「人柄が全くと言っていいほど見えてこない」 川崎20人殺傷事件、犯人の「のっぺらぼう」な生い立ち

■「皆、私のように実感がないんだと思う」


 令和元年5月28日に起きた川崎20人殺傷事件。犯人である岩崎隆一はどのような街で育ち、どのようにこれまでの人生を送ってきたのか。令和元年に起こった象徴的な事件を追うノンフィクション『令和元年のテロリズム』(新潮社)を刊行したライターの磯部涼氏によるルポ。連載第2回。

(磯部涼『令和元年のテロリズム』(新潮社)より抜粋)

※取材は令和元年8月に行われた

 ***

「ほら、あのナナフシ、大きいでしょう」。夕暮れ時、盆踊りの輪を眺めていると、隣にいた高齢の男性が不意に言った。彼が指す方を見ると、グロテスクなくらい大きなナナフシが木にとまっている。「本当だ。大きいですね」「そうでしょう。あんな大きなもの、なかなかいないですよ」。男性は何処か得意げだった。頭上からはやはり都内で聞くことが少ない、ヒグラシの鳴き声が響いてくる。ここは川崎市麻生区多摩美の多摩美公園。公園と名付けられているが空き地のような場所で、奥には多摩丘陵の深い森が広がっている。第1回で書いた通り令和元年8月1日と2日、川崎殺傷事件現場前の登戸第1公園で盆踊りが行われたが、前週の7月27日には犯人=岩崎隆一の自宅があるこの街でも開催されていた。

「余所(よそ)から来たんですけど、この盆踊りは昔からやっているんですか?」。そう聞くと、男性は頷く。「もう長いこと続いていますが、毎年、住民だけで運営しているんですよ」。確かに広場中央のステージを取り囲む屋台店は手作りの雰囲気で、いわゆるテキ屋の猥雑さはない。大して特徴のない、如何にも住宅街の盆踊りだとも言えるが、意外なくらい若い夫婦と子供が多く活気がある。一方で、登戸第1公園に漂っていた追悼の雰囲気も全くないのだった。

 タイミングを見計らい、話題を変えてみる。「そういえば、この街って例の犯人が住んでいたんですよね」。男性は顔色を変えずに言う。「近所だっていう実感がないんですよ」。男性は多摩美に30年以上住んでおり、自宅は岩崎家と道を3つ隔てた距離だが、同家のことは何も知らないのだという。「この盆踊りにしても、東日本大震災があった年は親類に亡くなった人がいるかもしれないということで中止にする案が出たんですが、今回の事件は議題にすら上りませんでしたね。皆、私のように実感がないんだと思う」。

■岩崎邸のある住宅街の風景


 実は事件の取材をしていると男性に言うと、彼は渡した名刺をじっと見つめ、町内の人々が集まっているところへ持って行った。場がざわつき始める。潮時だと思い、会釈をして公園を後にする。住宅街の急勾配を上って、岩崎邸の前に着く頃には祭囃子は聞こえなくなっていた。さらに少し上ると街の頂上から北西方向に、東京都稲城市と川崎市多摩区にまたがる大型レジャー施設〈よみうりランド〉が見える。振り向けば、多摩丘陵沿いに一軒家がびっしりと立ち並んでいる。

 多摩美は広大な多摩丘陵の、東の端に造られた住宅街だ。もともとは山林や畑だった土地で、昭和32年に宅地開発が、34年に入居が始まった。第1世代は協力して都市ガスを引いたり、私道を公道へ変えたりと街づくりに取り組んだという。寺院がなかったため、41年には築地から浄土真宗・妙延寺を呼び寄せている。住居表示に“多摩美”が採用されたのは53年で、名はこの地の自然の美しさに因んだ。岩崎家の登記簿謄本を調べてみると34年に隆一の祖父が土地を購入して家を建てているので、まさに入居第1世代に当たる。

 しかし多摩美で岩崎隆一の存在感は薄い。事件発生直後はこの静かな住宅街に大勢の記者やカメラマンが押し寄せ、興奮状態の中で囲み取材に応じた住民もいたが、今はほとんどが口をつぐんでいる。何かを隠しているというよりは、これまでの情報を統合しても、大して何も知らないのが実情だろう。現在、岩崎邸はインターフォンのボタンを押しても、チャイムが家の中で響く音が聞こえるだけである。建物は近所でも際立って古く、ほとんど改装をしていないように思える。


