「緊急事態宣言」という仰々しい言葉が果たした役割とは(古市憲寿)

「緊急事態宣言」という仰々しい言葉が果たした役割とは(古市憲寿)

イラスト・k.nakamura

『大辞泉』によれば「緊急」とは「重大で即座に対応しなければならないこと」という意味である。

『世界大百科事典』によれば、「緊急事態」や「非常事態」とは「戦争、内乱、天災地変等の事態が、通常の統治体制ではそれに対処できないと考えられる場合」だという。

 東京では、その「緊急事態」が何カ月も続いている。

 人々がニュース速報のアラームに身構えるのは、それがめったにないことを知っているからだ。もしもアラームが四六時中鳴り響いていたら、それは日常になってしまう。同じことが緊急事態宣言にも当てはまる。

 そもそもこの1年間を振り返ると、2020年4月に1回目の「緊急事態宣言」、11月には「勝負の3週間」、12月には「真剣勝負の3週間」、そして1月からは1カ月の予定で「緊急事態宣言」、2月には宣言の延長、3月には再延長があった。

 友人曰く「ボジョレーヌーヴォーみたい」。毎年11月の解禁時にはそれなりの盛り上がりを見せるが、販売業者のキャッチコピーが振るっている。ウィキペディアに並ぶのは「ここ10年で最もいい出来栄え」「110年ぶりの当たり年」「100年に1度の出来とされた2003年を超す21世紀最高の出来栄え」などの文言だ。

 もっとも宮崎駿の「引退宣言」同様、ネットで面白おかしく語られすぎているきらいもあるのだろう。そう思って、エノテカがまとめていたフランス食品振興会による公式見解の和訳を抜き出してみると「ここ10年で最高」「並外れて素晴らしい年」「とてもうまくいった年」「桁外れに素晴らしい年」。具体的な数字を使っていないだけで、やはり大げさな気がする。

 大方の人が気付いているように、新型コロナウイルス対応はすっかり政治化してしまった。エクモ治療の実施件数や重症患者数などのデータではなく、政治的立場や政局が重視され、政策が決まっていく。その時点で、すでに「緊急」でも何でもないと思うのだが、振り返れば大震災や戦争が起こった時も、ままエビデンスよりも政治が重視された。

 人間社会の限界なのだろう。AIに任せれば済むという話ではない。感染症対策にしても国防にしても、たった一つの正解があるわけではない。いくつかの最適解らしきものは、他国や過去の事例から示せても、どれを選ぶかは政治家に任されている。社会的に重要な決断には、どうしても政治的思惑が介在してしまうのである。

 それを隠すように、各国のリーダーは雄弁を振るったり、「緊急事態宣言」のようなキャッチーなコピーに頼ったりする。日本の緊急事態宣言には法律的な裏付けもあるが、それ以上に仰々しいネーミングが果たした役割は大きかったと思う。だが2回目の宣言はつまらない続編映画のようだ。どうせならボジョレーヌーヴォーや映画を参考にして、「並外れて真剣な緊急事態宣言」「今世紀最大の緊急事態宣言」「ザ・緊急事態宣言・ファイナル」などを発出してみたらどうだろうか。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

「週刊新潮」2021年4月1日号 掲載

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