高田馬場名物立ち食いそば屋が閉店に 女性店主供する天玉そばの味染みて

高田馬場名物立ち食いそば屋が閉店に 女性店主供する天玉そばの味染みて

高田馬場名物立ち食いそば屋が閉店に 女性店主供する天玉そばの味染みての画像

「うちの一番人気は、今も注文のあった天玉そば。天ぷらに卵で、一杯で栄養も満点でしょ」

〈サイフ、マスク、カバン、スマホ、カサを忘れないで!〉

立ち食いそば屋らしい店内の張り紙の脇に、6月末、こんな新しいメッセージが掲げられた。

〈吉田屋そば店は、2022年7月31日を以て閉店いたします。46年の長きにわたり、ご愛顧いただき誠にありがとうございました。吉田屋そば店主 草野彩華〉

ふうふう言いながらそばを食べていた男性客が言う。

「おばちゃん。このお店、7月で終わっちゃうんだって? 残念です。学生のころからだから、もう10年以上、通ってたのにな」
「私たちも、本当に残念なの」
「区画整理だそうですね……ごちそうさま。また来ます」
「まいど。最後までよろしくね」

彩華さんは、1歳のときから、ここ馬場で育ってきた。そば屋を始めてピーク時には1日800杯を供したというから、最盛期ということを差し引いても、700万回近くのお客との交流があったことになる。

それだけに、閉店は自身にとっても「断腸の思い」であり、その心労もあってか、6月初めには緊急入院もしたという。

■結婚相手は働かず、生活費は自分にかかって。父の提案で立ち食いそばを「やるしかない!」

「私の母は岩手の生まれで、父は台湾から12歳で来日してのち、薬問屋で働いていました。結婚した2人は、今から75年前の47年に高田馬場で幸寿司を始めたんです」

49年1月13日に彩華さんが、続いて弟2人が生まれると、この小さな店舗の上で6人が身を寄せ合って暮らしていたという。

「たった3坪の店の上が住まいでした。2階に両親と私たち姉弟で、3階が店を手伝っていた叔母の部屋。風呂なんて当然ありません。近くの銭湯で、まだ入浴料が10円だったと記憶してます」

彩華さんは、すぐに店の看板娘となる。

「お客さんと話すのが、子供のころから大好きでした。ランドセルしょって、店から小学校にも通いました。お正月には、日本髪に着物でお茶を運んだものでした.。もうこのころから、長女の私は、両親が繁盛させているこの店を、ずっと守り続けていかなければならないと考えていました」

高校を卒業後、店を手伝いながら、20歳の若さで結婚。

「ダンナとは行きつけの喫茶店が一緒でした。でも、結婚してすぐに彼はマージャンなど賭け事が好きで、消費者金融にも借金があることがわかって。それなのに釣りに凝ると、幻の魚・イトウを探して北海道へ行ったきり1カ月も音信不通というありさまで、生活の負担は全部私にかかっていました」

彩華さんは、女の子3人、男の子1人の子供4人を抱えて、父の寿司屋を手伝いながら、なんとか生計を立てていたが、あるときその父が言った。

「うちの前を、朝も昼も学生やサラリーマンなど大勢の人が通り過ぎていくだろう。うちの寿司屋は昼間は場所が空いているんだから、立ち食いそばでもやってみるというのはどうだい」

東京オリンピック後、都内の駅前を中心に、あちこちに立ち食いそば屋が出現し始めていた。

彩華さんは、すぐに神田の立ち食いそば屋へ修業に出た。背中には、まだ生まれたばかりの赤ん坊を背負ってねぎを刻み、どんぶりを洗い続ける。

流れる汗を拭いながら、自分に言い聞かせていた。

「この子たちは、私が立ち食いそば屋をして、立派に育ててみせる。絶対に負けない」

■夫の胃がんの治療費などで貯金が残高700円に。「立ち食いそばで頑張るぞ」が店主の矜持

負けず嫌いな彩華さんは、味にも徹底してこだわった。

「天ぷらは横浜の仕出屋さんから仕入れ、麺も大手製麺所に特注して。つゆは宗田節とかつお節の厚削りでだしを取った自家製で、調味料の砂糖や?油もザラメとヤマキと決めてました。開店後も四国の手打ちうどんを視察したり、評判の高い他店を食べ歩くなかで、改めて立ち食いそばは、早い、うまい、安いが鉄則だとわかるんです」

やがて、昼は娘のそば屋、夜は父親の寿司屋という家族の“二毛作”経営がマスコミにも注目され、ますますの人気店に。

「ピークのころは、1日800人のお客さんも。うちは8人でいっぱいになる狭さだから、いつも店の前に行列ができている状態でした。

でも、どんなに大勢の人に来てもらっても、私の心にゆとりはありませんでした。ダンナは相変わらず働かなかったので、私はもうけよりも、とにかく子供を食べさせることだけで精いっぱいでした」

その後、33歳で離婚して、2年のちに現在のご主人と出会う。

「天ぷら屋の職人でした。配達に来たときに、おいしいつゆの作り方を聞いたら、それは丁寧に教えてくれたの。そのやさしさは今も変わりません」

やがて、新たに子供が2人増えて、6人の子の母親となる。

「朝は5時過ぎには店に入りますから、正直言って、子供は保育園のお世話になりっ放し。当時、近くの無認可保育園の園長先生から『まだ生後2カ月のしわしわの赤ちゃんを預けていったのは草野さんくらい』なんて言われたことも。

