原発事故を哲学の視点から考える「原子力の哲学」戸谷洋志さんインタビュー

原発事故を哲学の視点から考える「原子力の哲学」戸谷洋志さんインタビュー

戸谷洋志さん

◆原子力をめぐる哲学者の考えを紹介

 哲学者は原発と核兵器をどのように論じたかーー。

 大阪大学特任助教で哲学研究者の戸谷洋志さんの新著『原子力の哲学』(集英社新書)。マルティン・ハイデガー、ハンナ・アーレント、ジャック・デリダなど7人の哲学者たちの原子力をめぐる思想が明快に整理されている。キーとなる概念をひとつひとつ丁寧に読み解きながら、人々の原子力との向き合い方のヒントを提示している。

 東日本大震災から10年の節目の時期に刊行したかったと語る戸谷さんに、哲学者たちの思想から学べることについてお話を聞いた。

◆原発事故を「歴史化」する段階に

――戸谷さんは震災の原発事故をきっかけに原子力に関心を持ったそうですね。

戸谷:当時、大学4年生だったんですが、計画停電の時に千葉県の自宅の近所を散歩したんです。そこで真っ暗闇になった街中を見て、一気に機能不全に陥った社会に異様さを覚えました。当たり前だと思っていた日常が原子力に依存していたこと、自分が原子力の支配の構造に組み込まれた当事者であることを強く意識しました。

 本当に全世界的に記憶されるような、世界史的な出来事が起こったと思いました。さまざまな知識人の方も原子力について論じていた。ただやはり数年が経つと、ホットなトピックでなくなってしまいました。生々しかった原発の記憶が、急速に忘れられているように感じます。

 今考え直すことは、震災直後とはまた違う意味を持っています。あの出来事が私たちの社会をどう変えたのか。どのように記憶していくべきなのか。歴史化していく段階に入ったと思うんですね。そこで原子力と人間の関係を哲学の視点で考えたいと思いました。それがきっと社会のためにいいことだろう、もっと大きい言い方をすれば、将来の原子力の破局を避けるのに少しでも寄与するんじゃないかと思ったんです。

――哲学の視点から考えるのが必要なのはなぜでしょう?

戸谷:原子力の政策は、民主主義的なプロセスで決めなければいけません。市民の投票行為、場合によってはデモなどの社会運動であるかもしれません。

 これは原子力について、人々が判断を下していかないといけないということです。しかし、20世紀の哲学者たちの思想に共通しているのは、原子力については判断を下すこと自体が難しいということです。それが原子力の脅威なんですね。

 たとえば、原発の放射性廃棄物の放射線は目に見えません。だからそれはリアルなものとしては体験できない。また、自然に無害なレベルまで放射線量が下がるのに、およそ10万年がかかると言われています。

 本当にSFのようにリアリティを欠いた想像不可能な世界の話なわけです。そして人間はリアリティを欠いたものに対して、現実的な判断を下すのが難しい生き物だと思うんですね。本書で取り上げたハンナ・アーレントは、公的空間で人々が対話で意思決定をするためには、共通のリアリティを持たなければといけないとしています。

 僕はこうした話を置き去りにしたまま、「脱原発か原発推進派か」と二者択一を突きつける言説は非常に危ないものだと思います。では、どうやって原子力について考えるといいのか。その議論の土台を作るために、哲学者たちの思想を読み解くことで、何か見通しが見えるのではないかと思いました。

――リアリティのなさについては、ギュンター・アンダースの「プロメテウス的落差」という概念がありました。広島で投下された原子爆弾は10万人以上を殺害した。明らかに想像力の限界を超える数字だけれど、人間は製造する能力を持っている。その想像力と制作能力の「落差」を克服するためには、SF文学などのフィクションが必要だとしていました。

戸谷:想像力を鍛えていくこと。つまり、10万人以上の死をありありと想像できる力を獲得することが重要だと言うんですね。そのためにフィクションがある。

 原子爆弾の鉄製のラグビーボールのような形を見ても、10万人以上を殺すことは想像できません。しかし、それを怪物のようなものとして描くことはできます。たとえば、日本の作品ではゴジラやナウシカの巨神兵がそうだと思います。

 原子力が人類に対して持っている意味を表象しようとすると、ゴジラやナウシカの巨神兵のような存在になる。そこで初めて人間にとって原子力とは何かが判断できるようになる。原子力の破壊力に対して、人間の想像力が追いついてくるからですね。そうした意味で、フィクションには大きな可能性があるのではないかと思います。

◆「領域横断的な対話」が必要

――「おわりに」のまとめでは、そうした「想像力を鍛える」ことが原子力の脅威に抵抗するための方法として挙げられていました。他には「領域横断的な対話をする」「落ち着いた態度を取る」の2つがありました。まず、対話については、アーレントを参照しながら、狭い専門性を乗り越え、異なる属性の人々と話し合うことが重要だとしていました。それはどのような形がいいでしょう?

