空き巣に入った家で虐待される少女と出会った男は…児童虐待をリアルに描く『ひとくず』

空き巣に入った家で虐待される少女と出会った男は…児童虐待をリアルに描く『ひとくず』

?YUDAI UENISHI

◆空き巣に入った先で虐待される少女を発見

 空き巣に入った家にはかつての自分がいた――。

 電気もガスも止められたゴミだらけの部屋の中に外から南京錠を掛けられて閉じ込められている少女・鞠(小南希良梨)。母親の凛(古川藍)は恋人の加藤博(税所篤彦)と出掛けたまま帰ってこない。空腹に耐えかねた鞠は冷蔵庫にあった空っぽのマーガリンの容器を食べようとして唇を切ってしまう。

 そこへ窃盗の常習犯金田(上西雄大)がガラス窓を破って侵入してくる。手に根性焼きのある鞠の姿を目にし、かつて母親の恋人から虐待を受けていた記憶がフラッシュバックする金田。その後、鞠を助けようとして加藤を殺してしまった金田は死体を土の中に埋め事件を隠蔽する。そして、同じく酷い親に育てられたという凛と鞠の3人で家庭を築こうとするが……。

 映画『ひとくず』では、上西雄大監督自身が、主人公の金田を演じている。映画製作のきっかけは、児童相談所に勤務する医師から虐待の実態を聞き、ショックを受けたこと。「自分にできることは何か」と考え、その日の深夜2時からわずか10時間で一気に脚本を書きあげた。

 時折ニュースから流れてくる耳を覆いたくなるような虐待のニュース。「本当にそんな酷いことをする親がいるのか」と疑わしい気持ちになるが、この映画を見るとなぜそういう親が生まれてしまうのかがリアルに理解できる。

 コロナ禍にあって経済的に困窮する人々が着実に増えている。そして貧困のしわ寄せが最初に来てしまうのは力を持たない子どもたちだ。この映画に登場する鞠やかつての金田のような子どもたちが、現在進行形で増え続けているのではないか。そのようなことにまで思いを馳せざるを得ない程、見る者に訴えかける切実な何かのある秀作だ。

◆虐待の現実をリアルに描く

 児童相談所も学校の教師も警察も存在する。にもかかわらず、なぜ児童虐待がなくならないのか?その理由は「民事不介入」、つまり家庭内の事情に外部の人間が立ち入れないという原則があるからだということがこの映画を見るとよくわかる。

 学校に来ない鞠を心配して自宅を訪れた担任教師の満矢(水村美咲)は、鞠の母親の凜と鞠の恋人・加藤と対峙する。しかし、止められた電気とガスを支払った満矢は二人に「余計なことをするな、人の家庭に口出しするな」と追い返されてしまう。家を出ようと鞠に呼び掛ける満矢。しかし、鞠は首を横に振る。

 もう一つ、満矢が児童相談所の職員と共に自宅を訪れるシーンがあるが、児童相談所の職員が加藤の虐待について尋ねても凜は否定し、そして鞠もその事実を口にしようとはしない。鞠は母親を裏切り、捨てることができないのだ。

 これらのシーンについて、上西監督は「子どもの虐待をなくそうとしている方々の行動が子どもたちに直接届いていないという実態がある」と表現しているが、その通りと言わざるを得ないであろう。

 また、金田が通うクラブのホステス、智子(西川莉子)が鞠を銭湯に入れ、胸にアイロンをあてられた傷跡を発見するシーンがある。その傷は、母親の凜の恋人・加藤が作ったものだったが、鞠は智子に誰に付けられたものかを問われても何も答えない。加藤を告発すれば、また更に虐待を受けることがわかっているからだ。

 筆者も以前、本サイトで児童虐待にあった児童たちをサポートするNPO法人を取材したことがあるが、子どもは親と離れたくないばかりに虐待を隠すことはもちろん、本人は虐待を受けていたことすら自覚がなく、自分がバカだから、自分の出来が悪いから叩かれたと思い込んでいるケースもあると聞いた。

 この映画はなぜそのような状態に子どもたちが陥ってしまうのかを克明に描いている。受け取れる情報量も少なく、大人の暴力に対しては抗拒不能。目の前にある世界がすべてであり、母親から離れたら自分が生きていけないと思い込んでいる子どもたち。外の世界に対してSOSを発することなどほぼ不可能なのだ。

