「京アニ事件」から2年 なぜ青葉真司の凶行は止められなかったのか 福祉、芸術、文化が果たす役割は

「京アニ事件」から2年 なぜ青葉真司の凶行は止められなかったのか 福祉、芸術、文化が果たす役割は

「令和元年のテロリズム」より(撮影・山谷佑介)

■青葉が過ごしたさいたま市の更生保護施設


 令和元年7月18日に起きた京都アニメーション放火殺傷事件。犯人の青葉真司は、下着泥棒やコンビニ強盗などで逮捕された過去を持つが、凶行を彼の人生のどこかのタイミングで食い止める術はなかったのか。令和元年に起こった象徴的な事件を追うノンフィクション『令和元年のテロリズム』(新潮社)を刊行したライターの磯部涼氏によるルポ。連載第9回。

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 平成28年の年明け、3年数カ月に及ぶ刑期を終えて出所した青葉真司は、さいたま市浦和区K町にある更生保護施設〈S寮〉に入居した。それから半年間、社会復帰の準備をした上で同年7月に借りたのが、前述の京都へ向かうその日まで住んでいた同市見沼区O町のアパートというわけだ。そこで彼は隣人の証言にもあった通り、騒音トラブルなどから見て再び失調していったと考えられる。そして出所3年半後に日本犯罪史上最悪とも言われる放火殺傷事件を起こす。母親にも見放され孤立無援だった青葉と、最後に面と向かって関わったのが〈S寮〉だったということになる。

 更生保護施設は保護観察所から委託される形で出所者を受け入れる民間の寮である。さいたま保護観察所を訪ねたところ、〈S寮〉を担当する保護観察官が「我々には国家公務員法による守秘義務が強く課せられていますので、青葉真司容疑者が同寮に入っていたかどうかを含め、個人のことについては何もお教えできません」と断った上で取材に応えてくれた。「更生保護施設は全国に103箇所あって、入所対象者は身元引受人がいない方、つまり“帰るところがない人”ということになります。入所にあたっては場所の希望を出せるので、やはり服役後に馴染みのある土地に帰ってきたいというのが人間の習性でしょうし、〈S寮〉に関してももともと埼玉県にいた方が入ってくるケースが多いです」。青葉はまさに“帰るところがない人”だった。逮捕時の住居である雇用促進住宅からは既に契約を切られていたし、これまで見てきた通り家族は解体してしまっていた。常総市には更生保護施設はないため、同じく土地勘のあるさいたま市のそれを選んだということだろう。

 更生保護施設への入所後、利用者は同施設で暮らしながら外に出て働く。滞在費は自立後に返済する決まりになっているが、実情としては再犯をしない約束で免除しているため、給与を全て自立のための貯蓄に回すことができる。そのような保護を受けられる期間は最長で半年。ただし、「皆さん早く自立したいと考えるので、3カ月で大体50万円くらい貯めて出て行くのが一般的」だという。「それくらいあれば敷金礼金と最初の家賃は支払え、ある程度身の回りのものも買えますから」。一方、青葉は半年の期間満了まで入所していた。これは彼の自立準備が順調ではなかったことを意味するのか。


■社会復帰する準備は整っていたのか


 保護観察官は言葉を選びながら言う。「更生保護施設は入所希望者に対して充分な数が存在するとは言えません。〈S寮〉も定員は20名で、希望しても入れないことはままある。そのため入所にあたっては面接で更生の意欲、本人のやる気を見て判断します。更に入所後は、本人の今後の生活設計のあり方や、寮内生活でフラストレーションを溜めていないかなどを確認する面談を施設職員が行う。保護観察官も定期的に出向いて、できるだけ状況を把握しようと努めています。仮に施設側が受け入れ続けられないと判断したケースでは、刑務官が『このままだと帰るところがないぞ』と本人に指導をして考えさせますし、別の土地の施設に受け入れをお願いすることもあります」。そのように入所〜滞在の条件として社会復帰の意欲を重視する以上、青葉も当時はしっかりやり直そうと考えていたと見るべきだろう。

 しかし現実に事件は起きてしまった。また、前述したように彼は明らかに失調していた。近年、青葉は無職で生活保護を受けていたという話もある。気になるのは退所時、青葉が社会復帰をする準備は本当に整っていたかどうかだ。もしくは退所後も更生保護施設利用者へのサポートは行われるのか。「何をもって自立と見なすかについては、観念的な話にならざるを得ないことは事実です。彼らが施設を出て自分で拠点を築き、生活の形ができるまでは保護するというルールでやっていますが、そのあとのフォローアップについても課題はあります。例えば高齢の方には老人ホームを紹介するという支援を行うこともありますし、障害を持った方には障害者福祉につなげるようなサポートをします。ただ、我々は司法の一翼を担う機関で、受刑者という存在は刑務所に入るという人権制約を受けている。それが満期で終わったあと、更に本人が“保護してください”という意思がはっきりある場合にのみ更生保護法人での保護が成り立ちますので、こちらでできる宿泊所の供与を終えたら、そこで終わりということになってしまいます」。

