自分らしくあるために必要なこと。男性がミスコンに出場!?『MISS ミス・フランスになりたい!』

自分らしくあるために必要なこと。男性がミスコンに出場!?『MISS ミス・フランスになりたい!』

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◆一人の青年が「ミス・フランス」を目指す

 ある一人の青年が男性であることを隠しながら「ミス・フランス」コンテストに挑む過程を描いたルーベン・アウヴェス監督作品『MISS ミス・フランスになりたい!』が全国で公開中である。

 パリの場末にあるボクシングジムの手伝いをしているアレックスの夢は「ミス・フランスになること」。ある日、アレックスはジムでプロボクサーの夢を叶え自信に溢れていた幼馴染のエリアスに遭遇する。そして、両親を事故で亡くして以来、自信を失っていたアレックスはエリアスに触発され「ミス・フランス」へ挑戦することを決意。

 母のような存在のヨランダ、ドラッグ・クイーンのローラをはじめ、アレックスの下宿先の個性的な面々はアレックスの挑戦を応援。ドラッグ・クイーンたちのボスである”女王陛下”からは「24時間、寝る時もコルセットを着けて。つけまつげと、谷間メイク。水着用に膨らみを隠す技も学んで」など女性になるために厳しいアドバイスがあった。エリアスからもスポーツのメンタルトレーニングを学び、美しさを増していくアレックス。男性であることを隠したまま地区大会で優勝したアレックスはついに決勝へ進出するが……。

 監督・原案・共同脚本は、これが長編2作目となるフランス・パリ出身の31歳、ルーベン・アウヴェス。主演はパリでジェンダーレスモデルとして活躍後、TVドラマを中心に俳優としての活躍も目覚ましい25歳のアレクサンドル・ヴェテール。これが長編デビュー作となる。2つの若き才能によって社会のあり方、人間のあり方を鋭く問うた意欲的な作品が登場した。

 男「らしさ」女「らしさ」とは何か、夢を追って自分に向き合うことの厳しさ、友情や思いやり、そして「自分の価値を決めるのは誰か」といった普遍的な事柄が映画のテーマになっている。後世にまで多くの人々に見られるであろう秀作である。

◆世間が期待する「女らしさ」

 物語の冒頭、「ミス・フランス」になりたいというアレックスに、ドラッグ・クイーンたちのボスであり、女性になるためのコンサルをしている女王陛下は次のように言い放つ。

「女はセクシーでかつピュアでなきゃ。面白くて話題の的で反抗的で従順。優しく笑って静かに涙を流して――。収入以上のオシャレをしてみせる。失敗すれば?尻軽″のレッテルが。成功すればやはり?尻軽″のレッテル」

 冒頭から女性に対して多くの注文をする社会を痛烈に批判したコメントが並ぶが、アレックスは次の言葉で奮い立つ。

「真の女にはどうあがいてもなれない。でも、真の女らしさを(身に付けることができる)」

 ところで、「女らしさ」という言葉を聞いて思い浮かべるのは何であろうか。「女らしさ」と言うと、自分が日本に生まれ育ったせいか、どうしても男性優位の発想が前提の「媚」のニュアンスを思い浮かべてしまうが、この映画にそうした要素は感じられない。

 ミスコンに優勝し、夢を叶えようとするアレックスは、プロボクサーのエリアスから「試合前に試合は決まる」と勝つためのメンタルトレーニングをジムの上で受ける。ドラッグ・クイーンのローラからは「車をカメラ、男をカメラマンだと思って目で魅了しなさい」と言われ、路上で実行する。その姿はまるでストイックなスポーツ選手のようだ。

 最近はルッキズムや男性社会による性差別への批判もあり廃れつつあるが、ミスコンは未だ存在する。そして、「ミスコン」と聞くと、「ミス日本」ではなく、大学のミスキャンパスを重い浮かべてしまう。また、似たようなシステムのイベントではアイドルグループの人気投票などが脳裏をよぎる。

