追悼、デヴィッド・グレーバー。誰もが考えていることを膨らませる力。<酒井隆史×矢部史郎>

追悼、デヴィッド・グレーバー。誰もが考えていることを膨らませる力。<酒井隆史×矢部史郎>

David Graeber(Photo by Manuel Vazquez/Contour by Getty Images)

 世界的に著名な人類学者であり、活動家でもあったデヴィッド・グレーバーが昨年急逝した。グレーバーの功績とは?日本ではいかに読まれたのか?「紀伊国屋じんぶん大賞2021」第1位も獲得した、グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)の翻訳者である酒井隆史さん(大阪府立大教授)に、矢部史郎さんがお話を伺う。

(構成:福田慶太)

◆「友人」「仲間」としてのグレーバー

矢部 『負債論』(以文社)や『ブルシット・ジョブ』(岩波書店)などで多くの読者を獲得した、人類学者のデビッド・グレーバーが(昨年の)9月2日に亡くなった。これからグレーバーがもっと有意義な議論を展開していくことが期待されていたときなのに、いまだに信じられないほどで。

 酒井さんはグレーバーの翻訳者にして友人でもあって、とくに最近、グレーバーの著作の翻訳を酒井さんが精力的に手がけられている。そのグレーバーについて、酒井さんにお話を伺いたいという趣旨で。

酒井 そんなに距離が近いというわけじゃなくて、矢部くんが彼と近いというのであれば、それ以上に距離はあった。ほとんど直接のやりとりはなかったし。そもそも矢部くんって、日本語話者でグレーバーと対談した数少ないひとりでしょう!(対談は「対話/資本主義づくりをやめる」『資本主義後の世界のために』以文社に所収)

 今読むと、この対談ではものすごく重要なことが語られている。でも、グレーバーというひとはなんか「友人」「仲間」という感じをさせたよね。というか、かれは、われわれにとってまぎれもなく「仲間」であり「友人」であり「同志」だった。

矢部 はい、対談している(笑)。ものすごく重要、といわれると、やっぱりうれしいし、確かにすごくエキサイティングな対談だった。ただ、今回は僕の話はちょっと脇において、酒井さんのお話を展開してほしい、ということで。酒井さんは『ブルシット・ジョブ』以前にも『負債論』や『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(以文社)など、グレーバーの著作の翻訳を精力的に手がけられている。

酒井 もともとサブさん(アメリカ在住のアナキスト、高祖岩三郎氏)経由でグレーバーに対しては非常にシンパシーを持って読んでいたのが、翻訳を通じて深入りすることになったんだけど、これはほんとうにいい経験だった。

 研究者として、ある意味での「喜び」というのがあるんだけど、たとえば『通天閣 新・日本資本主義発達史』(青土社)のように一次資料を扱う、という喜びもある。グレーバーの翻訳にも「喜び」があって、ちょっと強くいえばグレーバーの書くその一文一文に発見があった。説明するのが難しいけど、2010年代、日本においてグレーバーに共鳴しながら読んでいたのはほんとうに自分だけじゃないか、とすらおもっていた。当然独りよがりだけど、でも、あまりにもまわりから反応がないからそうおもってしまうというのもあって。『負債論』なんて読んでてくらくらしたし、『官僚制のユートピア』の「空飛ぶ自動車」の論文を最初に読んだときも、ものすごくびっくりした。

 でもそれを言っても反応は薄いし、そもそも『負債論』、へとへとになりながら翻訳を終わって出したでしょ、で、待ってましたみたいな反応がどーんと来るとおもってたのよ。すごい本だし、そもそもあんなに世界的にはインパクトを与えたんだし。(経済学者の)トマ・ピケティは日本でもすごかったでしょう。だったら、その数分の一ぐらいの反応はあるはずだ、と。

 ところが、シーン、おや、みたいな。その後数か月の反応といえば、わずかに以前からグレーバーをとりあげてくれていた『人民新聞』に紹介文を書かせてもらったぐらい。2010年代は、日本の人文社会科学もものすごく内閉化・保守化・右傾化が進んだというか、その前の20年、内閉化・保守化・右傾化が加速しているという実感はあったんで、さもありなんとはおもったけど、さすがにもう少しはあるとおもったんだよね。