とにかく、6人の子供を食べさせるのに必死で、入学式と卒業式はなんとか出たけど、運動会や学芸会などの行事には行ったことはなかった。子供たちには、本当にすまなかったと今でも思ってます」

彩華さんの苦難は続いた。

「夫が42歳で胃がんで手術したときには、入院費などで貯金残高が700円になったことも。そのときも、『また明日から立ち食いそばで頑張るぞ』と自分に言い聞かせて、踏ん張りました」

一転、80年代半ばのバブルのころには、駅前の好立地に目をつけた業者から土地売買の誘いが。

「けっこう強引だったり、とんでもない金額を積まれたことも。でも、私は、父の教えがありましたから。お金はたくさん持っても使えば終わり。しかし、店はどんだけ使い倒しても店として残る。きちんと商売すれば、ずっとお客さんを呼んでくれるものなんです。

まあ、うちは1杯何百円の商売ですから、バブルの恩恵は、ほとんどないも同然でしたが」

それ以上に、90年前後にバブルが弾けたときに、地道な商いの強さが立証された。

「バブルの最中、周辺に新たにオープンしていたおしゃれなお店が、やっと顔見知りになったと思ったら、バブル崩壊後には途端に姿を消したり。同業者の立ち食いそば屋もきのこのようにニョキニョキ出てきたと思ったら、バブル後になくなるのも本当に早かった」

そばの価格も、天ぷらそばを例に取ると、創業時の180円から390円、現在の470円と、物価上昇につれて少しずつ値段も上がってきた。だが、ワンコインで満腹になれる立ち食いそばは、今でも庶民の強い味方だ。

以前は忙しくなる時間も読めましたけど、最近は出社時間も自由だったり在宅勤務も多いようで、店のピークもなくなりました。

BIG BOX前の広場がコロナ禍で閑散としたのは、70年近い馬場での暮らしのなかで初めて目にした異様な光景でした」

吉田屋に、区画整理の話が出たのも、同じころだった。

「実は、もう何十年も前から話はあったんです。具体的になったのが、2年ほど前から。以前と違ったのは、周囲のお店が軒並み閉店していったこと。

まわりでは裁判なんて話も出ましたが、私は争い事はしたくなかった。だって、父が大好きな場所だったから」

とはいえ、けっして簡単に閉店を決めたわけではない。

「苦渋の決断、断腸の思いでした。それは、言っておきたい。私の夢は、18年前から一緒にカウンターに立っている四女に店を引き継ぐこと。さらにはその娘、つまりは孫娘へと。

だって、男の人は会社勤めすれば生活も安定するけど、女の人生は何が起きるかわからないでしょう。私がそうだったから。だから娘や孫に、生活の安定のよりどころとして、この店を残したかった。

弟が継いだ父の寿司屋もなくなりますが、やっぱり私の中には両親に申し訳ないという思いが強いんです。そんなプレッシャーもあったんでしょうね、6月2日に突然腸閉塞になって、自分で救急車を呼んで10日間入院しました。でも、そのことで踏ん切りがついたのも本当なんです」

彩華さんの入院を機に、品川区の大井町でそば屋「彩彩」を営むご主人が、自分の店を休んで、吉田屋の閉店まで手伝ってくれることになった。

「お母さん。長い間、ご苦労さま」

病院のベッドの上から閉店の決意を告げたとき、ご主人はこんな言葉で労ってくれたという。

「それを聞いて、46年ぶりに、ようやく重たい肩の荷から解き放たれた気がしました」

■ただそばを一杯一杯作り続けただけだが、その姿を見てくれていた人は確かにいた

「7月末でうちが閉店すると、もう8月には、この区画ごと取り壊されるなんて周囲の人は言いますが、私自身は、この先のことは聞かされていません」

彩華さん自身の、第二の人生についてのプランを聞くと、先日の入院中に、こんな出会いがあったんです。病室のお掃除をしてくれている女性に『失礼ですが』と年を聞いたら、『80歳です』って言うじゃないですか。

そうだ、私もまだまだ負けてられないと。ですから、シルバーなんて呼ばせませんよ(笑)。プラチナ人材の一人として、まだ元気なうちは新しい仕事を見つけたいです。あとは主人と映画を見たり、12人いる孫の遊び相手かな」

つい先日のことだ。彩華さんが早朝、店にやってくると、近所の大正製薬に勤める有志一同から、「長い間、お疲れさまでした」の手紙と共に、リポビタンDが袋に入って置かれていたのだという。

「贈り物もうれしいですが、それよりも、私はただそばを一杯一杯作り続けてきただけでしたが、そのコツコツまじめにやっている姿を見てくれていた人がいたんだなぁと、そのとき初めてジーンときてしまいました」

いよいよ「吉田屋」の閉店まで1カ月を切った。おばちゃんの味はもうすぐ食べられなくなるが、馬場を行き交う人たちの胃袋を満たしてくれた一杯のそばの温もりは消えない。

【後編】3代渡って通うお客さんも 名物立ち食いそば女性店主が見てきた人生模様へ続く

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