コロナ禍の中、私たちは「ナショナリズム」とどう対峙すべきか? 『ナショナリズムを陶冶する ドイツから日本への問い』著者、藤田直央さんに聞く

コロナ禍の中、私たちは「ナショナリズム」とどう対峙すべきか? 『ナショナリズムを陶冶する ドイツから日本への問い』著者、藤田直央さんに聞く

『ナショナリズムを陶冶する ドイツから日本への問い』(朝日選書)書影

◆「陶冶」に込めた思い

―― 藤田さんの新著のタイトルは非常に独創的です。ナショナリズムを「克服する」とかナショナリズムを「乗り越える」といった表現はよく目にしますが、ナショナリズムを「陶冶(とうや)する」という言い回しは一般的ではありません。どういう思いからこのタイトルをつけたのですか。

藤田直央氏(以下、藤田) そこは私もこだわったところです。日本ではしばしば、「ナショナリズムは危険なものだ」と主張する人たちと「ナショナリズムは崇高なものだ」と主張する人たちがぶつかります。しかし、私はこうした議論は不毛だと思うのです。

 ナショナリズムの定義は学者によって様々ですが、共通しているのは「国民がまとまろうとする気持ちや動き」という点です。近代になると、世界は各国の主権が及ぶ領土によってモザイク状に区切られ、紛争は激しさを増します。各国で「国民」とされた人々は、自分たちがまとまる理由を探った。それがナショナリズムの原点だと思います。

 近現代に広がったそうした「国民国家」において、それぞれの国民が「自分たちは一体どういう国を目指すのか」と問いかけるのは自然なことで、ナショナリズムを危険視することには疑問を覚えます。その一方で、ナショナリズムはときに暴走し、「非国民」への抑圧や他国への侵略を生んだ歴史もあります。それゆえ、ナショナリズムを崇高なものと捉えることも問題です。

 重要なのは、国民がナショナリズムを我が事として捉えることです。ナショナリズムを抑え込むといった後ろ向きな態度ではなく、自分たち自身のあり方を主体的に作り上げるという前向きな姿勢が必要です。この本の取材でお話をうかがった東京大学名誉教授の姜尚中さんは、近代国家には暴走を食い止めるための「安全装置」は内蔵されていないと指摘しています。ナショナリズムをうまく導くことができるかどうかは、最後は国民次第なのです。

 私が「陶冶する」という表現を使ったのは、こうした理由からです。もともと陶冶とは、陶工や鋳物師が作品を丹精を込めて仕上げていく様のことを言います。そこから転じ、「人格を陶冶する」など、才能や能力を練り上げていく際にも使われます。国民自身が主人公として政治家の言動を吟味し、ナショナリズムを主体的に形成していく。それが私たちに求められていることではないか。「陶冶」という言葉にはこのような思いを込めています。

◆ドイツの抱える葛藤

―― 藤田さんはドイツを取材し、日本の現状と比較しています。戦後のドイツはナショナリズムをうまく陶冶してきた印象がありますが、最近では排外主義が強まっています。

藤田 昨年ドイツ各地を歩いた取材を通してわかったのは、ドイツにはドイツなりの葛藤があるということです。最大の問題は、戦前の社会が生んだナチスを、戦後の社会がどう総括するかです。

 ドイツでは第一次世界大戦に敗れて帝政が終わり、ワイマール共和制が誕生します。ワイマール憲法は当時世界で最も民主的な憲法と言われていました。しかし、世界恐慌で政治が機能不全に陥った中からヒトラーが台頭し、独裁にこぎつけ、そしてついにはホロコーストに手を染めたのです。

 当時の市民でホロコーストを直接目撃した人はまれだったにしても、強制収容所で何が行われているかに薄々気づいていた人はいましたし、ユダヤ人差別に加担していた人もいました。そのため、ナチスをどう総括するかは、戦後のドイツ社会にとって非常に深刻な問題でした。

 これをさらに複雑にしたのが冷戦下の東西分断です。戦後の西ドイツでは世代交代を経て、ナチス時代を検証し、学校でもしっかり教えるようになりました。これに対して、ソ連の影響下で建国した東ドイツでは、ナチスは共産主義によって打倒されたという歴史観だったので、ナチス時代を自己批判するという姿勢はありませんでした。そのため1990年のドイツ再統一は、ナチスに対する歴史観がずれたまま行われたのです。

 ドイツでは近年、排外主義を唱える政党AfD(ドイツのための選択肢)が議席を伸ばしましたが、勢力拡大が目立つのは東側の地域です。東ドイツでナチスの総括がきちんと行われてこなかったことが一因ではないでしょうか。

 また、西側に吸収された東側の人たちになお残る疎外感も無視できません。東の人たちは同じ仕事をしていても西の人たちより給料が低く、昇進が遅く、今でも差別されているという意識にとらわれがちです。移民や難民が大量に流入してくるとそうした不満が強まり、排外的な動きにつながるのです。

 つまりドイツでは今も、ナショナリズムをいかに陶冶するかという挑戦が続いています。それは、国家の再統一後も残る東西のずれや、移民や難民による社会の多様化のもとで、ナチズムのような暴走を繰り返さないという戦後の合意を保ち続けるという意味においてなのです。

◆日本はいかにしてナショナリズムを陶冶できるのか

―― 藤田さんは本書で、戦後のドイツは基本法(憲法)に掲げられた「人間の尊厳」によって国をまとめてきたと記しています。しかし、「人間の尊厳」は普遍的な概念で、ドイツ人にもフランス人にも当てはまります。ドイツをまとめるには、ドイツ人にしか当てはまらない要素が必要です。「人間の尊厳」で国をまとめるのは難しいのではないですか。

藤田 戦後のドイツは、「人間の尊厳」を見失った社会がナチスのホロコーストを招いたという反省から、社会を再構築する大前提に「人間の尊厳」を据えました。普遍的な概念が歴史的背景からその国の理念として重んじられることは、日本の戦後憲法にも見られます。私は今回の取材で、「人間の尊厳」を重んじる国として今もまとまろうとするドイツを確認できました。

―― 日本がナショナリズムを陶冶するにはどうすればよいですか。

藤田 ナショナリズムを正面から問い直すことが重要です。私たちは好むと好まざるとにかかわらず、国民国家の中で生きています。そうである以上、ナショナリズムから逃れることはできません。日本は民主主義国家なのですから、ナショナリズムをタブー視せず、徹底的に議論することが大切だと思います。

 特に新型コロナウイルスに直面している今、それを乗り切るために「私たちはどういう社会を目指すべきか」が問われています。これは日本という国を見つめ直す機会になるはずです。私の本が、読者の皆さんがナショナリズムを避けることも崇めることもなく、我が事として考えるきっかけになれば幸いです。

(1月21日、聞き手・構成 中村友哉)

藤田直央(ふじた・なおたか)●1972年京都府生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞社入社後、千葉支局、山形支局、政治部、米ハーバード大学国際問題研究所、那覇総局、外交・防衛担当キャップなどを経て、2019年から編集委員。著書に『エスカレーション 北朝鮮 VS. 安保理 四半世紀の攻防』(岩波書店)、新著として『ナショナリズムを陶冶する ドイツから日本への問い』(朝日選書)。

<記事提供/月刊日本2020年3月号>

【月刊日本】

げっかんにっぽん●Twitter ID=@GekkanNippon。「日本の自立と再生を目指す、闘う言論誌」を標榜する保守系オピニオン誌。「左右」という偏狭な枠組みに囚われない硬派な論調とスタンスで知られる。

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