 でも、サッカーの本田圭佑氏が反応してくれたでしょう。これはかれ自身の立ち位置がどうあれ、すごくうれしかったし、いっぽうで日本の状況をよく示しているとおもった。

 「資本主義がテクノロジーの進歩を阻害している」なんてなかなかおもわないでしょう。左派だって資本主義の長所として、「テクノロジーを飛躍させる」とおもいがちだから。というか、とくにマルクス派は資本主義の「革命性」なるものを愛してるところがあるしね。

 ところが、グレーバーは、「資本主義は想像力の飛躍を封じ込める。しかもそれはネオリベラリズムの段階に至ってからそうなったのではなく、資本主義がもともと持つ性格に想像力やイノベーションに対し阻害的に作用する性格がある」とする。もちろん、こういったことは以前から一部の左派がいってきたことではある。たとえばフェミニストやエコロジスト。(思想家ジル・ドゥルーズと思想家・精神科医のフェリックス・ガタリの連合である)ドゥルーズ=ガタリも似たようなことをいっている。けれども、その含意をここまで明確にしたのはやはりグレーバーだとおもう。

◆地味な研究が持つ潜勢力

酒井 グレーバーの『負債論』が当たっているかなりの部分は地味で、名前も聞いたことのない研究者たちの名があがる。(社会学者の)アラン・カイエもいっているように、地味な研究をおもしろく語る力がすごい。『負債論』のあとがきではこう書いたんだけど。

 ちょっと引用すると、「訳者自身も翻訳の過程でおもい知らされたのは、人文的知の潜勢力である。おびただしい諸領域のそれぞれにおける、他分野にはあまり知られることのない重大な研究、近年におけるブレイクスルー、あるいは研究者や知識人たちの名の遍歴を通して、グレーバーは、それら諸分野の地道な知的発展の存在を知らしめると同時に、そうした知的成果のはらむ潜勢力を独自の仕方で、ときにおどろくべきかたちでひきだしてみせているともいえる。それは、わたしたちに学問というもののいとなみの意味や悦びをも、強く感じさせてくれる」。

 地味な研究、地味な領域で起こっている発見や刷新をとんでもない世界認識の転覆につなげていくというのは、人文的知での「幸せ」のあり方だろうし、そして人文的知の世界に携わるひとを励ましているよう。ある意味でいうなら、「国家のようにみる」Seeing like a state、これは(政治学者・人類学者の)ジェームズ・C・スコットの言い回しだけど、人文知のポテンシャルを国家のような見方で捉えないようにする、知のなかに潜む反乱的ポテンシャル、蜂起的ポテンシャルを解放するというか。

 

◆「おなじことを考えてる?」誰でも考えることの含意を膨らます

矢部 僕なんかがグレーバーに接して「友人」とか「仲間」という感情を覚えてしまうのは、「おまえは俺か」という感覚を持たせてしまうところにもその理由がある。「おなじことを考えてる?」って。

酒井 自分の例になるけど、2004年に出した『暴力の哲学』(河出書房新社)とグレーバーの理論との意図しない共通性があって。これは僕がグレーバーを知る前のものだし、運動のなかでアナキズムが優勢になっている、というのもほとんど自覚がなかったころ。

 ところが、この本を文庫化(河出文庫)するというので読み直すと、発想が、自分の場合は自分の経験と、(イタリアでの「68年」の運動にルーツを持つ、反権威主義的で自律性を重視する左派の運動である)アウトノミア系の理論家たちや、ドゥルーズ=ガタリとかその辺から来てるんだけど、発想がグレーバーそのままだというところもあったから、正直驚いた。グレーバーと自分がおなじことを考えていて、しかもその内容にこんなにパンチ力があったのかと。