■近隣住民が見た岩崎家


 岩崎邸と同じ区画に住む90歳の女性は、玄関先でかつての多摩美の様子を説明してくれた。「昔、この辺りには蝶がたくさんいましてね。花に寄ってくる様子を楽しんでおりました」。昭和40年、都内の中高一貫校に理科の教師として勤めていた彼女と、同じく教師の夫が越してきた頃にはまだ家は所々に建っている程度で、多摩丘陵の自然が豊富に残っていたという。そして前述した通り、岩崎家は既に居を構えていた。「今、お隣の家が建っている場所も当時は原っぱだったのですが、岩崎さんのおじいさまが草を鎌で刈ったり、環境に気を使われていたことを覚えております」。女性は幼い隆一の姿も記憶にある。「ただ皆さん、実の兄弟だとばっかり思っておりましたからね……」。後述するように隆一は早くに両親が離婚し、岩崎邸で伯父夫婦の2人の子供たちと共に育てられたのだ。

 女性が入居してからしばらく経つと、多摩美にも住宅が次々と建っていった。「最寄りの小田急線・読売ランド前駅から通勤していたのですが、電車が本当に混雑して。新宿駅に着いても今のように乗り換えが便利ではないので、いったん外に出なくてはいけなかった。私は背が低いものですから、雨の日は人様の傘が屋根のようになった下を通って行きましたよ」。岩崎邸は平成2年に所有権が隆一の祖父から伯父へと移っている。その時期に祖父が亡くなったようだ。女性は葬儀にも出席したという。「とにかく、ご近所さんもみな良い方でございまして、環境も静かな良いところでございまして、だからどうしてあんなことが……」。

 女性が言葉に詰まると家の奥から鼻に人工呼吸器のチューブを着けた男性が出てきて、「もうそろそろ勘弁して下さいよ」と言った。やはり90歳になる女性の夫で、子供はいないためふたりで暮らしているという。彼にも話を聞きたかったが、耳が悪いようで難しかった。玄関先に停められていたBMWは埃をかぶり、長い間、動かされた気配がなかった。

 多摩美にも日本の多くの街と同様、高齢化の問題が迫っている。道ではデイケアの車と頻繁にすれ違うし、そもそも岩崎家の裏手の家はデイケア・センターとして使われていた。民家かと思いチャイムを押すと制服を着た男性が現れて、迷惑そうに「この辺りのことは何も分からない」と言うだけだった。

 一方、読売ランド前駅で乗ったタクシーの運転手は、岩崎邸に頻繁に呼ばれ、隆一の伯父を病院へ送り届けていたと証言した。多摩美の坂は急で、高齢者が生活するには非常に不便な土地だ。だからこそ家を売って施設に入り、空いた家にまだ子供が小さい家族が住むという世代の循環も起こっている。多摩美の一戸建ての家は現在2千万円台より販売されており、都心に近い場所で自然に囲まれて子育てがしたいのならば買い得だと考える人もいるだろう。そして事件前、岩崎家の伯父夫婦の場合はまさに多摩美から介護施設へ、転居を検討している時期だった。


■作家・島田雅彦が語る多摩区


「事件はどういうふうに知ったんだっけかな……」。島田雅彦はキッチンでストロングゼロを呷り、スペイン産の赤魚をさばきながら回想する。「まず犯行現場が登戸で、カリタスの子供たちが襲われたと聞いて、すごく近い場所で起こった事件だと思ったわけですけど。その後、犯人の自宅の住所が分かって驚きましたよね」。炎天下に坂道を上ってきたので、大理石の床がひんやりとして気持ち良い。冷えたビールを飲みつつリビングの大きな窓の外に広がる鬱蒼とした森を眺めていると、果たして自分がどこにいるのか分からなくなってくる。――いや、ここは他でもない多摩美である。「今日はB級ですけどね」。島田がテーブルに運んできてくれた手料理はどれも手が込んでいて、それらを肴に、芥川賞選考委員を務める作家と無差別殺傷事件の犯人が交差した街について聞いた。

 島田によると、多摩丘陵に住み始めた第1世代の文学者としては庄野潤三が挙げられるという。昭和36年、庄野は小田急線・生田駅から丘を上っていった現在の川崎市多摩区三田にあたる土地に、彼曰く“山の上の家”を建て、家族で住み始めた。その生活は代表作『夕べの雲』(講談社、昭和40年)を始め、多くの作品の題材となっている。島田は言う。「その頃は生田から庄野さんのお宅まで一軒も家がなくて、途中に落ちているものは全部自分たちのものだと。ただ、家を見晴らしのいい丘の上に建てたものだから、最初、ものすごく後悔するわけです。風がビュービュー吹きっさらすので。それで風避けの木を植えようとすることが『夕べの雲』に書かれていますね。わんぱくな息子さんがアオダイショウを首に巻いて帰ってきたり、ワイルドライフですよ」。

