「左翼」としてのマラドーナ。常に弱者の側に立った天才フットボールプレイヤー

「左翼」としてのマラドーナ。常に弱者の側に立った天才フットボールプレイヤー

photo by Cadaverexquisito via Wikimedia Commons (CC BY-SA 3.0)

◆左翼を公言していたマラドーナ

 マラドーナが左翼であることを公言していたことはよく知られている。

 そして2000年代に南米で続々と誕生していた左派政権に積極的にコミットしていた。キューバのカストロをマラドーナは第二の父と慕っていた。反米左派政権のボリビアのモラレス前大統領やベネズエラの社会主義政権をつくったウーゴ・チャベスや、その後継のマドゥロ政権の支持も公言していた。

「私はチャベス(大統領)を信じる。私に対してフィデル(カストロ議長)がすること、チャベスがすること、すべて最高だ。米国からくるものすべてが嫌いだし、米国が心底嫌いだ」(マラドーナ)

 ある時は「戦争犯罪者」キャプションのついたブッシュ元大統領の写真がプリントされたTシャツを着てチャベスとともに現れたこともある。ブッシュ政権によるイラク戦争が続いていた時代だ。

 パレスチナにも共感をよせて、イスラエル非難も繰り返していた。パレスチナ大統領でPLO議長のアッバースとの会談の際には「私は心のパレスチナ人だ」ともいっている。

 マラドーナの左翼思想といっているが、それは彼が敬愛するチェ・ゲバラと同じく、マルクス主義を直接信奉していたというのとは違うだろう。ゲバラがマルクスなどほとんど読んでいないままに革命運動に参加した。おそらく最後までそれほど深くマルクス主義を理解はしていなかっただろう。ただ単に彼は、南米の現状のなかで、抑圧される弱者の側についたというだけだ。

◆マラドーナが生まれ育った南米の現実

 19世紀から南米はアメリカの裏庭とされてきた。ヨーロッパの列強の植民地主義的なパワーゲームに介入しないアメリカの外交ポリシーはモンロー主義と言われたが、中南米は例外だった。アメリカはその歴史のなかで延々と中南米の政治に介入しつづけた。特に小国は事実上のアメリカの政治的にも経済的にも植民地に等しい扱いを受けてきた。そして、ひとたびアメリカに逆らうとしたら、様々な圧力や公然の軍事力でねじ伏せられるというのが常でもあった。いわゆる「棍棒外交」である。これは現在でも続いている。

 未来が見えず、経済的に立ち行かないラテンアメリカの貧困層は、自然とよりそうに弱者の思想を語りだし、そして団結しようとした。それは別にマルクス主義がなくともそうなっただろうし、実際に南米の左翼にその影響は比較的少ない。しかし弱者の団結としての左翼思想は南米の左派の政治潮流を力強く形成している。

 アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの貧民街、ビジャ・フィオリートでマラドーナは生まれ育った。水道もなく、2つの部屋に家族10人が住むような生活だったという。この極貧の生活をマラドーナは振り返っていう。「この時の感情は、今でも何も変わってはいない」と。

 もちろん貧困がそのままキャラクターや人生を規定してしまうわけでもなかろう。しかしマラドーナは勝者のメンタリティを維持することができない。いつも危険なほうへ進んでいく。むしろ自分自身が弱い存在であることを誇るかのごとくふるまう。マラドーナはいつでも故郷の貧民街のビジャ・フィオリートにアイデンティティを置いていた。そしてエスタブリッシュメントをあざ笑い、彼がよく言うところの「ビジネスとキャビアとシャンパンの」サッカー界ではなく、もっとアンダーグラウンドを拠点とした。

 そして彼はいつも弱い側にまわった。そこで初めて自身が光輝くということを計算していた。それは彼のキャリアを見ていけばよくわかる。

◆選手キャリアからもわかるマラドーナの思想

 マラドーナが最初にプロになったのは、アルゼンチンのブエノスアイレスの貧困層や労働者階級にファンの基盤があるAAアルヘンティノス・ジュニオールズだった。工場労働者だった父をはじめとして、ビジャ・フィオリートで人気があったアルヘンティノスは、もともとはマルティレス・ディ・チカゴという名だった。これはアメリカで八時間労働を求めて戦って殺された社会主義者の名前からとられている。

 その後にアルゼンチンリーグでトップクラスの実績と財政基盤をもつ、同じブエノスアイレスの名門リーベル・ブレートから破格のオファーを受けた。しかし、当時財政難で破産寸前なボカ・ジュニオールスを選んで移籍する。ボカは貧しいイタリア移民が集まったやはり港町の貧困地区だったことが知られている。ボカはマラドーナの移籍金を捻出することが出来なかったのだが、マラドーナは自ら新聞にボカ移籍の意向をリークし、ボカの熱狂的なファンによる圧力を利用した。今でもアルゼンチン屈指の人気を誇るボカのファンはマラドーナを崇拝し続けている。

