全盲の弁護士と音楽家の夫婦 子どもたちの笑顔は心に映って

全盲の弁護士と音楽家の夫婦 子どもたちの笑顔は心に映って

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「響、テレビはいったん消してさ、お肉に塩、胡椒してくれない?」

それはある週末の、大胡田家の光景。

エプロン姿の父・誠さん(45)に呼ばれて、長男・響くん(9)が台所にやってきた。耳をそばだてるようにして、息子が隣に立ったことを確認すると、父は「はい、これ」と2つの調味料入れを手渡す。だが、大好きな野球中継を中断させられた小学4年生は、少しむくれた顔でそのうちの1つを突き返した。そして、少しぶっきらぼうにこう告げた。

「パパ、違うよ、これ塩じゃない」

そんな2人のやりとりを眺めていた長女・こころさん(11)が、すかさず口を挟む。

「パパ、せっかくだからさ、おいしいほうの塩、使おうよ」

娘の声に反応した父は「ん?おいしい塩? それってどこだっけ?」と、辺りをうかがうように首を左右に大きく振ってみせた。

すると今度は、隣の部屋から母・亜矢子さん(47)の大きな声が。

「ここちゃーん、お洋服の色、どっちがいいか見てーー」

小走りで母のもとへ向かう小学6年生。そして、スタイリストさながらの慣れた手つきで、2着のワンピースを母の胸元に当てた。

「う〜ん、こっちかな。ママにはこの色のほうが合ってると思うよ」

愛娘の言葉に、にっこりとほほ笑む母。台所からは肉の下ごしらえが済んだのか「パパ、できたよー」という響くんの声。ここで、父母それぞれが、くしくも同じ言葉を子どもたちにかけるのだった。

「ありがとう!」

誠さんと亜矢子さん、ふたりはともに全盲の夫婦だ。

誠さんはハンディキャップを乗り越え、司法試験に合格。日本の法曹界史上3人目の、全盲の弁護士になった。幼いころからピアノを続けてきた亜矢子さんは、音大を卒業しソプラノ歌手に。弾き語りのミュージシャンとしても活躍。上皇后美智子さまの前で、歌声を披露したこともある。

ふたりは’10年に結婚し子宝にも恵まれた。しかし……。健常者でもたいへんな子育て。記者は素朴な、でも、不躾な質問を、ついつい、ぶつけてしまった。「目の見えないふたりがどうやって?」と。

「もちろん、できないことや難しいこともあります。でも、そこは割り切ってといいますか、見える人の手を借りながら、ですね。それに、いまでは子どもたちも自分のことは自分でできるようになりましたし、私たちを手助けしてくれる場面も少なくないんですよ」

確かにそこには、ごくありふれた家族の光景があった。なにより、ふたりの子どもたちの笑顔は、パパとママの心には確かに映っているのだーー。

大胡田誠さんは’77年、静岡県で生まれた。生後3カ月のころ、日光を極端に眩しがる様子を心配し、両親が病院に連れていくと「先天性緑内障」という診断が下る。完治は難しく成人前に視力が失われる確率が高い疾患だ。

当初は視力のあった誠さんだが、その視界にはやがて白い霧が。

「だんだん視力は低下していきました。すごい倍率のルーペを使い、それでもなんとか本が読めたのは、小学5年生ぐらいまででした」

’90年、誠さんは東京の筑波大附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)の中学部に進学し、寄宿舎生活を始めた。そこで、ある本との運命的な出合いがあった。

「宿題の読書感想文のための本を探していたとき、『ぶつかって、ぶつかって。』という名の本を見つけました。失明から2年ほどたった当時も、僕は毎日、ぶつかってばかりいたので、そのタイトルにまず引かれたんですね(笑)」

それは、日本で初めて点字で司法試験に合格した弁護士・竹下義樹さんの本だった。

「全盲でも弁護士になれると知り衝撃を受けました。あのころの僕は、失明で人生の可能性をすべてなくしてしまったと思い込んでいたし、自分は他人より劣っているというコンプレックスも抱えたままでしたから。でも、竹下さんのように努力すれば人生は変えられる、そう気付かされたんです」

■子どもに障害があることで、母親が泣きながら謝らなければならない社会は間違ってる

このとき、誠さんは「将来は弁護士になる」と心に誓った。だが、高等部に進み大学受験を目指す彼の前に、分厚い壁が立ちはだかった。

「受験勉強しようにも、点訳された参考書や問題集がないんです」

そこで誠さんは、盲学校の先生や先輩にお願いして、点訳ボランティアを募るところから始めた。膨大な量の参考書を、点字に訳してもらったのだ。受験可能な大学探しも苦労した。当時はまだ多くの大学が、視覚障害者に門戸を閉ざしていた。

「それでも、慶應義塾大学が受験を認めてくれて。僕は一浪ののち、同大学の法学部に入学できました」

苦難はまだ続く。今度は下宿探しが難航した。

「静岡から上京した母と不動産業者を回りましたが、僕が全盲とわかると、ほとんどの不動産業者から部屋を貸すことを拒まれて。それまで僕の目のことを悲観するような姿を一切、見せなかった母ですが、このときだけは違いました」