 その舞台裏をテレビのドキュメンタリーが追い、「夢を叶えようとする」彼女たちの健気さがクローズアップされた時代もあったが、背後にはドス黒いものが見え隠れした。彼女たちを操るプロデューサーや資本の存在、過剰に幼稚性を煽る演出、漏れ伝わるセクハラなど。学生ミスコンであってもそこには似たような構造があり、主催者団体側とのセクハラ騒動が起きたこともあった。

 その裏側にあるものはやはり「男性優位」の発想があるからだろう。男性から選ばれるために何でもする。その健気さに選ぶ側の男性は心をくすぐられる。一方で、出場する女性たちにとっては、そのコンテストで勝てば、女性アナウンサーやトップアイドルへの道が開ける。「何でもする健気さ」のアピールは将来の地位や名誉とトレードオフだったのかもしれない。

 ところが、この映画にはそうした陰湿な部分は登場しない。それは「自分をアピールする」ことが、フランス社会では肯定的に捉えられている一方、日本では時には「でしゃばり」と捉えられ、時には「媚び」を含むシーンがあるからかもしれない。そして、その背後にはやはり無意識的に刷り込まれた男性社会の存在があるのではないか。

 「ミス・フランス」候補者の女性たちが自分やメッセージをアピールする相手は「社会」であるが、学生ミスコンやアイドル投票が自分をアピールする相手は一段スケールダウンした「男性社会」。「社会」に向かって自分をアピールしようと思えば「でしゃばらないように媚びる」という発想は登場しないが、「男性社会」に向かって自分をアピールしようとする時には、どこか控えめさ、健気さのある方が受けることは間違いがない。

 ミスコンは昨今、ルッキズムの象徴として批判の対象になりがちだが、「アピールする相手は誰か」を考えると従来とは異なる議論になる可能性がある。即座に「選ぶのは男性」という発想をする時点で、自分自身も社会の捉え方が偏った人間になってしまっているのかもしれないと感じた。

 また、この映画は実在の「ミス・フランス実行委員会」と提携しているが、選考過程の中でミスの候補者がゴミ拾いをするシーンなどもある。本来の「ミス・コンテスト」の意義は女性の美を通して公益性のあるメッセージを届けることにもあったのだと今さらながら再認識した。

◆日本の女性として「勝つ」とは

 就活、婚活、妊活。日本社会において女性が一般的な幸せを勝ち得るためには、この3つの「活」を無難にこなしていくことが必要と言われていた。就職活動をしてある程度の収入の確保できる会社に就職し、そこで出会った高収入の男性と結婚する。そして、無事に夫のコピーを生み(もしくは夫のコピーを生んで育てられるような娘を生み)、育て、ひな壇付きの結婚式で次世代に自分たちと同じライフスタイルを引き継ぐ。

 しかしながらそのゲームを勝ち抜くことは難しい。なぜならばゲームの判定をするのは多くの場合は男性で「男性から選ばれること」が必要なゲームなのだ。努力の仕方がわからない人もいるだろう。精子バンクや卵子のドナー制度が一般化しているとは言い難い日本では、妊活するにはまずは婚活を乗り切ることが必要である。

 そしてその際に必要なのが「適度に」賢く「適度に」控えめであること。既にこのような女性像は時代の変化と共に駆逐されつつあるが、一方で「女性活躍社会」を掲げる政府は、女性たちに過剰に明晰な頭脳も積極性も求めていないのかもしれない。自分たちの領分を犯さない限りでの「女性活躍」。それは、日本の五輪組織トップの引責のニュースや女性政治家の夫婦別姓に対する態度表明からも透けて見える。

 また、その「適度さ」は一般社会をも侵食している。就職活動では「エリア総合職」という、出世の上限はあるが転勤範囲に制限があり、夫の生活スタイルに合わせて家事育児と仕事が両立できるライトな総合職が人気であり、婚活では四大卒は子どもの教育係として適任と人気だが、あまりに高学歴だとやはり敬遠されるという。

 ところが皮肉にもミスコンである「ミス・フランス」の戦いにそうした「適度さ」は全く要求されていない。スタイルの維持やマナーを身に付けることにおいてアスリートのようなストイックさが要求されている。そしてその目的とは「社会にメッセージを届けること」。

