東京電力と右翼の黒幕「田中清玄」 共産党の発電所破壊工作を阻止した男(徳本栄一郎)

東京電力と右翼の黒幕「田中清玄」 共産党の発電所破壊工作を阻止した男(徳本栄一郎)

実業家で昭和のフィクサーでもあった田中清玄(1974年)

 猪苗代第一発電所は福島県の会津若松、日橋川(にっぱしがわ)上流にある。猪苗代湖の湖水を使う水力発電所で、周辺は豪雪地帯として知られる。冬季は近づくだけでも容易ではない。

 大正初期に完成した施設は、今も首都圏に電気を送る、東京電力の大切な資産だ。赤煉瓦の外壁が美しい建物は、日本遺産に認定されている。

 終戦直後の1950年の夏、この発電所を巡って、会津若松市内は一触即発の緊迫した空気が流れていた。

 東京から続々と乗り込んだのは、目つきの鋭い復員兵や元特攻隊員、空手の達人の大学生である。中には、背中一面に刺青を彫ったヤクザもいて、まさに異様な風体の集団であった。

 何かを探るように城下を闊歩し、共産党のポスターがあると乱暴に引き剥がす。それにヒステリックに抗議する者がいれば、無言で胸ぐらを掴んで殴り倒した。あちこちで乱闘も見られ、一体、何が起きてるのかと、市民たちは囁き合った。

 その最中の8月上旬、会津若松駅に、この集団の親玉らしき男が降り立った。年の頃は40代半ば、痩せ型の刺すような目差しで、戦後の混乱が残る当時に珍しく、背広に蝶ネクタイである。プラットホームに降りると、すぐに数人の用心棒が傍についた。

 男の名前は田中清玄、東京で三幸建設という会社を経営する実業家だ。が、彼が会津入りしたのは、橋や道路の工事の指揮などではない。首都の電力供給基地である猪苗代の発電所、それを共産党の破壊工作から守るためだった。

 戦後史の裏で暗躍して、いずこかへ去り、東京電力の社史に決して載らない男たち、それが田中清玄率いる電源防衛隊であった。

 右翼の黒幕として知られた田中だが、その生涯は波乱万丈、また「山師」「政商」「石油利権屋」と常に禍々しいイメージがつきまとってきた。

 明治の後期、1906年に北海道の函館で生まれた田中は、旧制弘前高校を卒業して東京帝国大学に進学、そこで共産党に入党した。当時、共産主義運動は非合法で、書記長になった彼は武装方針を取り、官憲と銃撃戦を繰り返す。その結果、治安維持法違反で逮捕され、11年を獄中で過ごすが、その間に母親が息子を改心させようと自殺、転向を決意した。

 戦後は刑務所時代の仲間らと会社を興し、建設業に乗り出す。また海外の石油権益獲得などを手掛け、中国のトウ小平やアラブ首長国連邦のザーイド大統領、インドネシアのスハルト大統領、はては山口組3代目の田岡一雄組長と絢爛たる人脈を築く。1993年に亡くなるまで「東京タイガー」と呼ばれた国際的フィクサーだった。

 そして、この東京タイガーと長年、水面下で連携したのが東京電力である。右翼の黒幕と電力会社、両者が一体、どうやって邂逅し、生涯を通じた関係を持ったか、答えは終戦直後の混乱にあった。


■「共産党討伐」


 敗戦で、わが国は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれたが、国内はまさに騒然としていた。それまでの秩序が崩壊し、人々は虚脱状態で、その精神的空白に入り込んだのが共産主義である。そして、GHQにより合法化された共産党は次第に過激化していく。

 一部は公然と武力革命を唱え、標的になったのが日本発送電、いわゆる日発(にっぱつ)だった。戦前に発足した国策会社で、全国の発電と送電を担い、後に分割、関東配電と合併して東京電力となる。その労働組合が、共産党に牛耳られていたのだ。関東配電の労務部長で、後に東京電力社長になる木川田一隆の体験は切実だ。

「戦時中、職場を死守し、会社のためには命をささげると誓ったひとびとが、こんどは赤旗をふりまわし、社長や役員をへいげいして、自己批判させるようなことになってしまった」(「私の履歴書」)

「かつては日本の電力の宗家ともいうべき場所が、完全に赤旗に包まれ、怒号はくり返された。わたくしは昼夜の別なく、激情にわく多数の組合員に包囲されながら、はげしい折衝をつづけねばならなかった」(前掲書)