 まあ、グレーバーふくめ、1968年以降の諸運動の流れのなかで、それ以降の世代に、アウトノミアがマルキシズムとアナキズムの媒介者になって影響を与えていたということでもあるだろうけど。ただ、グレーバーの場合、その含意の広げ方がぜんぜんちがう。僕らも考えていたけれども、それほど自信があったわけでもないし、その含意の大きさをあまりよく理解していなかったような部分がたくさんある。それはアウトノミアをふくめ、マルキシズムではあまり問題にされないようなところ。それを独特のしかたで、問題にするんだよね。もちろん、それは運動の作風としての力点のちがいなんだなということもだんだんわかってきたけど。

 自分はしかし、2004年の時点でたぶん、そうした諸要素をアナキズムと認識していたわけではなかった。自覚としては異端派マルキシズム。アナキズムは当時、日本の運動圏にいるとあまり印象はよくなかったしね。もちろん、水田ふうさんのようなひとの存在は知っていたけど、みえる範囲でいえば、そのマチズモに辟易してたから。矢部くんたちはアナキズム、って当時からいってたよね?

矢部 自分たちは意識的にアナキスト、って呼ぶようにはしていたかな。でも、実際には「アウトノミア」というほうが多かった。理論的にはアウトノミアを踏襲する。

◆「小文字のアナキズム」とノンセクト・ラディカル

酒井 そのあたりの厳密な区別はどうでもよかった。日本でグレーバーのいう「小文字のアナキズム」になにが近いかというと、アナキズムというよりは(無党派の左派)ノンセクト・ラディカルだよね。これはなにかの「主義」とか世界認識というより組織原理であって、むしろ多様な「主義」や思想性を、作風として統合していくような考えだよね。

 具体的には、各人の思想体系、倫理的原則ふくめ、その多種多様なありようを尊重する、出入り自由、「倫理主義」「現場主義」をできるかぎり排して運動にヒエラルキーを持ち込まないようにする、などなど。

 自分としては、アナキズムであろうとマルキシズムであろうとどうでもいいといえばどうでもいい。でもマルキシズムのなかに可能性があると昔も今もおもっているし、マルキシズムも大きな意味でいえばアナキズムの系統のなかにあるといえないことはないとおもう。

 もちろん、マルキシズムをドイツ的な国家主義の系譜のなかに立てて、フランス的なアナキズムとは別個のものとする、というひともいるだろうけど、グレーバーからすれば、アナキズムとは基本的に「人類普遍の原理」であって、いたるところに見出されるものなんだから、ヨーロッパにルーツを求めて、というのは間違っているというだろう。

 さっきの話とつなげると、これは要するに、自分たちが価値があるとおもってやっていて、重大だともおもっているんだけど、周りからはそれほどいわれているわけではない、だから自分たちも自信が十分にあるわけでもない、だけど重大だろうからやっていたことを、「それは重大なんだ」といってくれて、しかも人類史のスケールでそのことを語った。それはとても大きかったよね。そういう意味での連帯感、共鳴というのは自分にとって重大なものがある。

 2000年代後半からの、グレーバーを読んでからのもの、それは『通天閣』もそうなんだけど、ほかにもたとえば(詩人・評論家の)谷川雁について書いたものなど、グレーバーの影響がすごく強い。あとは奴隷制、奴隷と自由の問題について考えるときにはいつもグレーバーを意識して、それを消化しながらものを考える。

◆「罵らない」政治

酒井 グレーバーがいっていることに「罵らない」政治というのがある。グレーバーは1980年代のアメリカのアナキズムの運動に関心があって行ってみたら、そしたら、セクト争いというか、一人セクトばかりというか、ものすごく罵り合っているのに直面した。「罵る」アナキズムだというんだけど、これではやっていけないし、罵らないやり方を考える、ということ。

 罵ることについては知の世界もおなじで「邪悪なセクト主義」があるとグレーバーはいっているよね。ひとの文章のなかに、悪のナショナリズムを探り当てたり、悪のコロニアリズムを見出して、それをえぐり、えぐり出していく、それがラディカルなんだ、というようなもの。「邪悪なセクト主義」というのはサブさんの訳だけども。

