「日航機」御巣鷹山墜落 搭乗を間一髪逃れた人々がその後の人生を語る

「日航機」御巣鷹山墜落 搭乗を間一髪逃れた人々がその後の人生を語る

日航機墜落"逃れた人"の人生

「日航機」御巣鷹山墜落 搭乗を間一髪逃れた人々がその後の人生を語る

墜落したJA8119(Harcmac60/Wikimedia Commons)

■「日航機」御巣鷹山墜落 死神から間一髪逃れた「キャンセル・リスト」の後半生(1)


 昭和60年8月12日、「日航機」が御巣鷹山に墜落して520人が犠牲となった。その一方で、搭乗を回避し、「死神」から間一髪逃れた人々がいる。当事者らが初めて明かす、その後の人生とは。

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(週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪より)

 その日、釣りライターの大西満(75)が経験したことを「運」の一言で片付けられようか。なにしろ何度振り切っても、死神は先回りするように彼の元を訪れたのだ。

 昭和60年(1985)8月12日の早朝、大西は御巣鷹山からわずか五十数キロの距離にいた。群馬県前橋市の利根川で、約40人の釣りファンを相手に鮎釣りの講習会を開いていたのである。講習が始まったのは7時。まさか12時間後にジャンボ機が墜落するなど予想だにしない穏やかな朝だった。天候は悪くなかった。が、川の濁りが気になっていた。数日前に降った雨の影響だった。

「当時教えていた“泳がせ釣り”という新しい釣り方が、評判になっていたんです。これはオトリ鮎を自由に泳がせ、それに刺激を受けた鮎が喧嘩をしかけてくるところを釣るというもの。ただ、濁っている川では鮎同士が見えにくく難しいのです」

 そんな事情から、当初15時まで行なう予定だった講習を、1時間ほど早く切り上げることになった。

 帰りのチケットは、念のため19時35分発の「羽田発伊丹行き最終便」を取っていたが、

〈これなら1時間以上早い便に乗れるかもしれない〉

 と大西は思った。ところが、講習会を主催した釣具店で帰り支度を始めていると、店の常連客が入ってきた。

「釣り竿が壊れたんだけど、どうにかならないかな」

 見ると、ラジオのアンテナのように伸縮するはずの竿が、伸縮部分が固着して収納できなくなっている。

 普通なら、修理は店主に任せて帰るのだが、メーカー名を見て手が止まった。

「『がまかつ』だったんです。私はがまかつとの間で、製品を試して助言したりするテスター契約を結んでいたので、自社製品みたいなもの。知らんふりできませんでした」

 修理すべく竿を触ったが、びくともしない。「メーカーに任せたら」という言葉が喉元まで出かかったが、となると約1カ月間、釣りができなくなる。それも可哀そうだ、と思いながら試行錯誤していると、ある瞬間、ストンと収まった。

 客は喜んでいたが、時計をみたら30分以上経過している。それでも急げば早い飛行機に乗れると思い、高崎駅から上越新幹線に飛び乗った。途中、妻に電話をし、「少し早い6時ぐらいの便で帰る」と伝えた。


■“残念やなあ”


 羽田空港に着いたのは17時半頃。18時発のJAL123便はあいにく満席だったが、あわよくばと、空席待ちの列に並ぶことにした。

 当時は、チェックインカウンターとは別に全路線の空席待ち専用窓口があった。そこで発行される路線別の整理券を受け取ったあと、チェックイン・ブースで待つという流れである。

 大西が手にした整理番号は5番。手荷物を2つ持って並んだ。見上げると、運航予定を示す案内板の〈18時発JAL123便〉のところには、“案内中”のランプが点滅していた。

 空席待ちの客が呼び出されるのは出発の20分前、つまりチェックインを締切ったあとである。

 大西は、空席待ちの客が1人また1人と呼ばれ、手荷物検査場に吸い込まれていくのを眺めながら、自分の番号が呼ばれるのを待っていた。だがしばらく後、「空席待ちのご案内は以上です」と宣告された。

 次の瞬間のことは今でも鮮明に覚えている。

「僕のすぐ前の人で、ぎりぎりで乗れなかった男性と顔を見合わせて苦笑いをしたんです。“残念やなあ”と言い合って。50代の丸顔の人だったと思います」

 当時大西は45歳。「若気の至り」と振り返るが、何としてもその便に乗りたかった彼はあきらめきれず、その場にいたJALのグランドホステスに悪態をついた。

「飛行機というのは、VIP用に2席ぐらい空席を用意していると聞いたことがある。何とかならんのか」

 しかし、相手は曖昧な笑みを浮かべたまま、「満席です」と繰り返すのみ。大西は、空席を待っていた客のうち3人が搭乗したのを確認している。あと30分早く空港に着いていれば自分が乗客になっていたかもしれない。大西は仕方なく、次の伊丹便である18時30分発「東亜国内航空207便」に搭乗。同機はトラブルもなく伊丹空港に着陸した。この時、すでに123便の機影消失の速報がテレビで流れていたが、少なくとも大西の耳には入っていない。