「バカと呼ばれ、つらを洗って来い!とどなられるのは日常のこと。その(ばせい)の中には、いつも女闘士のカン高い声がまじっていた。わたくしの会社のある支店長のごときは、非民主的と呼ばれて、組合幹部の前に土下座してあやまらされるといった暴挙が随所に行われた」(前掲書)

 まさに民主主義のはき違え、集団ヒステリーだが、こうした事例は、大なり小なり政界や官界、言論界でも見られた。いわば国中が左翼思想にかぶれる中、いち早く共産党の危険性を指摘し、猪苗代が標的と警告したのが田中清玄だった。当時のインタビューに、本人の肉声が残っている。

「日発は共産党の牙城であり、われわれは昨年の夏から準備して、この三月から対共産党直接壊滅攻勢の火蓋を切ったものです。われわれとしては命をかけて電源防衛の配置についてきた」(「産業と貿易」50年11月号)

「もはや共産党自体は日本の労働者階級の前衛党ではなくて、ソ連赤軍の第五列に変質して来ています。今日の共産党はソ連の赤軍を日本に導入し、彼らの軍政権を樹立させるための第五列部隊だという点が本質でしょう」(前掲書)

 また猪苗代周辺の村議会も共産党が押え、ちょっと反共的な発言をすれば、つるし上げられ、脅迫され、行方不明になった者さえいるという。

「こんな暴力沙汰はザラですよ。そこは赤色暴力地帯だ。これが一体、民主々義ですか…。笑わせますョ…。労働省や通産省の役人でわれわれの電源防衛運動に反対するって云うなら、自分で発電所を回ってから文句を云えッてもんですよ」(前掲書)

 こうして無力な電力会社に代わり、共産党討伐の実力部隊を送ったのが田中である。だが、その実態は長らく謎で、東京電力の社史はむろん、木川田社長の回顧録にも記述がない。それを証言してくれたのが、三幸建設の元社員、太田義人だった。


■「じゃ、今すぐここで俺と勝負しろ」


 北海道出身の太田は、戦争中、東京帝国大学に入学してすぐ海軍予備学生となり、少尉として終戦を迎えた。復学後に三幸建設に入社、晩年まで行動を共にし、いわば田中の人脈と行動を最も知る人間だ。太田は4年前に亡くなったが、生前、私の長時間のインタビューに応じてくれていた。

「あの人は昔、東大の空手部にいてね、私も空手をやってたんで先輩に当たるんですよ。その田中が、横浜で神中組っていう会社をやってて金回りがいいというから、カンパを貰いに行った。それが、そもそも始まりですよ。そして神中組が三幸建設に変わって、大学を卒業する時、『お前、これからどうする。よかったら、うちに来んか』って言うんで、まぁ、大学の先輩という感じで、それで入社したんです」

 そして入社早々、太田は社長室に呼ばれて、こう告げられたという。

「すぐに会津若松の猪苗代に行け、って言うんです。共産党が発電所をぶっ壊そうとしてる、東京を暗黒にして革命をやるつもりだ。とにかく行って準備しろ、後で行動隊を送る、と。たしか、5000円貰って行きましたね。行くと、発電所で赤旗立てて朝礼やってるんだ。インターナショナル歌ってね。でも、課長や係長もびびっちゃって何もできない。地元の警察は、『うちも、どうしていいか分かりません』なんて言ってるし」

 若い太田が見たのは共産党の解放区のような光景だったが、そんな中、どうやって電源防衛に取り組んだか。

「まず、発電所の所長に挨拶に行って、社員の名簿を手に入れたんです。二百数十名かのね、それを電産と民同に色分けして下調べから始めました。民同派は最初、3名位しかいなかったね」

 当時の日発の労働組合は日本電気産業労働組合、いわゆる電産だが、その執行部は共産党が支配していた。役員に罵声を浴びせたのは、彼らだ。一方、共産党を排除した民主化同盟派、いわゆる民同派もあり、それを支援して組合を押える戦略だった。

 太田は、橋の工事などを請け負う三幸建設の事務員を装い、情報収集を続け、そうこうする内に東京から行動隊が到着した。

「田中が配下の勇ましいのを送ったんだが、凄い連中がやって来た。復員兵や特攻隊員、大学で空手やっとった学生、あと背中に彫り物入れた本物のヤクザね。皆、発電所で雇いました。工事しながら、会津若松市内で共産党のビラを剥がす。で、こっちのビラを貼ってね。会津再建青年同盟というのも作ってやりました。共産党と殴り合いもしょっちゅうだけど、最後はうちが勝った。そうして1年経った頃、発電所の全員を集めて約28名を指名解雇したんです。普通なら連中も大暴れするが、こっちも周りを押えたからね」