 島田は庄野が“山の上の家”を建てた昭和36年、東京都世田谷区の深沢で生まれている。そして4歳の時にやはり現在の多摩区にあたり、多摩川沿いに位置する稲田堤へと移住した。「当時の世田谷もまだ自然が残っていましたけど、稲田堤は多摩丘陵を開拓して住宅地をつくり始めた頃でしたから。道路も舗装されていなくて荒野というか、西部劇みたいなところだと思った記憶があります。実際、よく時代劇のロケをしていた。電柱が立っていないからちょうどいいんだ。つまり、多摩丘陵と多摩川という自然の間に“おでき的”に生じた町が自分の原風景ということになりますかね」。


■小説に描かれた多摩丘陵の風景


 島田の自伝的小説『君が異端だった頃』(集英社、令和元年)では、内気だった少年時代、実家の裏に広がる多摩丘陵の自然は煩わしい人間関係から逃れるためのシェルターのように機能したと書かれている。あるいは捨てられていた雑誌のヌード写真を通して、性を目覚めさせてくれた場所として。やがて川崎北部=多摩区の新興住宅地から、南部=川崎区の工場地帯にある県立川崎高等学校に越境することになった島田は、そこで充実した人間関係に恵まれることになる。「“北部のやつって、学業と部活の両立で悩んでるんだぜ”ってバカにされるわけです。不良も多かったですけど、文芸部の先輩がスケバンで、彼女に可愛がられたことで助かった」。ちなみに、金属バット両親殺害事件の犯人=一柳展也は島田と同学年。やはり浪人生活を経て東京外国語大学外国語学部露語学科に入学した島田は、自分と同じ歳の2浪の青年が、同じ川崎北部で起こした事件が強く印象に残っているという。「(一柳家があった)宮前平もよく知っているところだったので。小学校のときからあそこのプールに通っていたんです」。

 そして大学に合格した次の日、島田が久しぶりに多摩丘陵へ向かうとそこは一変していた。「君がかつて自分の怒りと悲しみを捨て、縄文土器を拾い集め、裸のヴィーナスをかくまっていた雑木林は消滅し、陰影のないニュータウンが出現しようとしていた。もう自我の目覚めを促してくれた森に帰ることはできない。この先は知らない世界に出かけてゆくほかない」(『君が異端だった頃』より)。

 しかし時が経ち、子供が生まれた平成4年、島田が新居に選んだのは稲田堤と同じ川崎北部=麻生区多摩美の丘腹に建つ古家だった。彼はシェルターに戻ってきたのだ。やはり原風景の郊外で子育てをしたい、ただし多摩ニュータウンのように多摩丘陵を切り崩して造った街ではなくもともとの地形が残っている街、急行は止まらないけれど駅から近い街――などなど、諸々の条件に見合ったのが多摩美だったという。「最初に越してきた日、夜にひとりで寝たんですけど、静か過ぎて耳が痛くてね。朝になったら今度は野鳥の鳴き声がうるさくて起こされた。それだけ自然が近いんですね」。島田が買った古家は多摩美の入居第1世代のもので、引っ越してきた頃はちょうど住民の世代が入れ替わろうとしていた。「相続した家もあるでしょうけど、私の家のように売買で持ち主が変わるケースも多くて。あとは最近、増えているのがアパートを建てたり、シェアハウスにしたりAirbnbに登録したり。私も平成12年に家を建て替えた」。


■「多摩美であの犯人を見たことがあるかもしれない」


 件(くだん)の盆踊り(註:第1回を参照)はなかなか盛況だったが、ほぼ平成を通して街の移り変わりを見てきた島田にとっては、コミュニティが弱体化したと感じるようだ。「若い夫婦は町内会に入りたがらない人も多いので、近所付き合いが無くなってきていると思いますね。昔、近所の子供が集まる駄菓子屋があったんですけど閉まってしまったし、スーパーも潰れて、今は皆、車で最寄りではいちばん栄えている新百合ヶ丘まで行く」。そんな中、川崎殺傷事件が起こった。

