「カルト2世問題」か、それとも「宗教2世問題」か。<NHK特集から見える第三者にとっての課題(2)>

「カルト2世問題」か、それとも「宗教2世問題」か。<NHK特集から見える第三者にとっての課題(2)>

とある新宗教団体の「洗礼」を受ける子供の信者(撮影・藤倉善郎)

 前回の記事で、NHK・ハートネットTVの「宗教2世」特集に関連して、「カルト」の2世問題の実情と、それを「宗教全般」の「親子問題」に一般化することの問題点を説明した。逆に今回は、「カルト2世」ではなく「宗教2世」という単語や概念を用いるメリットについて考えたい。

◆「宗教2世」という概念のメリット

 鈴木氏はハートネットTVについての記事の中で、2世自身が情報発信をするウェブサイト「宗教2世ホットライン」の「基本設定」への違和感を表明している。

●NHK、「宗教2世」番組を放送。カルト2世問題を“宗教”に一般化する危うさ

 私は、NHKという第三者による報道姿勢への批判に限った意見としては、鈴木氏の理屈に賛同する。しかし同時に、当事者が発信する内容については、もっと丁寧に咀嚼する必要を感じる。

 なぜ「宗教2世ホットライン」は「カルト2世」ではなく「宗教2世」という言葉や概念を使うのか。そこにどのような問題意識や目的意識があるのか。それを意識すると、総合的な議論を目指そうとする第三者の論理とは別のメリットも見えてくる。

 前回の記事で「変な信仰を持つ親に育てられてしまった子供」という一般化への危惧に触れた。同じ理屈で、「カルト2世」という言葉もまた、結局は2世に対する「変な団体で育てられてしまった子供」というイメージを生む。もちろん差別の要因にもなるが、当事者が具体的な差別を体験しなくても、当事者自身がこうしたイメージを意識して外界での生活、自分の生き方、自分の能力に苦手意識を抱かざるを得なくなる可能性もある。

 鈴木氏が違和感を表明している「宗教2世ホットライン」の記述には、〈A「カルト」とは否定的なイメージがつきまとう修飾語であり、2世の存在そのものに対して差別的ニュアンスを与えかねないため〉と書かれている。これについて鈴木氏は上記の記事で、「カルト」を差別だとするカルト側の主張と比較し、「カルト」は差別語ではないと主張している。

 これにも私は賛同するが、ここで注意が必要なのは、「カルト」という言葉や概念自体が差別であるか否かではなく、実際に当事者に与える影響がどうであるのか、だ。

 「宗教2世ホットライン」の文面は、カルトを「差別語だ」と主張してはいない。「2世の存在そのものに対して差別的ニュアンスを与えかねない」として、当事者に与える効果を懸念しているのだ。

 カルト集団への批判を意識した第三者による議論や言葉選びがいくら「正論」であったとしても、当事者に対して好ましい影響ばかりとは限らない。ましてや2世が抱えているダメージは心理的・精神的な側面に根深く及んでいる。単なる「当事者のお気持ち」などという類いの話ではなく、当事者に及ぼす効果は決して軽視できない。

◆2世問題の多様性への対応

 「宗教2世」のメリットはもう1つある。人それぞれで事情が大きく異なる2世問題を幅広くカバーできる。

 個々の2世が置かれた状況は、所属する・していた教団、親の信仰や組織への依存の度合い、親や2世自身のパーソナリティや相互の関係次第で、様々だ。これらのうちどれが最も大きく影響しているかも、人によって違う。2世の数だけ違う「2世問題」がある。

 実際、私がこれまで取材した2世の中には、確かに所属教団はカルトではあるが、親のパーソナリティにも相当問題があると思えるケースがあった。またカルト的な問題がある団体として名が挙がることが全くない団体でも、親が子供に対して信仰を用いたネグレクトや人格否定的な発言をしており、2世が置かれた状況やダメージが「カルト2世」と何ら変わらないように見えるケースもあった。

