「つっぱり棒」作る3代目社長 夫婦二人三脚で業界トップを守る

「つっぱり棒」作る3代目社長 夫婦二人三脚で業界トップを守る

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大阪の日用品メーカー・平安伸銅工業の社長の竹内香予子さん(39)。会社の歴史は古く、創業69年だ。初代社長は祖父、2代目は父、「つっぱり棒」トップシェアを誇る老舗会社である。

2代目社長、父の康雄さんの心筋梗塞がきっかけで、新聞記者だった娘に白羽の矢が立った。26歳で入社したときは右も左もわからなかった。しかし、いまや竹内さんは会社のかじ取りから広告塔までこなし「つっぱり棒博士」として多くのメディアに出演している。

「こんにちは〜、つっぱり棒博士でーす。つっぱり棒を使えば、収納や間取りに左右されない、私らしい暮らしを手に入れることができるんです。まだまだ知られていない、つっぱり棒の使い方を、私の知識や経験をもとに、たくさんの人に伝えていきたいと思いまーす!」

熱っぽく、ときに関西人らしく笑いもちりばめながら、インターネットの配信動画の中で、「つっぱり棒博士」こと竹内さんは語りかけていた。

■望んで飛び込んだ新聞記者の世界で挫折。父の急病で家業に誘われ「釈然としなかった」

竹内さんは82年、兵庫県宝塚市で3姉妹の末っ子として生まれた。家には祖父と祖母も同居していた。竹内さんに、自社の創業者でもある祖父との思い出を尋ねると「いっつも喧嘩してました」と予想外の答えが返ってきた。

「祖父は戦争経験者。危機的状況下でとくに女性がつらい目にあうのを目の当たりにしたからだと思いますが、私たち姉妹に常々『いざというときでも自活できるよう、手に職を持て』と。そこまではいいんですけど、なぜか飛躍して『弁護士か医者になれ!』なんです」

2人の姉は、素直に医療関係の仕事に。しかし、末妹は違った。高校生になり、メディアの仕事に興味を覚えた竹内さん。大学ではマスコミュニケーション論を学び、中国・北京への留学も経験。過激化する反日運動にも直面した。

「その体験は大きかったです。日中、それぞれの国民が何を考えているのかを伝えたい、そのためには報道だ、と思い至りまして。就活では新聞社を軒並み受け、産経新聞さんに拾ってもらいました」

配属されたのは、滋賀県の大津支局。地方行政の動きや町ネタが載る地域欄を担当したのだが。

「入社2年目の春です。遊園地で死亡事故が起きて、その被害者のご遺族やご友人を取材することになったんですけど……。メディアとして必要な仕事なんですけど、やっぱり足がすくむというか。なぜ、つらい思いをしてる人に追い打ちをかけるようなことを、しなきゃならないのか。そこで怯んでいては仕事にならないのも、わかってはいるんですけど……」

この取材を機に「自分は向いてないのかも」という思いが頭をもたげ始める。さらに、入社3年目には県庁担当を任されることに。

「それもグチャグチャで。記者クラブの幹事社を担当させられたり、統一地方選と衆院選があったりで、しっちゃかめっちゃかでした」

記事中の固有名詞を間違えるなど軽率なミスを繰り返し、ミスしたことを上司にきちんと報告することすら、できなくなっていく。

「仕事から逃げようとする自分がいました。もはや、メンタルもやられかけていて。それで、転職を考え始めたころ、実家の母から電話があったんです。『お父さんの会社を手伝ってほしい』って」

その少し前、父・康雄さんが心筋梗塞を患っていた。母・敬子さん(68)によれば、康雄さんの手術は成功したものの、この先も以前のように仕事ができるかわからないから助けてあげて、と。

しかし、ここで竹内さんは逡巡する。

「じつは私、親にも記者の仕事がうまくいってないと、話していたので。もしかすると両親が私を心配して、助け舟を出そうとしてるのかと。そう思うと、釈然としなくて、差し伸べられた手を、最初は素直に握れませんでしたね」

