【勝負師たちの系譜】名人位にあと一歩届かなかった“不運の棋士”たち

★名人戦(3)

 名人位は400年の歴史があるだけに、その間には当然、悲運の棋士がいるし、悲劇の一局(一手)で、名人になれなかった棋士がいる。

 江戸時代末期には天野宗歩(そうほ)という天才棋士がいた。棋聖と呼ばれて日本一の強さを誇ったが、家元しか名人になれない時代だったので、七段で終わった。しかし悲劇は名人になれない宗歩でなく、宗歩に勝てない家元派の棋士たちであったろう。

 家元派一と言われた大橋宗a(そうみん)も宗歩に勝てず、連敗を重ねた。家元派が勝たねば権威を保てない宗aにとっては、命を懸けるような対局だった。

 時代は下り、関根金次郎13世名人が終生名人を返上した後、木村義雄14世名人が初の実力制名人となったが、この制度がもう少し早く始まれば、木村の兄弟子(共に関根門下)の土居市太郎名誉名人が名人になっていたと言われている。

 その少し前、関西の阪田三吉氏に敗れた関根の代わりに阪田を破り、師匠の名人の座を守ったのがこの土居だった。実力は高く評価されていたのに、名人になれなかった不運の棋士である。

 その阪田も支持者に担がれて「名人」を名乗ったため、東京の棋界から追放され、10年以上公式戦を指せなかったという、不運の棋士だ。

 戦後は痛恨の一手として、1948年の名人戦挑戦者決定三番勝負第3局で、升田幸三八段が大山康晴七段(ともに当時)相手に指した大悪手が有名だ。これが高野山の決戦である。

 終盤で飛車の王手に対し、合駒をすればそれで相手は投了だったのが、玉を上に逃げたために頓死となって挑戦権を逃し、結果的に大山に先に名人位を奪われたのだった。

 この後、升田が名人を奪うのは大山に遅れること5年となる。

 また1975年には土居の最後の弟子、大内延介(のぶゆき)八段が中原誠名人(ともに当時)への挑戦者となり、フルセットとなった。

 第7局は1日目から大内の勝勢となり、新名人誕生かと私も思ったが、終盤で飛車を取りに行ったのが手順前後で、入玉を許して持将棋に逃げられた。

 指し直しの第8局は良いところなく大内は敗れ、唯一の名人の機会を逃したのだった。

 ■青野照市(あおの・てるいち) 1953年1月31日、静岡県焼津市生まれ。68年に4級で故廣津久雄九段門下に入る。74年に四段に昇段し、プロ棋士となる。94年に九段。A級通算11期。これまでに勝率第一位賞や連勝賞、升田幸三賞を獲得。将棋の国際普及にも努め、2011年に外務大臣表彰を受けた。13年から17年2月まで、日本将棋連盟専務理事を務めた。

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