〈S寮〉はさいたま保護観察所の裏手にある留置場の横にひっそりと建っていた。施設長はやはり「私の口からは何も言えないんです」と何度も繰り返しながら丁寧に対応してくれた。「基本的にはここを基盤として仕事に就いてもらって、お金を貯めて部屋を借りて出るという流れでやっていますが、今は俗に言う“生きづらさを抱えた人”が多くなっているものですから、退所後の生活に関して福祉とのやり取りが多くなっていることも確かです」。青葉は保護観察官が更生保護施設の入所者の対象として挙げた“帰るところがない人”であると共に、“生きづらさを抱えた人”だっただろう。確かに現状では青葉のような人々を救う取り組みは充分ではないが、それを糾弾する声は最後の砦さえも壊してしまいかねない。「こういう施設は地域からすれば“迷惑施設”ですよね。怖いとか危なそうとか言われたりもする。だから運営するのも大変です。必要性は多分にありますけれども、なかなか地域住民のご理解を得られない。それもあってここは住宅地から少し離れているでしょう。公の建物が並んでいる横で、住民の目に届きづらい場所にある。平たく言えば隔離された場所です。ここを出たひとが大きな事件を起こして、もしこの場所の責任だということになったら、閉鎖になってしまうかもしれません」。


■永山則夫が見た風景


 青葉真司が転々とした北関東の各所を巡りながら連想したのは、永山則夫のことだった。昭和24年に北海道網走市で生まれ、4歳で青森県北津軽郡に移住した永山もまた北日本の風景の中に閉じ込められていた。そしてその中で虐待と言っても過言ではない扱いを受けて育った彼は、やがて家出や不良行為を繰り返した末に、昭和40年、集団就職で上京。それは「N・N(引用者注:永山則夫)にとって、その存在を賭けた解放の投企であった」と、社会学者・見田宗介は「まなざしの地獄」(初出「展望」、昭和48年)で書く。しかし実際の東京は解放感を与えてくれるような場所ではなく、むしろ彼を地方出身者として、貧困者として見る“まなざし”によってがんじがらめにする。

 永山は更にそれを振り切るように香港へと密航を企てるも失敗、嘘で身を固めて各地を転々としながら、結局、横須賀の米軍基地で盗んだピストルで、昭和43年から44年にかけて連続射殺事件を起こす。そもそも見田が「N・Nのかくも憎悪した家郷とは、共同体としての家郷の原像ではなく、じつはそれ自体、近代資本制の原理によって風化され解体させられた家郷である」「いわば〈都会〉の遠隔作用によって破壊された共同体としての家郷」と分析するように、既に日本全体が東京の劣化コピーのようになっており、逃げ場などなかったのだ。そんな永山が見ていただろう風景を辿りながらカメラに収めていったのが足立正生の映画「去年の秋 四つの都市で同じ拳銃を使った四つの殺人事件があった 今年の春 十九歳の少年が逮捕された 彼は連続射殺魔とよばれた(略称・連続射殺魔)」(昭和44年制作、昭和50年公開)であり、スタッフとして関わった映画批評家の松田政男を中心に展開されたのがいわゆる「風景論」である。松田は「ひとえに、風景こそが、まずもって私たちに敵対してくる〈権力〉そのものとして意識された」「おそらく、永山則夫は、風景を切り裂くために、弾丸を発射したに違いない」(初出「朝日ジャーナル」、昭和44年)と書いた。


■テロリズムとしての犯罪


 永山は収監後、文学や哲学、経済学の本を貪り読み、文章を書き始める。それは言わば上京によってなすことができなかった生き直しへの再挑戦だった。彼はそういった試みが許される環境に満ち足りたものを感じる。「こんな呑気に文章を綴っている状態を幸福というのではないだろうか? 安ぽいかも知れん、でも、今までを振返ってこのような境遇には出会ったことはないし、充分に考えられる時間はなかったから、私には幸福といえる。今は誰からも意識されていなく、誰へも激情を傾注させていない――それだから、私なりの幸福感を満喫している。ここには、何の葛藤も紛糾もありはしない。このような状態で逝けるのなら……人生ってなんて素晴らしく意義あるものなのだろうと思うな。人間という物は、考えられる時間が有るのなら、……幸福だというべきではないだろうか。そうなんだ! 私は今仕合せなんだ!」(*10)。永山は4人の人間を殺すことで収監、自分を縛ってきた“まなざし”から解放され、逆説的な自由を手に入れたのだ。