 この点に関して言えば、「カルト」と「宗教」の区別にこだわりすぎるのも考えものだ。2世問題をカルトの問題だけに特化してしまうと、本来類似の存在として捉えるべき人を取りこぼしてしまう。

 仮に「宗教2世ホットライン」が「カルト2世ホットライン」という名称で、カルト側の問題を糾弾する色合いが強い活動だったとしたら。所属教団がカルトだとまでは言えないが親との関係で人権侵害レベルの苦しみを抱えた当事者は、「自分のような存在に目を向けてくれている活動」と捉えて頼ることができるだろうか。「カルトを糾弾したいのではない。自分や、自分に似た境遇の当事者の苦しみをなんとかしたいんだ」という人が、ストレスなく加わることができるだろうか。

 「宗教2世ホットライン」は、宗教の種類を問わず「2世」たちが声を上げ、体験や教訓を共有し連帯しようとする、当事者による当事者のための活動だ。その上では、「宗教2世」とした方が幅広い問題や人々をカバーできる。当事者は、典型的な「カルト」の2世と自分を比較して気後れしたりしなくて済む。

 このメリットは、「宗教2世」という言葉を使うことについての「宗教2世ホットライン」の説明ではっきり言及されている。

〈B当問題は「カルト」と目される教団以外でも観察されるため〉(「宗教2世ホットライン」サイト内「宗教2世問題とは」)

 問題の多様性を踏まえた当事者のための目的意識としては、理にかなっている。

◆当事者は不用意な一般化を目指してはいない

 「宗教2世ホットライン」における「宗教2世」「宗教2世問題」の定義は、それぞれ最初の1文は〈自ら信仰を獲得したわけではないが、親がある教団の信者であり、出生時あるいは幼少期から教団の影響を受けて成長した人〉〈宗教2世が教団内で経験する様々な抑圧や、その延長線上で経験する脱会前後の困難などの問題を総称するもの〉というものだ。かなり抽象的で対象の範囲が広い。

 しかし、ハートネットTVと違って親子関係に特化しておらず、教団の影響にもはっきり言及している。

 そして、こうも書かれている。

〈宗教2世問題を語る際「スピリチュアル・アビュース」という概念が用いられることがあります。スピリチュアル・アビュースとは、子どもに対する宗教的アプローチの不正使用・乱用であり〉

〈宗教2世問題は人権問題として考えるべきもの〉

 スピリチュアル・アビュースとは直訳すれば「精神的虐待」あるいは「霊的虐待」だ。この言葉を提唱しているジャーナリストの藤田庄市氏は、2世問題に限らず1世も含めて(必ずしもカルトに限定もせず)信仰による「精神的な呪縛」の構造を批判的に捉え、そこで生じる、人の権利や尊厳を傷つける行為や現象を「スピリチュアル・アビュース」と呼んでいる。

 ここには暴力・暴言・ネグレクト等の狭義の虐待以外の要素も含まれるが、いずれにせよ評価の基準は人権や人間の尊厳だ。

 「宗教2世」の説明は、第三者の受け止めようによって「宗教」全般への一般化のリスクもあるとは言え、一方で「寺の跡継ぎ問題」全般や、外国出身の宗教マイノリティ全般や、信仰継承全般も全て抱き合わせて「2世問題」としてアピールしようとする姿勢にも見えない。長年「カルト問題」における議論の蓄積を経てきた第三者にとっては物足りない面もあるかもしれないが、従来的な「カルト問題」の問題意識と矛盾しないどころか、むしろ同じ方向を向いている。

 結局のところ皆、人権や人間の尊厳について語っているのだ。当事者であれ第三者であれ、「カルト」という言葉を使うことが重要なのではない。何を問題視しているのかが的確であれば、それでいい。

 実際私自身、「幸福の科学学園」という2世が集まる学校の問題を『週刊新潮』でリポートした際、「カルト」という単語を使わなかった。ことさらに避けたわけでもなく、紙媒体の限られた字数を、「カルト」という単語について説明することより学園の具体的な問題を記述することに費やしたかったという理由にすぎないが。