■「いま振り返ると、ただただ虚勢を張っていた」と竹内さん

「短い記者生活のなか、もしかしたらいちばんの収穫かも」 こう言って竹内さんはガッツポーズでおどけてみせた。

県庁担当の記者だった竹内さんには運命の出会いがあった。記者仲間から誘われて顔を出した県職員との食事会。そこにいたのが、のちの夫・一紘さんだったのだ。

「私も変わり者ですけど、彼もそうとう変わっていて。県の職員なのに、革ジャン姿で県庁に出勤してましたから(笑)」

建築士の資格を有し、建築課に勤務していた一紘さん(41)。彼の先輩が「電話番号、交換せいよ」とお節介を焼いたことから、2人は急接近し、交際するように。

「交際中、彼にも『自分は記者の仕事に向いてない、つらい、メンタルやばい』と伝えてました。でも、辞めて親の会社に転職するって、なんだか負けな気がして、踏ん切りがつかなかった。そのとき、彼が『そうまでして続ける必要ない』と言ってくれて。『やりたい仕事を探し求める転職もいいけど、請われて入る会社の枠の中で、自分のやりたいこととの重なりを見つけてみたら』ってアドバイスも」

未来の夫に背中を押され、竹内さんは新聞社を退職し、平安伸銅工業に入社。26歳のときだった。27歳の誕生日の目前に、一紘さんと結婚もした。気持ちも新たに、新しい職場に足を踏み入れた竹内さん。だが、最初は戸惑いも大きかった。

「新聞社時代は、わりと皆でガヤガヤ議論しながら仕事してたんです。それが、当時のこの会社は、なんて言うか、静かなんですよ。皆、粛々と淡々と自分の仕事をしてる、そんな感じで」

そこには、おそらく当時の社長の経営方針も多分に影響していた。

「この業界も価格競争が厳しくて。体力の弱い中小企業には多角化や新ビジネスに投資をする余裕もありませんから。父は新商品開発など不確実なことにお金を使わずに、既存の製品のマイナーチェンジやコスト見直しを繰り返して。すでに業界の中で認知されていた『つっぱり棒は平安伸銅』というポジションだけは守るという方針を立てていたんです」

理屈としてはわかるけど、と竹内さんは思った。父の苦労のかいあって、社の業績は黒字を維持している。でも、現状維持を第一義に掲げたそのやり方では、ジリジリと会社は追い詰められていくのではないか。まだ20代の自分や、働いてくれている社員たちの未来は決して明るくないのではないか。

「だから、変化が必要だと痛切に感じていました。それで父に直談判も。でも、父は『焦るな、しばらくは黙って見とけ』と。たしかに、私は入社したばかりで何もわかってませんでしたから。父の言葉は正しかったと思いますが……」

不安を抱えたまま迎えた2年目。康雄さんの病状がふたたび悪化。竹内さんは社内の意志決定や銀行対応など、父に代わって大きな責任を伴う仕事を担うように。

「記者時代も疲弊してましたが、このころもつらかった。コンロの火をつけたまま家を出てしまったり。もう、胃に穴があきそうでした」

疲れ果ててはいても、変革の必要性は強く感じていた。そこで、開発と営業、それぞれの担当者が一堂に会する開発会議を定期的に開催することを提案。少しずつ新たな試みをスタートさせていくが、守りに徹することに慣れた社員たちから、攻めの企画は出てこない。

「たとえば『長さ10cmのつっぱり棒』といったような、既存の商品の延長線上のアイデアばかりで。『4P分析も知らんのか!』『新規事業や、こんなフレームで分析出してこい!』なんて感じでネットから拾ってきた言葉で、メンバーのお尻をたたき続けました。私自身まともにやったこともないくせに。『お前がやれ!』って皆、心の中で怒鳴り返してたはずです」