 だがボカがマラドーナの高額な年俸を払い続けることはできなかった。ボカの借金を肩代わりしてくれるという条件で、スペインの名門FCバルセロナに移籍する。もうこの頃は、マラドーナの名声は南米にとどまることはなかった。

◆バルセロナを率いていた世界的名将との出会い

 当時のバルセロナの指揮官は世界的な名将で、自ら左翼であると公言して、それを誇ってやまなかった、同じアルゼンチン人のセサル・ルイス・メノッティだ。マラドーナは、1978年のワールドカップに17歳を理由にメンバーから漏れて、当時の代表監督だったメノッティを一時恨んだこともあった。しかし、そのあとは自ら自分はメノッティ派だといってリスペクトを捧げた。そしてメノッティはアルゼンチンを初めてワールドカップ優勝に導いた。

 当時のアルゼンチンは軍事政権で数万人と呼ばれる人が政府の秘密警察によって人知れず殺されたといわれる暗黒の時代でもあった。メノッティは代表チームは政権のために戦うのではなく、民衆のために戦うと言い、優勝してからも軍事独裁政権のビデラ大統領との握手を拒否している。

 メノッティはアルゼンチンのサッカーを、暴力的ともいえるラフプレーと個人技のチームから、洗練されて組織化されたパスサッカーに変貌させた立役者で、近年まで現役の指導者もつとめた。

 そしてサッカーでの成功と重ね合わせるようにメノッティは社会主義者として高らかに言う。

「組織化された左派のいない国に未来はない。そうでなければ他に誰が、尊厳や正義のため、敬意や貧しい者との連帯のために立ち上がるだろうか」

 そのメノッティとマラドーナの師弟が在籍したバルセロナは、当時でも世界的強豪だったが、同時にスベイン国内ではマイノリティであるカタルーニャ民族運動の象徴的存在であることはよく知られている。

 バルセロナのホームゲームでは前半17分14秒にコールが巻き起こる。1714年にスペインに敗北し併合されたことにちなんだ、カタルーニャ独立運動のコールである。日本の天皇杯にあたるコパ・デル・レイの試合では、スペイン国家にブーイングが渦巻くこともある。昨年にはこのカタルーニャ独立の賛否を問う住民投票に発した政変があり、この混乱の中でもFCバルセロナは独立支持にまわっている。カタルーニャ語が禁止されてきた時代には、スタジアムだけが公然と自分達の言葉が話すことができる場所だったというエピソードも有名だ。マラドーナはまたしても弱者の側にいた。

 そこで様々な問題をまきおこして移籍したのが、マラドーナの栄光の歴史でもっとも象徴的なクラブとなったSSCナポリへの移籍だ。

◆被差別者としてのナポリ人の代弁者だったマラドーナ

 イタリアには「南北問題」がある。経済的な格差と文化や風習の違いもあるイタリア南部は、北部の工業地帯からすれば歴史的にも同じイタリアとみなせないという根強い偏見がイタリアには続いている。南部の人間はイタリア人とは違う人種であるという差別も普通に存在する。

 南部のチームが北部のチームの遠征にアウェイのスタジアムにつくと、こんな横断幕で出迎えられる。「イタリアへようこそ」。おまえたちはイタリア人ではないということだ。

 ナポリの南北問題とマラドーナの関係は、北村暁夫『ナポリのマラドーナ イタリアにおける「南」とは何か』(山川出版社)に非常に詳しいので、ここではざっとしか触れない。興味ある方はそちらをご覧になってほしい。

 マラドーナは、このイタリアにおける差別/被差別の南北の関係を、もっとも意識的に引き受け、そしてそれを利用した。決して強豪とはいえないナポリをクラブ史上初のセリエA優勝と二度目の優勝をもらたらしたのは、間違いなくマラドーナだ。しかしマラドーナが今でもナポリで聖人のように崇拝されるのはそれだけだからではない。

「ナポリ人に対するひどい人種差別があるって、いまさら言わなきゃいけないのは情けないよね。ナポリはイタリアに決まっているのに」

◆ワールドカップ、イタリア対アルゼンチン戦での困惑

 彼は被差別者としてのナポリの人たちの代弁者だった。1990年のワールドカップイタリア大会で、マラドーナのアルゼンチンはイタリアと対戦することになった。この試合はマラドーナにとって一世一代の殉教者マラドーナを体現する場所になった。彼は彼を愛するナポリの人たちとも戦わなければならなかったからだ。