 また、独房での読書と執筆を通して改めて自身を見つめた彼は、事件について以下のように評している。「私には目的がなかった――と世間ではいっている。果してそうであるのか? 私から観ればあったのである。……あなた達(引用者注:家族)へのしかえしのために、私は青春を賭けた。それは世間全般への報復としてでもある。そしてそれが成功した」(*11)。つまり彼は自分が犯した罪を、個人的=社会的なメッセージを持つテロリズムだと認識するに至った。しかし見田はその被害者が永山と同じ一般の労働者だったことを指摘する。「N・Nの弾道がまさにその至近距離の対象に命中した瞬間、N・Nの弾道はじつは永久にその対象を外れてしまった。ここに体制のおそるべき陥穽はあった。そうしてのちに、行為のあとでそのことを知ったN・Nの痛恨はあった」。永山は書く。「私という人間が恐い、そう思えてならない。ある一つの物に燃え狂い、自制が効かないのです」(*12)。平成9年、永山則夫は絞首刑に処された。

*10 永山則夫『無知の涙』(合同出版、昭和46年)。ここでは見田宗介「まなざしの地獄」の概要を紹介する趣旨もあって、同論考より孫引き。
*11 同上
*12 同上


■「芸術/文化はひとを救うのか」


 永山がその少年時代より、自身を閉じ込めていた“風景”を突破しようと試み続けたのに対して、青葉は同じ“風景”に留まりもがき続けていた。それは集団就職の時代と就職氷河期の時代の違いでもあるだろうし、青葉は飛躍するよりも何とか真っ当な道に進もうとしていたということでもあるだろう。そして家族が崩壊し自身も失調していく中で、青葉を包摂したのは雇用促進住宅や刑務所、更生保護施設、生活保護といった日本の法制度だった。罪のない4人を射殺した永山が収監され自由を感じたように、理不尽極まりない理由で69人を殺傷した青葉は、国か自治体が負担する1千万円超の費用をかけて最先端の治療を受け、「人からこんなに優しくしてもらったことは今までになかった」と感謝の言葉を漏らした。故郷の人々を含め、国民の多くが助ける必要はないと言うが、彼はこれから手厚い精神鑑定と裁判を受け、そして恐らく処刑されるだろう。今、青葉は国家に抱きしめられ、温かさの中で微睡んでいる。

 あるいは青葉の半生を辿りながら考えたのは、「芸術/文化はひとを救うのか」ということだった。自分はこれまでライターとして、鬱屈して生きてきた若者たちが芸術/文化に救われる様子をたくさん見た。例えば拙著『ルポ川崎』(平成29年、サイゾー)で取り上げた、BAD HOPという川崎区で平成7年に生まれた幼馴染が中心のラップ・グループは、同地区の不良少年が陥りがちな閉塞感から、音楽の力によって抜け出した。平成30年には武道館公演を成功させ、今や日本を代表するアーティスト集団になっている。しかしそれは彼らに才能があったからできたことだろう。中1男子生徒殺害事件の犯人グループはBAD HOPの後輩にあたる少年たちだったが、地元の不良の強固な上下関係から弾かれたため小さな上下関係をつくり、こじらせ、仲間内でリンチに至った。彼らは日々、ゲーム・センターで時間を潰したり賽銭泥棒のようなちんけな犯罪を繰り返していたようで(*13)、その鬱憤を昇華させる回路を持っていなかった。永山則夫が文学を通して自身の犯罪を顧み、賞賛さえ得たのも彼に才能があったからだ。

 一方、同じく令和元年に川崎20人殺傷事件を起こした岩崎隆一の人生が最も輝いていたのは麻雀に打ち込んだ時期だったように思う。その後、彼は芸術/文化というものがほとんど感じられない6畳一間に20年に亘って引きこもり、遂には殺傷事件を起こす。元農水事務次官長男殺害事件の被害者となった熊澤英一郎の場合は、彼を失調させ、面倒を見ていた父親を疲弊させ家庭内殺人に至らせたのは、晩年の時間を費やしたオンラインゲーム「ドラゴンクエストX」におけるトラブルだった。青葉の犯行のトリガーとなったのも小説の執筆だ。芸術/文化が必ずしもひとを救うわけではないことは当然としても、それは時にひとを狂わせもする。果たして青葉は芸術/文化にのめり込まない方が幸せだったのだろうか。