イライラばかりが募って、竹内さんが自ら社に引き入れた若いスタッフを会議中に罵倒し、辞められてしまったこともあった。

「いま振り返ると、肩に力が入りすぎてました。女性だからとなめられたくないとか、経験もないのに意志決定する立場にいる気負いとか。ただただ虚勢を張っていたんだと思います」

それでも、15年1月1日。竹内さんは社長に就任。健康を回復した父は会長職に就いた。

■夫の入社が転機に。徐々に社長としての仕事に余裕が出てきた

社長就任直前にも大きな転機があった。一紘さんが県庁の職を辞して平安伸銅工業に入社したのだ。

「夫はずっと公務員を続けるつもりでした。結婚のとき、夫は私の祖母から『中小企業の経営は浮き沈みが激しい、覚悟しときいや』と言われて。生活の安定のため、公務員という堅い仕事で家庭を支える、そう言ってくれてたんです」

しかし結婚当初から、妻は仕事に追われ、疲れ果てていた。一紘さんが言う。

「僕は普通に有休も夏休みもありましたけど、妻は土日も仕事。以前は休日に2人でおいしいものを食べ歩くのが楽しかったのに、それもできなくなって。なんか一人の趣味でも見つけなあかんかな、人生設計やり直さないかんな、そんなことばかり考えてましたね」

夫婦の会話のテーマも、会社のことばかり。社内改革が進まず愚痴をこぼす妻に、夫は「こんなふうに考えてみれば?」と親身になって助言するのだが……。竹内さんが当時を振り返り、頭をかいた。

「もう、私に余裕がなかったんですね。『そこまで言うんやったら、自分も一緒にやりいや!』と言い返してしまって。そんなんで、だいぶ喧嘩もしました」

鬼気迫る様子の妻に、夫も悩んだ。「このままやったら、この家庭は維持できないかもしれん」と。そして、1年ほど熟考した末、一紘さんは転身を決断した。

「ちょうど為替相場が円安に振れて、会社の利益がどんどん目減りしていく、いちばんヤバい時期で。そんななか、会社のいろんな部分にメスを入れていくのは本当、しんどかったですね。それでも、僕も退路を断ち、やると決めて入ったし。『乗り切るぞ!』って妻と2人で立ち向かえたので。しんどさ以上に、じつは楽しかった」

平日は毎日、夫婦で朝5時半には出社し、夜11時までがむしゃらに働いた。退社後は毎晩のように、杯を傾けながら反省会。週末は自宅マンションの共有ライブラリーに陣取り、議論を続けたという。

「不得手だった数字の整理とか、論理的な戦略立てを夫が担当してくれて。私は新しい製品のアイデアを出すことや、企業ブランディングに時間を割けるようになって。気づけば、徐々に会社の業績も上向いていきました」

そろって難題に対峙することで、2人の絆はより深まり、いつしか竹内さんの肩の力も抜けていた。

■現在は1児の母でもある竹内さん。母としての生活もまだ始まったばかりだ

「夫は子供好きでしたから、早く欲しかったと思います。30歳ぐらいのときに『そろそろ』と言われましたし。でも、当時の私は会社のことでいっぱいいっぱいで。『35歳まで待って』と、手紙に書いて伝えました」

会社の改革が一段落したところから妊活を始め、37歳、約束より少し遅れはしたものの、長女を無事に出産した。

「まだ1歳ですが、誰に似たのか面倒くさい子になりそう」

こう言って笑う妻に、夫も苦笑しながら言葉を継いだ。

「子供が生まれて、なんか最近、僕、しんどいんですよ。よくよく考えたら、その原因は、妻のわがままに、子供のわがままがプラスされて、家の中の台風のような存在が2倍になったから(笑)」

家族3代で続いてきた、つっぱり棒の平安伸銅工業。夫を筆頭に周囲を台風のように巻き込みながら、自由にのびのびと会社を変え、成長してきた3代目・竹内さん。

これからは家族3人で、より大きな渦を描いていく。

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