◆親の代から続く負の連鎖

 また、児童虐待は、親自身も自分の親から愛されたことがなくどのようにして子どもに接して良いか分からないことから発生するケースも多いという。凜もまた、背中に虐待の傷跡を持っていたのだった。

 児童虐待の負のループを描いた作品に『つみびと』(山田詠美著 中央公論新社)という小説がある。この作品の主人公も二児の子どもを遺棄して死なせてしまうが、やはり母親からネグレクトに遭っていた。そして主人公の母親もその母親の恋人から性的虐待を受けていたのだ。連綿と続く負のループの中で、止むに止まれぬ何かに背中を押されて手を下してしまった者だけが殺人者の烙印を押されてしまう現実を描く。誰が本当の「殺人者」で「くず」なのか。小説もこの映画もアンチテーゼを投げかける。

 本作では、虐待を受けていた鞠に昔の自分を重ね合わせた金田が虐待をしていた加藤に対して手を下してしまう。劇中では窃盗の常習犯であり傍若無人な金田の気質が鞠を真っ直ぐに救っている。しかし、裏を返せば金田が常識人であったなら、ここまで捨て身で母子に接することはできなかったであろう。上西監督は「刑務所と一般社会を行ったり来たりするような破綻した人間であれば自分の感情のままに鞠を救うのではないか」と考え金田の人物像を構築したという。その企みは見事に成功していると言えよう。

◆児童虐待に映る日本のジェンダーギャップ

 もう一つこの映画が映し出す重要な事柄は、常に母親だけが子どもの保護者としての責任を押し付けられ、父親は咎められないということである。そして父親の不始末すらも母親に押し付けられているという酷い現実だ。

 金田の母親の佳代(徳竹未夏)は恋人に頼って生きていたが、借金の首が回らなくなり、親子が住んでいたアパートと借金の担保に母親を九州の”売春宿”に売ってしまう。一方、鞠の母親の凛の元にも、恋人の加藤がいなくなったことから、加藤に仕事を依頼していたヤクザと思しき寺田(木下ほうか)たちが現れる。加藤が稼ぐはずだった300万円を支払えと怒鳴り、凛の太ももにステッキを突き立てる寺田。そして、鞠の見ている前で性行為に応じろと迫る。

 そこへ金田と警察が現われ、すんでのところで母子の危機が去るが、父親は簡単に子どもを棄てることができても、母親は子どもから逃れられないという現実が映し出される。寺田と警察が去った後「お前それでも母親なのか、男にやらせるしか能がないバカ女だな」「鞠が辛いのはお前みたいなバカ女のせいだ。お前はそれでも母親か」と怒鳴る金田。しかし、父親が子どもを残して失踪しても、ここまで叱責されることはないだろう。それどころか、一旦、父親が母子の前を去ってしまえば表向きには子どもがいたことすら分からないのが日本の社会なのである。

 金田の叱責に対して「私は最低な母親だよ」と言い、「施設にでも行けばいい。あんたがいるとやりたいこともできない」と涙を浮かべながら鞠へ怒鳴る。そして「どうすることもできない。男の傍でないと生きていけない」「私も酷い親に育てられた。どうやって子どもに愛情を注いだらいいのかわからない」と慟哭する。このシーンはこうした言葉を履かざるを得ない母親を作り出した社会への抗議と捉えるべきであろう。生活費を自分で稼ぐことができない上に、子どもに対する接し方もわからない。虐待する母親もまた、弱者なのだ。そして、その弱者を作り出したのは何なのか、考える必要があろう。

 映画に登場する女性たちは皆、男性たちに従順である。「男がいないと生きていけない」という凜、情事の後「キーさん」と客の金田に店のツケを取り立てるホステスの智子、そして金田の回想シーンで、恋人にミンクのコートを買って喜んでもらう金田の母親の佳代。もちろん、コートのお返しのプレゼントはセックスだ。