矢部 (爆笑)これは日本でもそう。そういうのが大好きだから。不幸な歴史を今でも繰り返している。

酒井 今でもそうだよね。ただ「罵り」は相変わらずあるというか、ネットのおかげでもっと蔓延しちゃったけど、本格的な論争はなくなった。それが、日本の風景になっちゃった。おもしろいわけがないよね。

矢部 確かに。ノンセクトの運動なんかのなにがウケるかというと、身もふたもないことをいって笑ってしまうのがやはり強いというか、力になる。だからあれが悪い、これが間違いだというのばかりじゃなくて、そもそも身もふたもない話をしちゃうという。

◆「予示的政治」とだめ連

酒井 で、グレーバーのいう「予示的政治」の話になるけど、これは当時の(ネオリベラリズムによるグローバリゼーションに抗する世界的な動きである)反グローバリズム、オルタグローバリゼーションの運動のなかで、先住民、クエーカー、フェミニズム、アナキズムの運動に由来する、アナキズム的組織原理が優位になっていくにつれ、重要になった発想。

 「We are image of the future(われわれは未来のイメージである)」なんてスローガンが、それをよくあらわしている。それはいま「ここがあたかも自由であるかのように、あたかもここが未来であるかのように振る舞う」ということなんだけど、それがグレーバーにとっては大きな経験だった。

 矢部くんとの対談でも、マダガスカルのフィールドワークの話をしてるじゃない?世界中にはさまざまな自律空間があるって話。そこでみたものがなにを意味しているのか、「あたかも自由であるかのように振る舞う」という風にグレーバーは表現するよね。

 グレーバーは、最初はわからなかったんだけど、やがてマダガスカルのひとたちが、国家がほとんど崩壊しているのに国家があるかのようなふりをしていることに気づく。でも、国家があるようなふりをしないと、ほんとうに国家がやってきてしまい、自律空間が維持できない。国家をはねのけるために、すでに国家があるようなふりをする。やることなんかないのに、毎日役所に通ったりして。実際には、マダガスカルでは、評議会というと大げさだけど、みんなの話し合いのようなもので意思決定をしている。

 これはわれわれにはすっと入ってきた、「あたかも自由であるかのように」振る舞うカルチャーは濃密にあったものね。あと、関連してこれはいっておかなきゃいけないなとおもうのは、(社会で「だめ」とされる有様を否定するのではなく、それを「だめ」とする状況を問うオルタナティブな「生き方模索集団」)だめ連の「いまここでフラワー」なんだよね。

矢部 (笑)

酒井 (だめ連の)神長(恒一)くんの名言ね、「いまここでフラワー」。そういう発想って68年以降の日本でもあって、神長くんが初めてとはいわないけど、ここまで明確化してるっていうのが大事。

矢部 「毎日フェスティバル」だから(笑)

酒井 「毎日フェスティバル」、「いまここでフラワー」、とかね。グレーバーのいう「予示的政治」って、要するに「いまここでフラワー」ってことか、と。すぐわかった。なるほどとおもって、そういう同時代性だよね。

矢部 マダガスカルを経由して、グレーバーとだめ連の共通性が浮上する。

【プロフィール】

酒井隆史(さかい・たかし)

大阪府立大学教授。社会思想。『通天閣 新・日本資本主義発達史』で第34回サントリー学芸賞受賞。著書に『自由論 現在性の系譜学(完全版)』『暴力の哲学』、訳書にD・グレーバー『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』、『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(共訳)、『負債論 貨幣と暴力の5000年』(共訳)、マイク・デイヴィス『スラムの惑星』(共訳)

矢部史郎(やぶ・しろう)

愛知県春日井市在住。文筆・社会批評・現代思想。著書に『夢みる名古屋』、『3・12の思想』、『原子力都市』、『愛と暴力の現代思想』(共著)などがある。

【福田慶太】

フリーの編集・ライター。編集した書籍に『夢みる名古屋』(現代書館)、『乙女たちが愛した抒情画家 蕗谷虹児』(新評論)、『α崩壊 現代アートはいかに原爆の記憶を表現しうるか』(現代書館)、『原子力都市』(以文社)などがある。

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