無抵抗な国民を生み、戦争に反対できない空気を作り、何百万人もの死者を生んだ戦争に引きずり込んだ最大の原因なのです。

 教育勅語は、300万人以上の人が死んだ歴史を振りければ、絶対に、採用してはいけないものなのです。

 ここらへんのことは渡辺洋三先生の本『法とは何か』(岩波新書)に詳しく書かれてあるから(教育勅語」に関するコレは超名著なので)是非気になった方は読んでください。

◆エセ保守たちの「しきたりファシズム」の狙い

 で、竹田氏は、この歪んだ教育勅語のイデオロギーを「伝統」というレトリックで採用しようとします。ですが、私は伝統の美しさよりも、天皇への敬意を「行動や、外面で表したりする」ことで、天皇への忠誠度を外から推し量ろうとする自称愛国者を名乗るヤバい人間に「内心に踏む込める特権を得る」機会を与えてしまった事の「気持ち悪さ」しか、この本から感じられませんでした。

 彼らは他人の内心が「外に現れる瞬間」を捉え、内面に侵入しようとウズウズしているのです。

 しかもこの、「しきたりファシズム」は、それが「伝統」という衣をかぶっているだけに、合理的な反論を許さない点が恐ろしいことです。

 つまり、「しきたり」が増えてゆくということは、裏を返して言えば、各人がこうした反論能力を一つ一つ失っていく過程なのです。

 私たちは、こうした「しきたりファシズム」の行使に、断固として抗議していかなければいけません。伝統という名の元に自称愛国者に「内心に踏み入る」特権を与えてはいけないのです。

 しかし、日本人の美しいマナーとか唱えている人間が、慰安婦像に鼻くそを付けるってのはどうなんですかね?

 

 日本人のマナーを教えを説く前に、まずは自分が、人権意識や、倫理感という人間として基礎的なマナーをお学びに「あそばれて」みてはどうでしょうか。

◆ ドリーの保守系珍書・奇書セレクション 第3回

<文/ドリー>

【ドリー】

本名・秋田俊太郎。1990年、岡山県生まれ。ブログ「埋没地蔵の館」において、ビジネス書から文芸作品まで独自の視点から書評を展開中。同ブログを経て、amazonに投稿した『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』レビューが話題となる。著書に、村上春樹長編13作品を独自解釈で評論した『村上春樹いじり』(三五館)がある。ツイッター:@0106syuntaro

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