 ナポリのサポーターは横断幕を出した。「今日だけはおとなしくしててくれ、ディエゴ・マラドーナ」「ナポリはきみを愛する。しかしイタリアはわれわれの祖国だ」

 マラドーナは複雑だった。黒人選手にはブーイングをし続け、南部の人間はそれと同じ扱いで差別用語を浴びせる。しかし、このワールドカップの舞台だけは別だった。ナポリのひとたちが、こんな時だけイタリア人扱いされるが、普段はイタリアから除外され、不公平な人種差別にあっていることをマラドーナは悲しく見守るしかなかった。そしてその姿を見て、ナポリのひとたちはさらに支持を深めた。

 ナポリの本拠地のスタディオ・サン・パオロを、マラドーナの死去にともなって、「ディエゴ・マラドーナ・スタジアム」と改称しようという話が出ているらしい。37年前にナポリのファンが鉄柵に体を縛りつけたスタジアムだ。マラドーナが移籍するまでここを離れないという抗議運動だ。ハンガーストライキをする人物まであらわれたという。

◆メッシとマラドーナ、2人の天才を分けるもの

 現代サッカーの天才、リオネル・メッシ(現FCバルセロナ所属)とマラドーナとは何が違うか、という話になることがある。今から30年以上前のサッカーと現代の最新サッカーや選手の育成システムなど条件が違う部分はあれど、この二人が同じアルゼンチン人の選手というだけではなく、史上最高のサッカープレイヤーの候補にあがるのは間違いないからだ。

 おそらく実績からすれば、メッシのほうがすでにマラドーナを上回っているだろう。唯一足りないのはワールドカップ優勝の経験がないくらいだ。それでもメッシはあらゆる栄冠を手に入れて、おそらくこれ以上の選手は私が生きているうちには、もう見ることができないと思わせるほどだ。

 この二人の違いは何かといえば、メッシが少年期からバルセロナの育成組織に所属してエリート街道を突き進んだのに対して、マラドーナの人生の道程は波乱であり、どちらかというと陰影が激しいということだ。例えばマラドーナは薬物などのトラブルで合計で3年近くもサッカー選手としての活動を禁じられている。

 しかしもっと大きな違いがある。それはディエゴ・マラドーナは必ず弱者の側についたことだ。

◆「生まれてからこのかた、俺はずっとそうだった」

 弱者のポジションにいるときがマラドーナの本領だった。マラドーナの五人抜きと神の手ゴールという善悪の両義性を顕現した1986年のメキシコ大会の時、アルゼンチン国内ではその時の代表チームは最弱とまで謗られていた。けれど、マラドーナはそのような窮地に追い込まれた時にこそ輝き始めるのだ。

 神の手ゴールでイングランド相手にマラドーナは勝利を盗んだ。その数分後に誰しも文句をつけることができない悪漢の神業でイングランドの屈強な選手をかいくぐってゴールを決める。誰しもこの時、まだ戦火が記憶にあるイギリスとアルゼンチンのフォークランド紛争の敗戦を思い起こしていた。彼は義賊のようだった。

「生まれてからこのかた俺はずっとそうだった」とマラドーナは言う。

 後年、彼は様々な悪事に手を染めるが、その人気は決して衰えることがなかった。彼はいつも弱者の側についたからだ。

 そういう意味で彼を生粋のポピュリストということもできる。彼が悪事にいくら手を染めていたとしても、何の失敗をしようとも、それは崇拝者にとってはどうでもいいことだ。「彼は私たちの側にいる」と弱者はマラドーナをいつも感じている。それだけで十分なのだ。

 マラドーナが左翼だというとき、私は左翼であることはどんなことかを思い起こす。それは思想ではない。左翼であるということは弱者の側につくことだ。

 波乱に満ちた、彼の決して長いとはいえない生涯をたどると、マラドーナは、また今一度教えてくれる。

参考図書

『マラドーナ自伝』(幻冬舎 2002)

『ナポリのマラドーナ イタリアにおける「南」とは何か』(山川出版社)(北村暁夫/山川出版社 2005)

『アナキストサッカーマニュアル―スタジアムに歓声を、革命にサッカーを 』(ガブリエル・クーン/現代企画室 2012)

<文/清義明>

【清義明】

せいよしあき●フリーライター。「サッカー批評」「フットボール批評」などに寄稿し、近年は社会問題などについての論評が多い。近著『サッカーと愛国』(イーストプレス)でミズノスポーツライター賞、サッカー本大賞をそれぞれ受賞。

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