 平気で役員を怒鳴る共産党員も、ヤクザ相手には黙り込むしかなかった。こうして猪苗代は民同派が多数となり、状況は一変するが、ここで疑問なのは電源防衛の資金である。荒くれ男たちの旅費や給与、ビラの製作費など結構な金がかかったはずだ。太田が即座に答える。

「そりゃ、やはり電力会社ですよ。自分が事務主任の時は、仕事で20人使うのに10人ばかり余計に入れるんです。本当の工事費に乗せてね。所長に話をつけて、向こうで出してもらってました。うちでは『第二工事』って呼んでましたね。念のため、腕っぷしが強いのを所長のボディーガードにつけたけど」

 こうした共産党討伐の秘密工作、もとい第二工事のクライマックス、それが1950年8月13日に会津若松で開かれた電源防衛総決起大会だ。市内の公会堂に民同派の組合員ら六百名余りが集まり、東京から駆けつけた田中も激烈な反共演説を行った。

「田中も時々演説しに来たけど、一度、会場の隅から野次が飛んだ事があった。『田中清玄! そんなこと言っても、革命が起きたら、お前は真っ先に銃殺だ!』。そしたら、うちの田中が激怒してね、『じゃ、今すぐここで俺と勝負しろ』って、演壇から降りて殴りかかろうとするんだ。慌てて止めたけど、相手もびびって逃げてっちゃった」

 こうなるとまるで映画や小説の一場面だが、念のため言うと、日発は後に9つに分割され東京電力となる。社長になる木川田一隆を始め、要職に就いた日発、関東配電出身者も多い。

 それが電力の安定供給へ、ヤクザも動員した闘争を黙認、裏帳簿で資金も提供していた。東京電力の社史から、田中や電源防衛隊の記述が丸々抜けているのも無理はない。

 そして皮肉にも、猪苗代の発電所の防衛、その最大の障害になったのが当の日発であった。太田の証言を続ける。

「猪苗代支社長の中山さんは技術屋だけど、マルクスを読んで、共産党の話が分かる。だから連中と互角に話しちゃうんです。平和な時なら、それでいいよ。だけど、あの時は戦争なんだ。それじゃ首切りとか、徹底的なことができない」

 中山俊夫は、早稲田大学の電気工学科を出て日発に入社し、後に東京電力沼津支店長も務めた。根っからのエンジニアだが、太田たちは、彼が現場にいると共産党には勝てないと結論づけた。が、一下請け業者に雇い主を首にする権限などない。そこで田中が取った戦術に、太田は驚愕したという。

「あの時、やって来たのが、田中の共産党時代の仲間です。筋金入りの活動家だ。それが1人で会津の山に籠ってね、ずっとビラを書いてるんだ。架空の団体のね。中山さんがどこそこの芸者と遊んでた、共産党員と会ったとか、それをばら撒いてから本店に乗り込む。支社長を替えろって。それで中山さんは首になった。そりゃあ、凄かったよ、共産党の昔の奴は」

 現代風に言えば、“フェイクニュース”だろうか。

 自分たちに目障りな人間や組織のスキャンダルを流し、社会的に葬ってしまう。今ならビラでなくソーシャルメディアだが、すでに半世紀以上も前、それを自在に駆使していた。流行りで革命を叫ぶのと違う、非合法時代を生き抜いた共産党員の凄さだ。

 こうして猪苗代の発電所には静寂が戻り、電源防衛隊は引き上げた。東京電力にとり、汚れ仕事を受けた田中は恩人であり、その後も両者は関係を維持していく。その激しい気性と行動力が、会社のニーズと一致したのだった。

 だが、こうした気性はいくつもの軋轢も呼び、ついには本人の生命の危機をもたらしてしまう。暴力団員の手で、身に3発の銃弾を受けた「田中清玄狙撃事件」である。(続く)

徳本栄一郎(とくもと・えいいちろう)
英国ロイター通信特派員を経て、ジャーナリストとして活躍。国際政治・経済を主なテーマに取材活動を続けている。ノンフィクションの著書に『エンペラー・ファイル』(文藝春秋)、『田中角栄の悲劇』(光文社)、『1945 日本占領』(新潮社)、小説に『臨界』(新潮社)等がある。

デイリー新潮取材班編集

2021年3月26日 掲載

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