【原発処理水】「風評を心配」の声を伝え続けるメディアの問題点は

 13日、政府が東京電力福島第一原発から出る処理水を海洋放出する方針を決めたことについて、テレビや新聞は一斉に大きく報じた。長年の懸案だっただけに、扱いが大きくなるのは当然だ。

 一方で、ほとんどのメディアが「風評被害」を気にする漁業、農業関係者の声を大きく伝えていたことについては、見解が分かれるところだろう。

「実際に心配している人が存在している以上、それを伝えるのが当然」

 メディア側にそういう考え方の人が多いことが、心配の声が大きく伝えられることになる要因の一つだ。

 しかし一方で、「そもそも風評ならば、それを打ち消していくのがメディアの役割では」という考え方の人もいるだろう。

「心配している人が存在している」という点では、新型コロナのワクチンについても同様で、特にネット上にはさまざまな「危険説」「陰謀説」が流布しているが、そういう声はほとんど取り上げられていない。

 本当に風評被害を心配している人のため、地元の人たちのためになる報道とはどういうものなのだろうか。


■メディアの仕事は風評を「心配する」ことではない


 東日本大震災以降、定期的に被災地に足を運び取材をしてきたニッポン放送アナウンサーの飯田浩司さんの著書『「反権力」は正義ですか』には、「一体風評を広めているのは誰か」と題された章がある。

 飯田さんは、福島など被災地の農業・漁業関係者たちが震災以降取り組んできたことを取材、紹介したうえで、伝える側の問題点を指摘している。以下、同書から引用してみよう。

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 現実として安心と安全は違います。私の個人的な理解は、安全は科学的な根拠により担保されるものである一方、安心とは“心”という文字が入っているように人間の心の部分、信条に深く依存するということです。安全であるという科学的事実を根拠に説明することは可能でしょうが、そこから先の安心にまで行きつくかどうかは人それぞれ。民主主義国家である日本で安心を強制することはできません。

 では、そのような中でメディアの役割はどこにあるのでしょうか? 科学的に安全なのであれば、報道する者としては「安心への懸念」にも配慮しながら、安全という「事実」に立脚した報道をすべきなのではないでしょうか。

 たしかに科学的・学術的な事象を報道すると、とかく「難しい」という批判を浴びがちです。マスコミでも「一般人の肌感覚」が重視され、専門家に任せてきた分野に“市民感覚”でコメントするシーンが多くあります。ただ、この“市民感覚”は非常に揺らぎやすいモノ。メディアは“市民感覚”にべったりと寄り添うのではなく、科学的な知見を平易に表現する、イメージではなく科学的な根拠をしっかりと示し、時には世の中の流れに抗って世間を説得していく役割も担っていくべきなのではないでしょうか? 

 トリチウム水についての報道では、科学的には安全であることを伝えながらも、漁業者の不安の声を伝え、最後にスタジオで「風評が心配されます」といった無難なコメントで締めるというのが定番です。しかし、メディアの仕事は風評を「心配する」ことではなく、「払拭する」ことではないでしょうか。一般の人と一緒になって「不安」を共有するのは、結果として風評を拡散するのに一役買っていると言われても仕方がありません。

 放送には時間的な制約があり、紙媒体にも紙幅の制限があります。それゆえ、根拠を一つ一つ積み上げて報道することにはおのずと限界があります。それよりも、「何となく不安」、「何となく怪しい」といった感覚的なことを街角のインタビュー映像などで出す方が手間もかからず体裁を整えることができます。が、その「何となく」を繰り返してきた結果、メディアの信頼が徐々に落ちてきているともいえるのではないでしょうか?

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 処理水の放出を巡っては、予想通り近隣国から批判の声が上がり、それをそのまま伝える報道も見られる。しかしながら、そうした国々がどのように原発の処理水を扱っているかについては触れていないものも多い。こうした伝え方もまた「外国も危ないって言っている」ということが強調されるため、風評の拡散につながってはいないだろうか。

デイリー新潮編集部

2021年4月16日 掲載

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