◆「言葉狩り」ではない

 鈴木氏は記事で、ロフトヘヴンから配信されたオンライントークイベント「カルト2世と機能不全家庭」のタイトルが、出演者である2世の希望で「宗教2世」に変更された件に言及している。鈴木氏はそれ自体には理解を示しているものの、〈当事者からの要望や企画・制作側の配慮によって「カルト2世」表記が排除される事例は今後も起こり得る〉と、メディアやイベンター側の自主規制を懸念している。

 この懸念にも私は同感ではあるが、上記の通り、重要なのは単語ではなく、そこで語るべき問題を語れているかどうかだ。

 別に、2世問題の当事者たちが第三者の議論に対してまで「カルト2世という言葉を一切使うな」というクレームをつける等の言葉狩りをしているわけではない。仮にそう主張する当事者がいたとしても、主張すること自体は自由だ。他者の表現を不当に萎縮させる現実的な圧力でさえなければ、何の問題はない。

 私自身、当事者の協力を得てイベントを開催したり記事を書いたりする場合、当事者からの意向の表明があれば、ある程度尊重すると思う。ハートネットTVについても、番組の構成はともかくとしてタイトルについては、「カルト」をゴリ押ししなかったことはむしろいいことだろう。

◆第三者の役割

 ハートネットTVには第三者が意識すべき、あるいは第三者に意識させるべき視点が決定的に不足していた。しかし、上記のような当事者の目的や問題意識にはしっかり寄り添っている。制作サイドがどこまで自覚的だったかはわからないが、当事者の声を代弁したという意義はある。

 だから当事者が番組を好意的に評価し励みにすることを、私は否定したくない。誰かを傷つけるようなことでもない限り、当事者たちが発信する意見の内容も(たとえ私とは見方や意見が違っても)尊重したい。SNSの普及や当事者による手記の出版ブーム以前は当事者自身がダイレクトに発信する機会や手段が多くなかっただけに、まずは当事者が必要と考えることを存分に発信できる状況であることが何よりも重要だ。

 それがなければ、第三者が総合的な議論をすることもできない。もともと1世についての「カルト問題」も、被害を受けた当事者たちからの相談や発信が足がかりとなって、今日まで来ている。

 前述のように、言葉の上では「カルト2世」ではなく「宗教2世」であるとしても、問題意識の内容が明確でありさえすれば、必ずしも不用意な一般化にはならない。もし当事者の発信内容がその点で不十分だと第三者が思うなら、第三者が捕捉を発信すればいい。

 特に今回は、「宗教2世ホットライン」内の文章が問題なのではなく、NHKという第三者によるドキュメンタリーの内容の問題だ。第三者が第三者の報道を批判するのは必要だが、当事者の発信部分にまで直接異を唱える必要はないように思う。

 第三者は、当事者より広い視野でより客観的な議論をしやすい立場にある。しかし広い視野を目指す以上、その視野の中に当事者の主張や問題提起の意義も確実に含めるべきだ。

 一方で当事者に、第三者から見て非の打ち所のないほどの視野の広さや客観性が必要だろうか。無理なくそれを備える事ができるなら越したことはないが、そうでなければ発信できない(発信すると批判される)となると、当事者はいつまで経っても存分に声を上げることができない。

 だから鈴木氏が提起している議論も私自身がここで書き連ねた議論も、全て第三者にとっての課題なのだと思う。

<文/藤倉善郎>

【藤倉善郎】

ふじくらよしろう●やや日刊カルト新聞総裁兼刑事被告人 Twitter ID:@daily_cult4。1974年、東京生まれ。北海道大学文学部中退。在学中から「北海道大学新聞会」で自己啓発セミナーを取材し、中退後、東京でフリーライターとしてカルト問題のほか、チベット問題やチェルノブイリ・福島第一両原発事故の現場を取材。ライター活動と並行して2009年からニュースサイト「やや日刊カルト新聞」(記者9名)を開設し、主筆として活動。著書に『「カルト宗教」取材したらこうだった』(宝島社新書)

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