 一時期、多摩美を離れていた岩崎隆一がこの街に戻ってきたのは、島田が移住して5年ほど経った頃である。以降、隆一は伯父夫婦の家の6畳間に引きこもった。島田は言う。「自分はひょっとしたら、事件よりもずっと前に多摩美であの犯人を見たことがあるかもしれないんですよね。犯行時って黒い服だったでしょう。同じような格好で、挙動不審だったから印象に残っているんです」。隆一にとっては自室がシェルターだったのだろうか。彼は時折そこから外に出る際、身を隠すように黒ずくめを選んだのかもしれないが、その姿は街の景色が変わっていく中、異様な存在として浮いていたのだ。


■生い立ちと事件を関連づけていいのか


 事件までの経緯を改めて振り返ろう。まず、犯人=岩崎隆一の人生を辿っていくと、昭和42年12月28日に生まれた彼の幼少期は平穏とは言い難い。4、5歳の頃に両親が離婚し、父親が親権を持つ。そして身を寄せたのが多摩美に建つ実家である。そこには隆一にとっての祖父母、伯父夫婦と従姉兄が住んでおり、大所帯での生活が始まった。しかし隆一の父親はすぐに“蒸発”してしまう。

 隆一の少年時代に関して、祖父母の家で差別を受けていた、従姉兄に比べて無下に扱われていたと証言した近隣住民がいる。一方、前述したように岩崎家と同じブロックに住む90歳の女性は「実の兄弟だとばっかり思っておりましたから」と語り、分け隔てはなかったという印象を持っていた。親族は取材に対して口をつぐんでいるが、子供たちの境遇の明らかな違いとして分かっているのは、従姉兄は私立小学校に、隆一は地元の公立小学校に通っていたことである。ちなみに従姉が通っていたのが、まさに事件の標的となったカリタス小学校だ。そこから、犯行の動機には岩崎家における扱いに対する積年の恨みがあったのではないかという憶測が広まった。とはいえ、進路に関しては祖父母や伯父夫婦が差別したわけではなく、例えば隆一の卒園時にはまだ父親がいて、彼が地元の多くの子供と同様に公立小学校に通わせることを決めたとしても不自然ではない。また、伯父夫婦は事件が起こるまでの長期間、引きこもった隆一の面倒を見ていたわけで、彼を家族の一員と思っていなければできないことだろう。

 小学校の卒業アルバムで隆一について同級生が書いた「“へっこき”とよばれています。岩崎君は“へっこき”“へっこき”とよばれて、なんともないのかしら」という文章が報道されたことから、彼がいじめを受けていたのではないかと見る向きも多い。ただし、これも以下のように続く文章全体に目を通してみると印象が変わってくる。「岩崎君は、先生におこられているときが多いです。授業中もふざけているときとまじめなときがあります。字は以外(引用者注:原文ママ)とうまいです。給食を食べているとき岩崎君をみているととっても早くていつも全部食べてしまいます。岩崎君はいつも男の子たちとボールであそんだり友達にのっかったりしてふざけることもあります」。ここから浮かび上がってくるのは、ごく普通の少年の姿だ。“へっこき”のくだりにしても、同級生が子供らしくふざけた調子で書いた文章とも読める。

 その後には担任教師から隆一へのメッセージが掲載されている。「動物の世話が大好き。けんかも……好きなのかな? 一人でいる時は、とっても、もの分かりのいい子なのですが……。勉強は、人をたよることが多かったですね。自信を持って!」。担任が隆一の性格に注意を払っていたことが分かるが、このような子供はいくらでもいるだろう。もちろん、両親の離婚や父親の失踪程度で苦労したとは言えない、“へっこき”と呼ばれた程度でいじめとは言えない、などとその境遇を軽んじたいわけではない。そうではなく、事件と犯人の生い立ちとを結びつけるにはあまりにも情報が足りないのだ。そもそも、近隣住民にしても同級生にしても隆一のことを覚えていないと話す者の方が多く、微かな記憶を事件から遡る形で引っ張り出す時、あたかも特殊な人物だったかのように脚色が加えられてしまった可能性を考慮しなくてはならない。