戸谷:たとえば、現状ではニューモ(原子力発電環境整備機構)という、放射性廃棄物の最終処分場を建設するための組織があります。そこが対話型全国説明会を実施しています。ただ、そこは専門家が市民に説明する場所になっているという印象を否めません。インタラクティブではないんです。それはアーレントが考えていた領域横断的な対話ではないと思います。

 では、別の可能性には何があるのか。たとえば、震災直後に盛んだった脱原発デモは、領域横断的な対話のひとつの形だったと思います。参加していたのは学生や主婦の方などの一般市民でした。いろいろなフィールドワークを読んでいると、デモの中で多様な立場から考え方の意見交換をしていたんです。

 たとえばデモの参加者には、自分をまるで加害者のように語った方もいたそうです。つまり、今まで声を上げずに原発に依存してきた。それによって事故が発生し、今後何十年も続いていく。だから申し訳ないと思っていると。僕はそういうことを語り合うことが必要なのではないかと思います。原発に賛成か反対かを議論する場、科学的な知識を学ぶ場であるだけでなく、原発事故が人々のライフスタイルにどういう影響を与えたのか、価値観の変化を話し合うんです。怒り、悲しみ、後悔などの感情を共有することも重要なのかなと思っています。

 ただ、やはり脱原発デモなので、推進派との対話の場にはならなかった印象はありました。

――脱原発派の立場からすると、推進派の意見は聞く意味がないと考える人もいると思います。両論併記のように並列して語ってしまっても大丈夫でしょうか?

戸谷:凄く難しい問題ですね。ただ私の立場からすると、脱原発派も推進派の話を聞くべきだと思います。推進派と対話をしていたら、推進派の存在を許容することになるので対話をしない。そういう立場を取っていると、推進派はいなくならないと思うんですよね。二項対立を崩していくことが重要なのではないかと思います。

 僕自身のポリシーとしては、原発はなくしてほしいと思います。ただ、そのプロセスは基本的に民主主義的であるべきだと思うんですね。もし人々が民主主義的な手続きによって、原発を残すことを選ぶのであれば、それは尊重しても仕方がないかなという気もしていますが。

◆計算的な思考に囚われないために

――原発の脅威に抵抗するためのもうひとつの方法「落ち着いた態度を取る」ことの重要性とは?

戸谷:もとにあるのは、ハイデガーの哲学です。ハイデガーは人間の思考のあり方を2つに区分しています。「計算する思惟」と「省察する思惟」です。

 「計算する思惟」は、たとえば山があったら、そこからどれだけの資源が産出可能かをすぐに計算する。つまり、経済合理性に基づく考え方です。目的を達成するための最短距離を算出するんですね。これは原子力時代に支配的な思考です。

 一方、「省察する思惟」は、私たちの身の回りのものをじっくり眺める思考です。これを実践するために重要なのが「放下(ほうげ)」という概念です。これはある問題に対して「イェス」(然り)と言いながら同時に「ノー」(否)と言うことだと書いています。

 どちらかに即決するのではない。ある視点から見ると「イェス」で、別の視点から見ると「ノー」だよね、と考える。あるいは、今は「イェス」だけれど、ゆっくり待ったら「ノー」に見えてくるよね、など。そうした立場を許容する態度ですね。

――それを原子力について考えるときにも生かすと。

戸谷:ここから先は私が独自にハイデガーから解釈したことです。原発の問題は非常に複雑で、答えが簡単に出ない問題です。ある立場から見たら、推進するべきかもしれない。別の立場から見たら、なくすべきかもしれない。そういう風に、否定と肯定を両方とも取らざるをえない問題なんです。

 それに対して「あなたは脱原発に疑問を呈しているならば、原発推進派なんですね」といった二者択一を性急に迫る考え方は、これ自体が計算的な思考に陥っているのではないか。それが巡り巡って、原子力時代の思考に囚われているんじゃないか、と思ったんですね。

 自分と全然立場が違う人の話は聞いてもしょうがないと思うこともあるかもしれません。私が脱原発を訴えるために有効な話を学びたいと思って、誰かのところに話を聞きにいくとします。しかし、私が欲しい情報と全然違うことを話されていたら「来ても意味なかったな」と思う。しかしその時点で「計算する思惟」に陥ってしまっているわけです。やはりそれは対話ではないと思うんです。

 自分にとっては意味がないと思えること、瑣末と思えることにじっと耳を傾ける。理解し難いものを理解しようとする余裕が必要だと思うんですね。そういう意味でも、原子力について思考する上で根底にないといけないのが落ち着きを持つことです。それが今の日本社会に欠けていることだと思いますね。

<取材・文/篠原諄也>

【篠原諄也】

1990年、長崎生まれ。フリーランスライター。人文・文芸ジャンルの著者取材など。Twitter:@snhr66 Instagram:@jssnhr66

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