 劇中での彼女たちは一様に「だらしのない女」と映ってしまうかもしれない。しかし、これが貧困層の物語ではなく、一般社会の物語だったらどうだろうか。「あなたがいないと生きていけない」という妻や恋人、お小遣いを与えれば体を提供してくれる愛人、そして男からのプレゼントの対価を体で払う若い女性たち。順番に並べると、かつて理想の女性像とされてきた従順なVERY妻、古くは援助交際、今で言うところのパパ活に励む女性、そして港区女子。正直言ってよくある話、というかどれもが日本女性の「生きる術」として推奨されてきた男性に尽くす生き方なのだ。

 映画の中に描かれる世界と一般社会は地続きである。親の世代の教育格差が受け継がれることが貧困、そしてそれに連なる児童虐待の原因であると言われているが、一方で母子家庭における児童虐待はかつて一般社会に存在した「従順な女性」を良しとする風潮の残骸であると言えないだろうか。

 庇護を前提とする生き方はスポンサー男性の懐が潤沢であるうちは良いのかもしれない。しかし、一度歯車が狂えば悲劇を起こす。劇中に登場する女性たちが、どんなに男性に嫌われようとも「男性に頼る」「女性は男性の下」という発想のない環境で育っていたのなら、悲劇が繰り返されることはなかったかもしれない。児童虐待は「健全な一般社会」の古典的な風潮が無意識的に生んでいたこともこの作品から学ぶべきであろう。

◆社会で子どもを育てるために

 タバコの根性焼きの残る手の甲、アイロンをあてられた傷の残る胸元。鞠に残された傷は思わず目を背けたくなるものであるが、一方で救いのあるエピソードも展開される。鞠と凜との三人で親になると決意した金田は、金田の置かれている事情を慮り窃盗を見逃した刑事から仕事を紹介される。

 紹介された運送会社を訪れると、社長の坂東(田中要次)は、「自分にも人に言えないマエ(前科)がある」と言い、金田を雇い入れようと温かい言葉を投げかける。また、「自分には学がないから医者を探してほしい」と鞠に治療を受けさせるよう金田から所持金を託された担任の満矢はその任務を果たす。この映画には、鞠の未来をより良いものにするための第三者の存在が描かれているのだ。

 そして、児童虐待を防止する第三者としてのスタンスを、身をもって示したのが上西監督と言えるだろう。この映画を製作するにあたって上西監督を突き動かしたのは、児童相談所に勤務する楠部医師の「児童虐待に取って一番効果的なことは周りが関心を持つこと。社会が関心を持つことが最大の抑止になる」という言葉だったという。「アイロンを押し付けられた傷跡のある子どもたち」が「たくさんいる」という話に突き動かされたのだそうだ。

 惨い話を聞くと目を背けてしまいたくなるのが人間の性であるが、過酷な現実を物語に昇華し、その中に家族の愛や人の良心を描き出したのは上西監督のクリエイターとしての情熱と力量の賜物であろう。また、物語は、児童虐待の過酷さを描くだけでなく、金田自身が救われるという希望のあるラストが待っている。そのストーリー運びは巧みであり、実に見事である。

 本作はミラノ国際映画祭ではベストフィルム賞を、ロンドン国際映画祭では外国語部門でグランプリ、その他ニース、マドリードなど各国で最優秀監督賞や主演男優賞、助演女優賞を受賞している。海外の映画祭では上映が終わった瞬間、スタンディングオベーションがあった。子どもを思う気持ちは世界各国では変わらないという証左であるが、今度はこの作品が生まれた日本で惜しみないエールを送るべきではないか。

 我が国の昨年度の合計特殊出生率は1.36であり、前年度の1.42から更に低下した。出生率低下の要因は「慢性的な不況で大人が生きていくのがやっとなのに子どもを作れない」という意識があるからだという。子どもを社会で育てる姿勢がなければこの国は立ち行かないのは明白なのだ。

 社会で子どもを育てることの姿勢を示してくれたのが上西監督、そしてこの作品の趣旨に賛同したキャスト、スタッフであるならば、観客もそれに追随すべきではないか。虐待のニュースを耳にしても、子どもたちが晒されている過酷な現実に対して具体的に何をすれば良いかは、皆わからないだろう。しかし、その実態を知ることはできる。そして知ることが子どもの命を救うことにつながるのだ。エンドロールが流れた時、この映画はその最初の一歩になり得ると確信した。読者の皆さんにも劇場に足を運んで、一歩踏み出すことをお勧めしたい。

<文/熊野雅恵>

【熊野雅恵】

くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。

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