 ミス候補者のコーチ役のアマンダ自身も大会を仕切る男性の下のポジションにいるビジネスパーソンであるが、彼女自身が古い感覚に捉われた社会で働かねばならないことの葛藤も映画は描いている。そして納得のいかない場合には男性上司にストレートに疑問をぶつけている。

 最初のオーディションで「何者かになりたい」と言い、飛び抜けた美しさを持つアレックスに一目置いたアマンダは、くじけそうになるアレックスに対して激を飛ばす。自分の願望を叶え、何者かになりたいと思ったら、自分に対して引いていてはいけない。最大限の努力をしなさいと。そこにはスポーツドラマのような清々しさがあった。

 一方で、政治家も含め日本のメディアに登場する女性たちにそのような清々しさはあるのだろうか。どこかで男性社会に忖度しながら「女性活躍」を演じているのではないか。

◆「美しさ」とは何か

 周囲のサポートを受けて、自らの美しさを磨き、アピールしようと懸命になるアレックス。劇中でめきめきと美しくなり、輝いていく様は圧巻であるが、そこになぜか「女らしさ」は感じなかった。

 では、「美しさ」と聞いて思い浮かべるのは何か?

 ある人は肉体美を思い浮かべ、ある人は繊細さを思い浮かべ、ある人は母のような強さを思い浮かべるかもしれない。

 それは人それぞれであり、また美しさを持っている人物によっても違うのかもしれないが、それが当たり前のこと。「美しさ」と言うと、顔とスタイルの造形美を思い浮かべがちであるが、それは当然一義的ではないということに気付かされる。

 ところで、アレックスを演じるアレクサンドル・ヴェテールはトランスジェンダーである。男性の体を持ちながら、ジャン・ポール=ゴルチエのレディース・コレクションに出演し、モデルとして成功した。子どもの頃から女装をすることに喜びを感じていたが、目立ちたくなかったので女装には積極的ではなかったというヴェテール。ところが、造形美術の勉強をするために故郷の小さな村を離れ造形美術の勉強をし始めた時に彼の世界は変わったという。

 ヴェテールは自身の経験を以下のように語っている。

「村を出て芸術の世界に入ったことで、自分が安全な場所にいると思えるようになりました。芸術の世界こそが、偏見にさらされず自分自身であることが許される寛容な世界であると気がついたからです」

 主人公のアレックス同様に、アレックスを演じたヴェテール自身も他人の目を離れて自分を解放することで、キャリアと成功を掴んだのだった。そしてこの作品の主役を演じることで「美しさ=女性らしさ」というジェンダー規範から自由になり、自身の成長も感じることができたという。

◆自分の価値を決めるのは誰か

 幼い頃事故で両親を亡くしたアレックスは自分に自信がない。そこで「ミス・フランス」になり、何者かになって自信を取り戻したいというのがコンテストの応募のきっかけだった。しかし、アレックスはコンテストを戦っていく中で自分と向き合い、自信を持ち、本当に大切なものは何かを発見する。

 「自己承認欲求」という言葉がネガティブに使われる昨今であるが、その本当の意味をこの映画は問うている。

 劇中にもInstagram、Twitterなどが頻繁に登場し、アレックスの美しさに磨きがかかるにつれてフォロワーも増えていく。SNSで自分の行動の一挙手一投足を知らない誰かに披露して肯定的な評価が付く。

 しかしながら、次第にどこまで「いいね!」が付けば自分を満足させられるのかといった息苦しさも感じるだろう。裏を返せば、その息苦しさを味わって初めて「自己承認は誰によって得られるべきなのか」について自分自身が向き合う機会を得られるのかもしれない。

 アレックスは自分を世間に常に晒し続けるミスコンによって「自分の価値を決めるのは自分」という結論に辿り着いた。

 しかし、私たちがその機会を日常生活で得ることは難しい。自分自身の価値を決めるのは誰か。SNS社会になり、誰でも自己演出することができるようになった今、この映画はそのことの本当の意味を観る者に投げかけていると言えよう。ぜひ、劇場で見ることをお勧めしたい。

<文/熊野雅恵>

【熊野雅恵】

くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。

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