■「承認要求のようなものが、まったく感じられない」


 隆一は小学校を卒業後、地元の公立中学校に進学したが、彼の学年は11クラスもあったという。隆一が生まれる前年=昭和41年は干支で“丙午(ひのえうま)”にあたった。60年に1度巡ってくるこの年は不吉だとする迷信は、当時、今よりもずっと信じられていて、いわゆる産み控えが起こる。そのため、第2次ベビーブームに向かって子供の数が年々増加している時期だったにも拘らず、昭和41年は出生数が前年比で25%減少。対して、昭和42年は42%増加となる(*7)。つまり、隆一も両親が災いを避けるために昭和42年を選んで産んだ子供なのかもしれない。そしてそんな大勢の生徒の中、彼は大して特徴のない少年だったのだろう。事件直後、隆一の同級生のLINEグループは騒然となったが、彼はそのグループにいなかったし、彼の近況を知る者すらいなかったという(*8)。

 ましてや、隆一は事件直後に自死してしまった。犯行の意図について何も語らないどころか、自室にも事件の背景を読み取れるものはなかった。更にパソコンや携帯電話を持たず、インターネット上にも彼の人生の痕跡は見つかっていない。事件直後の捜査関係者の言葉に「人柄が全くと言っていいほど見えてこない。本当に実在したのかと思うくらいだ」というものがあったが、取材を取りまとめた大手新聞社のデスクは「いわゆる通り魔事件や無差別殺傷事件の犯人に往々にしてみられる承認欲求のようなものが、まったく感じられなかった」と振り返る。川崎殺傷事件を分析するにあたって度々引き合いに出される平成11年の池袋殺傷事件、平成13年の大阪教育大学附属池田小殺傷事件、平成20年の秋葉原殺傷事件、平成28年の相模原障害者施設殺傷事件などでは、犯人たちは事件前後に多くの言葉を残しており、そこからは彼らにとって、犯行がある種の身勝手な自己表現だったことが伝わってくる。しかし、隆一の場合はどんなに情報を掻き集めても、彼のイメージはのっぺらぼうのままである。


■「麻雀は物凄く強かった」


 隆一にまつわるエピソードで最も人間味を感じさせるのは、“雀士”としてのものだ(*9)。昭和58年に地元の公立中学校を卒業した彼は、横浜市にある職業訓練校の機械科に進学。2年間学んだ後、同校の紹介で就職するが、その頃から町田駅近くの雀荘〈J〉に入り浸るようになったという。やがてそこで従業員として働き始め、近所のアパートに部屋を借りる。〈J〉での仕事の内容はウェイターの他、自身の金で客と麻雀を打つ“本走”も務め、営業後は隆一の部屋に同僚が集まった。当時の友人が振り返るのは青春の日々を送る、至って健全な若者の姿だ。

 島田雅彦にとって、川崎北部の新興住宅地にある実家の裏に広がる多摩丘陵の自然は、煩わしい人間関係から逃れるためのシェルターのように機能した。そんな島田の人生は川崎南部の工場地帯にある高校に通い、均一的な北部とは違う雑多な人間関係に巻き込まれる中で動き出していく。隆一もまた多摩美から出たことで世界の広さを知っただろう。そして島田も隆一も30歳を過ぎた頃、再び多摩丘陵で暮らすことになる。ただし、前者が多摩美に家を買った目的が、子育てという未来へ向かう営みのためだったとしたら、後者が同町の実家に帰ったことは、振り出しに戻ったことを意味しただろうし、結局はそこが行き止まりだった。

 雀荘〈J〉の元オーナーは、隆一のことを以下のように思い出す。「麻雀は物凄く強かった。責任感も強かったので、夜中から朝10時までの夜番の主任を任せていました。メンバーは自分のカネで現金打ちをするから、給料が20万でも負けが続けばアウト(店への借金)を作ってしまうものですが、彼は10代なのにいつも7万、8万のカネをポケットに入れて、それだけで賄っていた。麻雀をやる人間は、ゲームの時に財布を出すと舐められるから財布を持たないんです」。約30年後、20人を殺傷した直後に自死を遂げた彼のジーンズのポケットには、10万円が裸で入っていたことが報道された。それを知った元オーナーは、「『彼らしいな』と思いました」(*10)と言う。

 第3回に続く。

*7 井戸まさえ「【川崎事件】岩崎容疑者はなぜ伯父夫妻を襲わなかったのか」(〈現代ビジネス〉、令和元年6月5日付)を参照
*8 「週刊ポスト」令和元年6月14日号を参照
*9 “雀士”としてのエピソードは「週刊文春」(文藝春秋)令和元年6月13日号を参照
*10 〈J〉の元オーナーの発言は同上より引用

2021年4月10日 掲載

関連記事(外部サイト)

×