やはり、部屋を貸すことを断られた不動産会社からの帰り道。母は涙ながらに息子に言った。

「誠、ごめんね。アパート借りてあげられなくて……」

誠さんはこのとき、弁護士への思いを、さらに強くしたという。

「自分の子どもに障害があることで、その母親が泣きながら謝らなければならないなんて、そんな社会は間違ってる。社会を変えるためにも、僕は弁護士になる」

なんとか部屋も決まり、大学に通い始めた誠さん。ときに理不尽な扱いを受けながら、それでも充実した大学生活を送ったが、難関の司法試験が一筋縄でいくはずもない。大学4年、初受験の結果は「惨憺たるものだった」という。

大学卒業後は司法試験専門の予備校に通って勉強したいと考えた。しかし、大学受験のときと同じように、多くの予備校が全盲の彼の受け入れを渋った。ハンディキャップを改めて突きつけられる思いだったが、1校だけ、誠さんを受け入れてくれる予備校が見つかる。

「うれしいことにその予備校は『どんな人もサポートします』と言ってくれたんです。問題集など全教材を電子データで提供してくれたのも、ありがたかったです」

電子データであれば、誠さんはパソコンの読み上げソフトを使って、内容を音声で聞いて覚えることができるのだ。こうして、誠さんは猛勉強を重ね、3回、4回と挑戦を続けた。

「何度もくじけそうになりました。この先もずっと受からないのでは、という不安にも苛まれました」

それでも’06年、5回目の受験で誠さんは、ついに司法試験合格を果たす。その喜びを真っ先に伝えたくて、誠さんが電話した相手は、当時すでに交際していた亜矢子さんだった。携帯電話を握りしめる彼の?を温かな涙がつたっていた。

■なんの恩返しもできず逝ってしまった母。いま、かけがえのない人は亜矢子さんだった

亜矢子さんは’75年、千葉県で生まれ、2歳のときに静岡県に移り住んだ。

予定日より2カ月も早いお産。しかも、双子の妹として生まれた亜矢子さんの出生時の体重は、わずか1千200g。誕生後、すぐ保育器に入れられたが、その際の高濃度の酸素によって網膜が損傷し、視力を失ってしまう。

5歳のとき。母が「この子にも何か楽しみを見つけてあげたい」と、通っていた盲学校の先生にピアノを教えてくれるよう、頼み込んでくれた。以来、彼女のかたわらには、いつもピアノがあった。

中学からは、その後、誠さんも進学する筑波大附属盲学校に。ところが、当初は6畳間に3人の生徒が寝起きするプライバシーのない寄宿舎での生活になじめず、不登校にも。そんな亜矢子さんの心を癒してくれたのがピアノだった。

「生徒が自由に利用できる音楽練習室が5つもあって、どの部屋にもピアノが置いてあることを知ったんです。暗闇に光が差した感じがしました。以来、私は時間を見つけてはピアノを弾き、歌を口ずさむことで、救われたんです」

高等部では音楽科を選択。音楽家への厳しい道を歩み始める。ときにはあまりのハードな毎日に心身を病み、心療内科を受診したこともあった。だが、それでも高等部卒業後の’94年には、武蔵野音楽大学声楽科に進学。きついレッスン、いちいち自分だけ点字の楽譜を用意しなくてはならない煩雑さに音を上げそうになりながらも、’98年、無事卒業に漕ぎ着けた。

卒業後、亜矢子さんは弾き語りの仕事を始めた。そして、3年後の’01年、亜矢子さんのもとに1本の電話が。相手は誠さんだった。

「じつは誠さんの3つ下の弟さんも、誠さんと同じ病気を患っていました。小学生の私が通った盲学校に、弟さんも通ってきていたんです。その学校では私が6年生のとき、富士山登頂を目指す取り組みがあって。そのパーティには誠さんと弟さんの姿もあったんです」

のちに結ばれるふたりは小学校時代、すでに出会っていたのだ。

「十数年ぶりの連絡は出演依頼でした。地元・沼津の知的障害者施設で、誠さんたち兄弟がクリスマスにギターコンサートをすることになったそうなんです。でも、ふたりだけでは心許ないので私に参加してほしいという電話でした」

そして、このコンサートを機に誠さんと亜矢子さんは、たびたび会う機会に恵まれ、やがて、それは交際へと発展していった。

しかし、ふたりはなかなか結婚に踏み切れないでいた。誠さんはその理由を「結婚生活への漠然とした不安があった」と話す。

「目が見えない者同士が一緒になって、果たして幸せな家庭が築けるだろうか、そう思っていました」

交際期間が3年を過ぎた’09年、突然の不幸が訪れる。誠さんの母が急逝したのだ。

「58歳、早すぎる死でした。横たわる母のなきがらを前に、命のはかなさを痛感しました。なんの恩返しもできないまま逝ってしまった母に、僕は心の中で詫びました。同時に、いまの僕にとってかけがえのない人は誰かという自問も。答えはもちろん、亜矢子さんでした」

突然の母との別れが、誠さんに決断を促した。こうして’10年11月、誠さんと亜矢子さんは結婚。このとき、亜矢子さんのおなかには小さな命も宿っていた。

【後編】目が見えない夫婦の子育て 家族でかけあうたくさんの「ありがとう!」へ続く

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