*13 石井光太『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社、平成29年)参照


■北関東と大差ない事件現場の風景


 嘉祥2年、歌人としても知られる公卿・小野篁(たかむら)は熱病を患い朦朧とした意識の中で、地獄に落ちた人々が苦しむ様子を見たという。するとそこにひとりの僧が現れ、自分は地蔵菩薩だと名乗り、語った。「私はこの地獄だけでなく、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上など六道の迷いの世界を巡りながら縁のある人々を救っている。全ての人々を救いたいが、縁のない人を救うことはできない。私にとっても残念なことだ。貴方にはこの地獄の苦しい有様と地蔵菩薩のことを人々に知らしめて欲しい」。夢から覚めた小野篁は木幡山(こはたやま)から1本の桜の木を切り出して6体の地蔵を刻み、この地に納めた。それよりここは六地蔵と呼ばれる――。

 京都市伏見区桃山町に建つ大善寺には、そういった言い伝えが書かれた碑が建てられている。その前を通る府道は、京や奈良へ向かう交通の分岐点として古来より旅人が行き来してきた。しかし現在はロードサイド店舗が立ち並び、風情はない。そして令和元年7月18日午前10時、青葉真司はそこから500メートルほど離れた府道沿いのスタンドで40リットルのガソリンを購入している。古都とはいえ、六地蔵周辺まで来ると風景は青葉が暮らしてきた北関東と大差ない。彼は遠いこの土地に来ても、自らを閉じ込めていたものから逃れられなかったのかもしれない。青葉はガソリンで満たされたふたつの携行缶を乗せた台車を押し、くたびれた風景の中を進んでいった。


■「日常系」の魔法を生み出す場所を破壊


 令和元年7月15日、青葉真司は新幹線から京都駅に降り立った。彼はすぐに宇治市木幡の京都アニメーション本社と、そこからJR及び京阪電気鉄道でひと駅の距離にある第1スタジオに向かったようで、複数の防犯カメラに、眼鏡をかけ、赤いTシャツとジーンズで黒いリュックサックを背負った大柄な男が捉えられている。この格好は事件まで変わることはなく、自宅にスマートフォンを置いてきた青葉は、着替えさえ持たず飛び出してきたようだ。彼の姿が確認された一帯は京都アニメーションの近作「響け!ユーフォニアム」(平成27年〜)の舞台のモデルとなっており、それらのスポットを回るいわゆる聖地巡礼をしていたのではないかという見方もあったが、ファンが一般的に辿るルートからは外れていると疑問を呈する声も上がった。そもそも京都アニメーション関連施設の周辺を歩いていれば自然と“聖地”を巡ることになってしまう。

 アニメーション研究家の津堅信之は京都アニメーションの作品の特徴として挙げられる“日常系”という方向性を、ドイツの劇作家=ベルトルト・ブレヒトが提唱した“異化効果”や日本のアニメーションの第一人者だった高畑勲が使う“再印象”という言葉と比較しながら、ごく普通の日常を繊細に描くことでその特別さを認識させるものだと分析する(*14)。“聖地”化も同じ力学だろう。そしてそれは永山が銃弾を放った、均質化された日本の風景に想像力で抗う芸術運動だったとも言える。例えば前述の「響け!ユーフォニアム」では大化2年にかけられ、日本三古橋に数えられる宇治橋のような名所も登場するが、六地蔵駅前の何の変哲もない横断歩道も美しく描かれる。京都アニメーションの美学を通せば、青葉の住んでいた北関東の風景も輝いて見えたはずだ。しかし彼はその魔法を生み出す場所を破壊するためにガソリンに火をつけた。

 15日の夜、青葉は京都市内のホテルに泊まり、16日は京都駅前のインターネットカフェに2時間ほど滞在。そしてまた京都アニメーション関連施設を偵察し、夜はやはり同じホテルに宿泊。17日の午前中には宇治市内のホームセンターで台車や携行缶、バケツなどを購入。そういった京都での行動を追うと衝動的というよりは淡々と、入念に犯行の準備をしていたようにも感じられる。その日の夕方、青葉がやってきたのは京都市伏見区桃山町の桃山舟泊公園だ。そこへ向かって京阪・六地蔵駅から線路沿いに歩いていく途中、土地が低くなっている右手の方向に京都アニメーションの第1スタジオが見える。横にはモデルハウスがあって、光り輝く未来を提示している。夜の公園からは、暗闇の中にぼうっと浮かび上がる件のガソリンスタンドが見える。青葉が選んだ未来はそっちだった。事件前夜、青葉は公園の端にぽつんと置かれているベンチで寝た。彼はどんな夢を見たのだろうか。

*14 津堅信之『京アニ事件』参照

2021年7月17日 掲載

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