■「助けられた命」


 何も知らないまま、駐車場に停めておいた車で、大阪・寝屋川市の自宅に向かった。だが、その頃、近所では大騒動になっていた。

「その日、踊りのお稽古を公民館でやっていたんです。“主人が乗っているかもしれない”と話すと、“踊っている場合やない”と言われて。みんなとうちに引きあげてきて、近所の人に空港に送ってもらおうかと相談していたんです」(夫人)

 そこに当の大西が帰還。

「近所の7、8人が拍手喝采で迎えてくれるんです。“ワー、帰ってきはった”と。何事やと思ってね。そしたら飛行機落ちたと。振り返ると、ほんまに紙一重のところをくぐり抜けてきたなと。もし釣り竿の修理をしてなかったら、あるいはもっと強くクレームをねじこんで、万が一、席が取れていたらと思うとね」

 こう話したあと、大西は「そういえば……」と、あることを語り始めた。

 それは日航機墜落事故から1年後の7月のこと。三重県で釣りをした帰り、後輩が運転する車が奈良県の山中で交通事故を起こし、助手席で寝ていた大西は重い脳挫傷を負って、意識不明の重体になった。一時は、「植物状態になることも覚悟してほしい」と言われるほどだった。

 担ぎ込まれた山あいの病院には普段、脳外科の専門医は常駐していないのだが、その日は偶然専門医が当直していた。その医師の点滴治療が著効を示し、奇跡的な回復を果たすことができたという。

「私の意識が戻らないとき、知人の紹介で家内が奈良の真言密教の寺にお参りにいったんです。そこで住職に、“ご主人の足を誰かが引っ張っているから大丈夫”と言われたと。信心深いほうではないけど、妙に説得力があってね。だから助けられた命なんですよ」


■「ついてないなあ」


 その大西の2人後ろ、空席待ち整理番号7番を持っていたと思われるのが、神田敏晶(53)である。ITジャーナリストの彼は、事故当時はワイン・マーケティング会社の社員だった。

「社会人になって初めてのボーナスをもらったので、少し奮発して飛行機で帰省しようと思ったんです」

 当時の新幹線は東京―新大阪間が1万2100円(自由席)なのに対し、飛行機は羽田―伊丹間1万5600円と3500円割高だった。

 しかし思い立ったはいいが、チケットさえ取っておらず、空港に着いた当日16時前後は、JAL17時発、ANA18時発、JAL18時発はすべて満席だった。

 学生時代はバックパックで世界中を旅していたので、3便もキャンセルを待てば乗れると高をくくっていた。しかし全滅。

「ついてないなあと思いましたね。計画性のない自分を呪うというか」

 下調べしていなかったからか、18時発が最終便だと勘違いしていた。それで東京駅へとって返し、新幹線で帰郷した。当時は新幹線車内に文字ニュースが流れるサービスはない。日航機事故を知ったのは、友人と夜通し飲んだ翌日昼、二日酔いの状態でテレビを見たときだった。

「ショックで、ずっとテレビを見ていました。母が“よかったなあ”と言っていたのを覚えています」

 不思議なことに神田は、その後何度か大きな災害や事件に巻き込まれたりしながらも、事なきを得てきた。

 平成6年(1994)の米ロサンゼルスで起きたノースリッジ地震のときは、フリーウェイが落ちるほんの30分前にそこを走行していた。その翌年の阪神淡路大震災のときは神戸市におり、自宅は半壊したが命からがら逃げ出した。

 さらに平成13年、米国同時多発テロ事件が起きた日には、取材場所として、ワールド・トレードセンターを打診されていた。

「考えてみたら、こうした事故で命を落とされた約1万人の犠牲者の代わりに生かされているんだなと。その人たちの分まで生きなければ……。そう思ってこれまで生きてきたのです」

(文中敬称略・年齢は本誌掲載当時のものです)

 ***

(2)へつづく

西所正道(にしどころ・まさみち)
昭和36年、奈良県生まれ。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』『そのツラさは、病気です』、近著に『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』がある。

「週刊新潮」2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪 掲載

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